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【病棟生活】


「看護婦殿」と
母上姉上?

三合里病棟 白衣時代


 昭和21年1月2日発疹チブスで入室(収容所の中の病棟に入ることをこのように呼んでいた)してからは体調が完全に狂い、嫌いな病気が次から次と自分勝手に集合付着解散を繰り返した。
 特別に病名のない栄養失調(単に栄失)ということで、シベリヤより北朝鮮に転送されてから、富寧では赤痢、平安南道大同郡三合里面(平壌の郊外)の廠舎ショウシャに落ち着いてからは、
 ・かいせん(皮膚の一種、ひぜんともいうようだ)
 ・黄疸
 ・マラリヤ(三日熱……隔日に発熱していた)
 ・胃けいれん
と、断続ながらもよくつづいていた。

 この中、「かいせん」の時は、中隊より隔離され、天幕生活をさせられた。
 硫黄風呂に毎日入っていたら、1週間もしないのにきれいに治った。第二伝染病棟を退院する時交換した毛布が、その有力な伝染源だったように思う。
 かいせんと黄疽は、同一時期だった。

 天幕生活の時にかいせんも黄疸も治癒はしたが、天幕生活では、地面より水分が上がるため、敷物のむしろがすぐにじめじめしだし、弱った体に冷えこみの追い討ちをかけられ、往生した。

 マラリヤで病棟に入れられた。病棟では、旧関東州、大連の日赤の看護婦さんが患者の看護に当っていた。
 マラリヤは病気の中でも特長のある気で、熱の出る日時が予測できた。逆にいうと、熱のない時間帯も予測できた。
 その熱の出ない、つまり、平熱の時に、水筒にお茶を入れて置いたり、タオルを濡らした。熱が上昇して悪寒によってふるえだしたら毛布を重ねて上から押さえてもらうよう隣の人に頼んだりして、発熱にそなえることができた。

 ここの看護婦さんは、皆、男まさりで、外観ににあわず力があり、患者と、その人の装具をいっしょに積んだ担架を2人で、いとも軽々と搬送していた。
 夜は不寝番の看護婦さんが注射したり、夜盲症患者用の黄粉を配ったりした。
 この看護婦さん達は、昭和21年末の三合里収容所最後の患者部隊といっしょに帰国したはずである。

 悪名高い「コレラ」が終了し、再び収容所がもとのくらしに返り、待望の帰国通告が出た時に、歩ける恵者はどんどん退院してもとの中隊に復帰した。
 いくつかの病棟を閉鎖し、患者の数を減して帰国の態勢を整えていたから、この看護婦さん達も兵と同じく帰国の準備で多忙の毎日だったろうと思う。

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キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
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