43.昭和21年7月4日 富寧着 朝鮮人への不信感
昭和21年7月4日 富寧着
ソ軍側の軍医による診断があって、健康な者は7月3日平壌に向って出発した。この部隊の一部が咸興で下車しており、昭和22年の帰国前までいた。
重患者は古茂山の病院に入院し、私のように特に元気ではないが重病人でもないという弱兵だけは、2里ばかり歩いて隣の町富寧の旧朝鮮鉄道の職員官舎に行かされた。暑い夏の日ざかりに毛布1枚と飯盒の入った袋をもって、ふらふらしながら皆といっしょに歩いた。
途中で出合う朝鮮人は口々に「日本人死んでしまえ!」とか「殺せ!」と怒鳴ったり、すれ違ったトラック上の労務者の一団は私達の隊列に唾をはきかけてきた。また、ひどいのになると隊列に石を投げていた。
私達がいままで考えたり思っていた朝鮮人のイメージは、このときの行軍の際のできごとにより完全に一蹴。
「畜生、朝鮮、いずれ折があれば!」と、誰もが憤激の感を深くしていたのも無理のないこと。
帰国することになってきた頃、体もだいぶ回復していたが、燃料の薪採集のときの無茶苦茶な畑荒しも、偶発的なできごとばかりでもなかったように思う。
もう余命いくばくもない戦友のために、りんご、ねぎ、朝鮮味噌、卵などの栄養のあるものを求めようとして、手袋とか靴下などをだして物々交換の商談成立の寸前に「日本人には売るな!」と、旧日本軍の兵器で武装している頑固な青年層の保安隊に邪魔をされて入手できなかったこと、今でも忘れ得ない残念なこと。
飼犬に手を噛まれたという諺があるが全くそのとおり。
日本人の教えた日本語によって「死ね!」とか「殺せ!」とか怒鳴られもした。日本軍隊の方式をそのまま真似し、錆つかせた三八式歩兵銃や将校の軍刀を手にしたりしている保安隊を見るにつけても、断腸の思いがした。
あの三八式歩兵銃に刻みこまれた菊の御紋章は伊達ではなかったはず。
あの菊の御紋章は、祖国日本の安危を担い、あの陰には1億の日本国民があり、10億の東洋民族(【八紘一宇】という物の考え)が、まがりなりにも枕を高くして寝られた。……?日本中心の考え
作戦中に雨に打たれた三八式歩兵銃の「遊底覆」の上部の菊の御紋章に宿っていたわずかなひと滴の水滴さえも無意識のうちに拭き取って錆つくのを防いだりしていたことなど、戦後の民主化した日本人には不可解なことに思えるだろう。
古茂山、富寧の町を歩くと、全く、内地の平和な時代を呼びおこさせるような食堂、百貨店、一杯屋などの店頭風景が見られ、出入りしている人影によりいっそう故郷の空を懐かしく思いだした。
富寧の生活は実に単調そのもので、使役といえば炊事の燃料用の薪取りと、たまに思いだしたようにカーバイト工場に行くぐらいのことが営外作業だった。
営内作業も炊事のまき割りぐらいなもので特別な大作業があるわけでもなかったから、手頃な材料を見つけだしてきては袋物や財布などを作ったり日光浴をしたりして割合とのんびりしていた。
しかし、給与の方はさっぱりで、とうもろこし(ポーミーと呼んでいた)が9割に米が1割というのがその主食だった。1週間か2週間に1回ぐらい、食べたらきっと下痢していた水飴が支給された。
かびの生えていたこともあるこの馬料のポーミーには、下痢患者が続出して誰も一様に食欲をなくし、暑いときではあるし、副食につけてあった1日に1人について1匹の塩めんたいというのは、塩辛いばかりのことであってそれを全部食べた者の中には体のはれてくるのもでてきた。
そのため、ここにきてからようよう元気になりかけた者でもばたばたと就寝してしまい、アミーバー赤痢や壊血病、強度の貧血症や栄養失調などに逆もどりした。
往復で1里(約4km)あるかないかぐらいの距離の薪取りの使役にしても、体力がないため気力もなくなりかけていて誰もやりたがらなくなり、口論の中心になった。
昭和21年10月頃、ソ軍側の長官が交替させられ、それ以後の給与は少しはよくなり、ポーミーが姿を消して高梁が入ってきたそうである。それにしてもこの古茂山地区の給与は、平壌地区よりは全てにわたり劣っていたようである。
