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【しらみ】


「やあ、いたいた一ヶ中隊」
「おいおいそこいらに落とすな」

話の種なら面白くもあろうに
ばたばた倒れし友また友
吾も倒れし発疹チブス


 収容所では10日に1回、一般市民の大浴場で入浴、洗顔は水のあった時だけタオルで拭くのみ、昼も夜も同じ衣服でごろ寝、便所に行っても手を洗う水はない。下痢の患者は病人扱いではないから、同じ舎内で同居。
 ーーーこの下痢患、何回便所に行こうとも、手は洗ってはいない。作業から帰ってくる薄汚い兵の顔ーーー
 どれ一つとりあげても、不潔以外に言葉はない。
 この環境で、病気にもならず、しらみもつかなかったら不可思議なことだ。
 しらみが住みつく身体になっていて当然なことだった。

 入浴の時に、脱いだ衣服を一まとめにして減菌消毒する設備が浴場にあった。が、それには1時間かかるため、入浴は大変のんびりと、ゆっくりすることができた。
 ざんぶり湯につかる日本式の大衆浴場ではない。屋体のような広い浴場で、壁に沿って大きなパイプが2本通してあり、水と湯と別々なコックになっていた。浴場の中央には、石の洗い台がずらりと並んでいた。(入浴といっていたが実態は行水)
 浴場の奥には、6畳の間ぐらいの部屋があって、入口は1つで、薄暗い裸電球が1つぶら下っていた。
 この部屋は、中に入ると板の階段が作ってあって、下の方から蒸気が出るように設計してあり、階段の上の方に昇る程熱かった。
 入ってしばらくしていると、体がぽかぽかし、そして体中から汗かにじみでていた。手拭いで体をこすったり、石鹸をつかわなくても、流れでる汗といっしょに垢もきれいにとれた。
 これは蒸し風呂と呼んでいたが、中々の好評で、この部屋に入ると、階級章のない裸のつきあいで、それぞれにお国自慢の話題に華が咲き、中には、景気よく一席故郷の民謡をうなりだす兵もいた。

 時間がたってから、滅菌消毒してポカポカにふくれている衣服を、ばたばたふるってから、身にまとった。しらみが1匹もいない上に、又卵も全部死滅していて生き返ったような気がして収容所にな帰っていた。
 滅菌しても、しらみの卵の殻は付着したままで落ちなかった。
 浴場を出たと思ったら、もうタオルはカチカチで棒のようになった。面白半分に、それで肩でも叩けばぼっきりと折れた。

 しらみのいない夜は、たった一晩入浴の夜だけだった。
 翌日の夜からは、ごそごそと体中をはいまわっていた。
 寝具にしている毛布についているからということだった。毛布を雪の上に出しておけば10分もすればきれいに死んでしまうと聞かされても、毛布の盗難をおそれて誰もしなかった。
 やがて、収容所内にも滅菌済毒の施設ができてから毛布も減菌するようになり、しらみはめっきり減ってきた。

 昭和21年になってから、ソ連側の待遇改善と共に、ソ軍の軍医の診断が気まぐれ半分みたいに、不定期に2~3回もあったが、その時にしらみにかまれ、長い爪でがりがりひっかいた跡が見つかると、もうその見つかった兵の部屋は終日しらみ退治に追いまくられた。

 昭和21年の正月4日、高熱でうなされたような状態で病棟に入れられた。
 診断は、しらみの媒介による発疹チブスだった。
 発疹チブスによる高熱のため、脳を冒され、衛生兵の心死の制止をふり切って、雪の中へ素足で飛び出した下士官もおれば、変な声でわめく兵もいた。

 私は、昭和21年1月は満19才と11か月になる。(現在の成人式の年)
 私の青春は、雪と氷のシベリヤの収容所で40℃を越す高熱の連続する中で迎えたことになる。もっとも、その頃は、成人式はまだ国の祝日に制定されてはなかった。

 私も高熱のため、昭和21年1月2日~同年3月末までの事は、途切れ途切れにしか記憶がない。
 だから、病気が治癒してから衛生兵に聞いた話では、

1、中隊長が私の頭をなでてくれたこと。(危篤ということで、中隊長が見舞いにきた時のことらしい)そして、その時に注射をしてもらったことをぼんやり覚えている)

2、熱を冷やすため、頭の上に氷を入れた飯盒が天井から吊るしてあったのだが、喉が渇くため、手を延ばして飯盒の中の氷をとり出して食べていた。
 有田衛生兵が処置に困り、私の飯盒だけは、飯盒の蓋を紐で結んだそうである。
 そしたら、私は、隣の患者の飯盒より氷を取り出してかじっていたそうである。両どなりが空の飯盒だと分ると、いよいよ困ったあげくの私のかすかな判断力なのか、有田衛生兵が、あっという間もなく、天井から吊ってある飯盒を自分の頭の上で傾け、流水を大口をあけて飲んでいたそうである。
 後日、元気になってから、その衛生兵から「自分で氷や水を飲んでやろうとした野郎だけが生き残ったよ。」と言われた。氷が欲しくても、それを自分の手で自分のものにしようとする気力の失せた兵から逝ってしまったのかもしれない。
 聞いてみると、私にもすさまじい限りの生命維持の本能があったようだ。

 1か月か2か月か、全く夢うつつで高熱が続いた挙句、熱が下ったあと、こんどは下痢が続いて止まらず、その下痢も、血便を伴っていた。
 20才を迎えて人間の骨格、体力の最成長期だというのに、自力での歩行は下半身がふらふらで足腰はぐったりとしていてとうてい無理だった。
 両方の腰骨と尾骨の上には、長期間同じ姿勢で寝ていたために、床との接触部分の血が腐敗していく、いわゆる床づめを生じており、その部分は、復員してもまだ生々しい跡として残り、昭和25年頃まではまだはっきりと紫色のあさが見えていた。

 ソ連側も、しらみ退治には力を入れていた。一般市民の入浴場に、滅菌の設備が付随しているところをみると、一般の地方人も、日本兵と同様に、しらみには手をやいていたのではないかと思う。
 ペーチカの鉄板の上でしらみは、パチッ、パチッとはじけた。だが1匹や2匹とったところでどうなるものでもなかった。
 誰も同じ条件のもとで暮しているのだから、だれも同じように多量のしらみを保有していた。

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キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
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