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50.昭和21年11月中旬 根深い対ソ不信感

 昭和21年11月中旬
 噂の中心的存在だった復員の情報が一段と本格的になりだし、具体的に帰国の際の所持品(最初は水筒、飯盒、雑嚢、風呂敷などの28品目だった)並に、服装についてもソ軍側より通達があった。
 ソ軍側より指示のあった復員の際の衣服については、示された予定表に従って支給が開始されだし、形だけはいつでも出立できる態勢になった。

 支給品は勿論のこと旧日本陸軍の物資。1人について1品のみ古い衣服で、それ以外は全部新品の防寒帽、防寒短靴(下士官以上は防寒長靴)、防寒大手套、防寒脚絆、防寒水筒覆、防寒飯盒覆等の防寒用具一揃いだった。
 昭和20年のシベリヤ輸送のときの服装と違っていた点は防寒外套は全員にはなくて普通外套の人もいたことと、防寒襦袢、防寒袴下、防寒手套(字の順に書くとシャツ、ズボン下、手袋のことで、これらは毛糸で編んであった)など、肌に近く着るものが一品もなかったことである。

 そして下士官以上には普通外套を引き上げて、防寒外套(ノ口の毛皮が内側に張ってあった。シューバーともいっていた)、防寒短靴の代わりに防寒長靴、また兵も含めた全員に夏物とか冬物とかの区別なく1人に3枚ずつの襦袢と袴下(シャツとズボン下のこと)。1人に3足の軍足(靴下のこと)、タオル2本、夏の衣袴1着(夏服の上下を1着ということ)、軍衣袴1着(冬服の上下のことをこのように呼んでいたようだ)、毛布1枚、略帽(俗にいう戦闘帽のこと。これに対して正帽といって儀式とか外出のときに着用していた帽子もあった)編上靴(一般の兵が使用していた皮靴)または地下足袋の支給があった。
 また、水筒1個、飯盒1個、雑嚢1個、背負い袋1個、巻胖1個を各人ごとに所持するよう指示がだされ、それだけの員数のない者には別に支給された。

 そしてそれらの品々以外の、つまりソ軍側より支給はしていないが持っているもので、指定品目外の員数外品目として戦友の遺品とか遺骨などに準ずるもの、糸、針、糸巻(軍用品で皮製、復員のときに持って帰った)、煙草入れ、住所録、箸袋、ナイフ、財布、印鑑、御守りさん、マスク、手套(手袋のこと。毛布をといてその太い糸で手袋を編んだりしていた者もいた)、薬品類、鉛筆、マッチ、手製のパイプなどを認めるとか、実に詳細にわたり通達があった。

 そして所持して帰国してはいけない品目として地図類、コンパス、写真(シベリヤとか北朝鮮の写った写真のこと、日本の内地で写した家族の写真は別である)、日記の類、ソ連のお金、北朝鮮で使用していたソ軍の軍票、その他ソ連民間人の使用していた器財、携帯天幕や毛布を利用して作った襦袢や物入れ(シャツとか肩鞄を作ったりする者もいた。帰国の話がでるまでは別に何の注意もなかったのに、帰国の準備が始まると急にこれらの改造手芸品等についてはうるさくなってきた)などであった。

 所持帰国禁止の品物……被服の縫い目を解いて日記を縫いこんだり、写真を襟の中に入れたり、お守り袋や煙草入れ、箸袋などのように所持帰国許可の品物の中に隠したりした。また、背負い袋(リュックサックのこと)の紐を太くして縫いこむ方法などお互いによく研究し公開した。
 こんなこと、そのときにソ軍側に知れていたら軍法会議に回されるところであったろうと思う。
 私は興安嶺の戦闘のあとで入手した「使用済郵便切手」は、防寒短靴の底敷をフェルトと薄皮の2枚敷にしてその間に挿み、武装解除の朝、抜きとった三八式歩兵銃の小銃弾の銃弾とソ軍の拳銃弾の銃弾は、靴のつまさきのところに押しこんだ。
 防寒短靴はハンカチ大の毛布を足に巻いてはけるぐらいのゆとりがあったからこんなことができた。もし、帰国が夏季の場合だったら隠す場所が少なくて困ったことと思う。

 毎日のように中隊の被服係が運びこんでくれた新品の装具や被服に、すぐ名前を糸で縫いこんだり(糸は軍手を解いた糸を使用していた)、釘で刻みこんだりした。

 11月中に退院確実という兵の所属は中隊の方になっていたから、各人ごとの支給品はその退院してから配属になる中隊の被服係が、病院まで帰国に関する雑多なニュースとともに運んでくれた。
 病棟の方はとかく中隊よりも支給が遅れており、中古の装具が支給になったときには特に程度のよくないのが回されているらしかった。

 その支給品に対する陰のぶつぶつ声よりも、取り越し苦労かもしれないが、防寒用具がほぼ完備してきた様子からして不穏な噂が飛び交ってきた。
 防寒のための肌着類は1点も支給はされなかったけれども、現在までの装具で零下30°ぐらいまでだったら充分耐えられるから(旧関東軍の防寒装備では零下80°までは保証付きだと聞かされていた)多分、ウラジオストクあたりの暖かい地区へ移送されるのではないかという新説が収容所内のあちこちでささやかれだした。
 兵たちの言い合うこの噂に対して、威厳を保つべき日本軍の将校でさえも、その答弁はしどろもどろだった。

 ソ軍側よりの通達にしても支給品にしても、復員するための準備としての具体的な対応のはずだった。それに対して日本兵の受けとめは、まず一番に「帰国は本当かいな?」というのが本音だった。

 無理もないこと。
 今まで何回欺かれ、何回期待を裏切られてきたことか。
 骨の髄までしみこまされてきた『対ソ不信感』。
 いざ故郷へ帰すといわれても、にわかには、その言、信じ難くというのは、兵に限らず特校連中の胸の中にもあったようだ。

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キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
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