営外作業で外に出たとき、員数外(支給品以外の数のこと)の襦袢(シャツのこと)や袴下(すててこのこと)を持ちだし、朝鮮人の子供や婦人がロスケの警戒兵や保安隊員の眼をかすめて交換や売りにきている白菜、大根、ねぎ、にんにく、朝鮮味噌、塩さば、煙草などとかえて帰営していた。
それらの品々を収容所の中央を流れている小川で処理しながら、交換の状況やその交換の率など互いに知らせあった。
ソ連の地方人は日本兵さえ見れば「ムイロー、イエス。」(石鹸はないかということ)だったが、北朝鮮では手袋、靴下、シャツなどのように、とにかく衣類でさえあればすぐに彼等の隠しもってきた品物と交換することができた。
ロスケの警戒兵は売買している現場を見つければうるさいけれど、交換したり買った品物を堂々とぶら下げて歩いていても別に変な様子はしなかった。
ここでの貨幣の流通機構がありがたいことに、日本紙幣はもとより朝鮮銀行券、ロスケの軍票の額面金額も同等に使用することができたことである。
満洲国の紙幣は、額面の金額100円がここでは50円~70円ぐらいな割り合いで通用していた。
ロートル連中の中にはたしなみのよいのもいて、彼等は衣服の中に多額の紙幣を縫いこんでいたりしていてずいぶんと用立ててくれた。
シベリヤの収容所の病棟に入室しているときに、分隊長の吉高兵長さんが便所の紙に使えといって持ってきてくれた満洲国の紙の札束のことがありありと思いだされてしかたがなかった。
私の持っていたお金や同じ分隊の隊員が病気のときにくれた便所紙用の満州紙幣と、吉高兵長のくれた紙幣とを合計すれば500円以上※の額にはなっていたと思う。
※当時の日本国内の貨幣価値は、県立中学校の校長先生の月俸が80円といわれていた。そのときの500円といえば、県立中学校長先生の約半年分の俸給にあたる。
シベリヤでソ軍側に没収された100円札を除いても、便所と煙草の巻き紙、鼻紙になったお金は、私のいた第14大隊だけでも数10万円か数100万円か、想像以上の多額になっていたことと思う。
札の額面の価値ではなく紙の価値として消耗していったそれらの紙幣は、結局のところ、その所を変えてコルホーズの肥料になっていったことになる。
ここ富寧の収容所には、ガダラ病院の下番者や、チエノフスカの第14大隊の収容所にいた者、ヒイロク市の1936病院にいた人など顔見しりの病弱者が多数いた。
それぞれに「清水隊」、「富田隊」、「斎藤隊」などに分散した。
中隊の指揮班には島根県出身の片岡少尉や、県立大田中学校の柔道の先生だった中野仲秋先生と日本体育専門学校(のちの日本体育大学)で同期だったという臼井中尉などがおられた。
また私の分隊には、西浜村(後の湖陵町差海の人)出身の桑原班長(兵長)以下、私も含めて3名も同県人がいて何かと助け合うことができた。
片岡少尉さんよりもらっていた葉煙草は、2か月間の長い間も不自由することなく、あとで平壌に移動してもまだしばらくはあった。
終戦のときよりそのままここにいる将校の一団や、北朝鮮、元山航空隊の海軍関係の兵とか、シベリヤの各地に分散していた収容所よりの移動兵とかが集まっていたために、終戦時の各方面の戦況とかシベリヤの扱いや労働状況など各方面の状況が分ってきた。
北朝鮮の清津地区では、ソ連が参戦と同時に小部隊が上陸作戦を決行してきたそうである。
ところが、第1回目の上陸作戦をしかけてきた時には、これを迎えた日本軍は上陸してきたソ軍兵を1兵も残すことなく全滅させ、凱歌を挙げることができた。
しかし、これはどうもあまり大規模なものではなくて、日本側の対応をみるための偵察が主であったらしく、第2回目の上陸作戦をしかけてきたときには艦砲射撃と空軍機による威力を最大限に発揮し、しゃにむに上陸を敢行した。
万止むなく、とうとうソ軍の上陸作戦を成功させてしまった。
そして停戦になると、このときの上陸作戦に応戦した日本軍側の部隊は戦犯第1号部隊として将校も武装解除の際に軍刀を没収されてしまった。その上に、これらの部隊は昭和20年の8月末にはシベリヤ移動の第1陣部隊になっている。それによっても、この時のソ連軍は相当な痛手を受けたことがうかがえる。
病気になったためこのときのシベリヤ行き第1陣から離されていた滋賀県出身の上山庄助兵長が語っていた生々しい体験談には力が入っていた。
私のいた収容所のように1500名の中300名ばかりの死者を出したところ、1500名の中1300名もの死者のあったところ、そうかと思えば1500名の中、死亡したのは10名もいなかったという収容所もあった。
また給与にしても、よいところ悪いところなどいろいろだった。特によかったというのは特殊な環境にいた者だけだったようである。それにしてもここ「富寧」よりも悪かったという者は1名もいなかった。
その上に、ここ「富寧」など古茂山地区のソ軍兵は日本軍と上陸作戦の際に一戦を交えて上陸した部隊であるとか、よその地区ではみられない粗暴な気風が感じられた。
また、この地区のソ軍側の司令官というのがよほど神経質だったらしく、武器もない日本兵であるのに警戒だけはいやが上にも厳重だった。
「古茂山」から、夕方「富寧」まで徒歩で移動して収容所に入ったその直後、周囲に張ってあった縄張りを1歩またいで、夕食用の「したし」にするつもりで「あかざ」を取ろうとした日本兵が、その場で狙い撃ちされた。
連続した射撃音とともに1名即死。1名は確か足に命中するという事故になった。
ソ軍側にしてみれば「軍律による処置」という一点ばりで日本軍側の抗議をみごとに一蹴したつもりでいただろうと思う。だがソ連に対して、日本人の悪感情を益々つのらせていることには気づいていなかったようである。
富寧の収容所は周囲に有刺鉄線はなくて、2mぐらいの高さの板塀がめぐらしてあって、その板塀の内側と外側に、1間ぐらいの間をとって縄が張ってあった。だから、みたところ逃亡しようと思えばできそうな状況だった。
その板塀のところどころに、夕方になるとソ軍の兵士がカーバイトに火をつけて回った。その火が入ると、宿舎から出て屋外で火を使うことはもとより他の宿舎への出入も禁止されていた。
日本の将校の話では『満洲国の南部にいる関東軍の残党の動きがあることと、北朝鮮に駐留しているソ連軍が大工事を計画しているために、この地区では特にソ軍側の軍規がやかましいのだ』ということだった。
私達がここにくるまでに、板塀に身を乗りだしたまま射殺された日本の逃亡兵の姿はあさましくもあって、ソ軍兵の残酷さよりもロスケのマンドリン(自動小銃のこと)の標的となって散ってしまった故人の道義の薄さに対しての憤激が強かったそうである。
それにしてもここでは終戦以来ずいぶんと逃亡に失敗して射殺されたそうである。シベリヤでは逃亡してもすぐに捕われてしまい、もとの収容所に連れもどされていた。
しかし、ここでは北朝鮮側の保安隊とかソ軍の方で銃殺されていたようである。逃亡兵があると、もとの収容所にはそのことの通達があったこともあったようであるが、逃亡兵は1人としてもとの収容所には帰ってきていないということだった。
シベリヤでは、あとになってから逃亡兵はソ軍側の軍法会議にかけられ懲罰大隊※に入れられたりしたそうであるが、いずれにしても逃亡兵は誰も殺されてはいなかった。
※懲罰大隊
ソ軍側の意にそわなかった兵とか将校を収容していた、ソ軍側のための再教育の場。旧日本陸軍の憲兵、特務機関員、防疫給水班とか作業隊に入っていて、その作業を怠けていた者や逃亡兵(脱走兵ともいっていた)などが一定期間収容されていたようである。
逃亡兵の手口は、薪採集のために山の中に入ったとき、近よってきた現地の朝鮮人に逃亡の手助けをしてやると言葉巧みに隊より連れだされ、民家まで行きつくのである。そのあとは「日本兵が逃げて隠れている。」と密告され、すぐに捕って銃殺されていたようであった。
このようにして、自分本位な思慮の浅い日本の逃亡兵(これらは誰からも同情されることなく見捨てられていた。逃亡兵が出たあとの残された部隊では給与の格下げ、厳重な警戒態勢にありつくだけのことしかなかった)は、大切な自分の命を捨てていた。
一方、日本兵をおびきだし、それを密告しては賞金を手にしてほほえんでいたであろう朝鮮人は、彼等からみれば救国の民族のはずであるソ軍側からも、その国民性に対してある種の疑をいだかせだしたようであった。
私達が感じていた、そのような北朝鮮の朝鮮人とソ連軍との相互不信は、あとになってから、やはりそうだったと思うようなことにたびたび出くわした。