見出し画像

44.昭和21年8月2日 ギュウギュウ詰めの貨車にて平壌へ

 昭和21年8月2日 平壌着
 平壌(戦前はヘイジョウと呼んでいたが、ここではヒラジョウと呼んでいた。現在の北朝鮮人民共和国の首都ピョンヤンのこと)に移動するため、身体検査で選別が始められ、7月の中旬頃、1000名を1単位の組として2組が行くことになった。
 私もその選に入り、平壌行き第7大隊という隊員の中に入れられた。
 平壌への移動組は各人毎に1週間分の糧秣の現品を受領。
 お世話になった片岡少尉や臼井中尉に別れの挨拶をしておき、7月末に富寧の収容所を出た。

 この時の輸送はひどいもの。
 1貸車の中に100名の定員だったから、その中では正座でもするのがやっとのこと。その上に昼の間は焼けつくような猛暑に悩まされ、夕方から朝まではたいてい停車していた。夕方から夜半にいたるまでは蚊の大群に襲われつづけた。昼といわず、夜ともいわず、ぐっすりと手足をのばして睡眠のとれるような状況ではなかった。

 また、停車した時に炊事をしようと思っても、薄情な朝鮮人の執ようなまでもの妨害でままならなかった。駅のまわりにあった水道の蛇口のところでは、まるで私達のくるのを待っていたかのように朝鮮人の保安隊員とか現地の地方人がいた。
 「日本人にやる水はない。あっちへ行け。」と追っぱらっていた。
 燃料にしても水にしてもずいぶんとひどい扱いを受けた。生活をかけた私達の方では自活のための方策を種々あみだした。汚い川の水を飯盒や水筒でわかし、それをこして水を作った。
 燃料も駅の付近ではどうにもならないから、草の生い繁っている引き込み線に行き、そこの線路の枕木の割れ目に棒を刺しては折った。この燃料作りはずっと続き、とうとう最後まで燃料には不足しなかった。
 考えてもいなかった、そんなに薄情な朝鮮人の妨害。
 1貸車に100名つけた暑い夏のさかりの輸送。
 悲惨な感じの辛い移動の旅路。

 また、あとから思えばいくたの友との最後の旅路。
 この旅のあと、班長だった西浜村の桑原敏男兵長さん、山口県出身の渡辺定夫一等兵、高藤さん(僧侶)、長崎県出身で国鉄駅の助役だった伊藤さん(自殺)、松岡さんなど、知人の大半以上は死亡。
 結局は三合里に落ち着いたが、ヒイロク以来の知人でここから無事に帰国した同県人は美濃郡出身の杉原亀雄上等兵(後年益田市の市会議員を歴任、もと村役場の助役さん。浜田連隊に応召によって入隊。藤部隊だった)だけだった。

 幸いなことに乗車前に受領していた主食の現品は米と大量のポーミーだったことである。
 途中の食事には米だけで充分だったから、ポーミーはもっぱら朝鮮人のもってくる桃・りんご、にんにく、味噌、塩さば、梨、卵などとの物々交換品にあてることができた。
 彼等にポーミーを飯盒に1杯もやれば、卵なら5個、ねぎだったら大束で1束、塩さばだったら1匹という極めて高率の好条件で、競争で交換してくれた。しかし警戒兵や保安隊などの姿がみえたら、無論のことだが一目散。
 そのポーミーの各人ごとの所有量は、出発前に受領している上、更に輸送の途中にも支給してくれたから、誰も1斗以上(18リットル)は持ちあわせた。

 私が卒業したばかりの咸興師範(その当時はソ連軍の軍司令部になっていた)のあった咸興の駅や元山、高原の駅で停車。高原駅より、平元線で平壌に向った。
 北朝鮮の東側より西側へ、この半島を横断している平元線は山の多い、そして登り下りのこう配やカーブなどの連続していた路線だった。
 平壌に向かう平元線の駅で、あまりの暑さのため数匹の豚が水際で体を半分ぐらい沈めていた汚い河で水浴もした。
 また、二段装置の上段にいた者が鉄格子のある明かり窓から汚水を捨てたところ、たまたま下を通りかかっていたソ軍の監視兵にかかったらしく、数発の威嚇射撃を貨車のすぐ下でやられ、車中の一同が青くなったこともあった。

 また、私達の貨車まで物売りに近よってくる朝鮮人をオドすために、同乗していたロスケの監視兵が撃った弾がみごとに ? 畑にいた赤牛に命中し、牛がばったりとひっくりかえった。ロ助と朝鮮人の間で、互いに通じない言葉で言い合いをやっていた。「ポー」という汽笛一声で事は終了。車中の日本兵は「やったあ。」と手を叩いて喜んでいた。
 そのソ軍兵、汽笛とともに急いで乗車。
 たおれた赤牛のまわりにだんだんと人影がふえていった。
 あとで、あのときにソ軍兵は畑にいた鳥を撃ったつもりが赤牛に命中してしまったのだという人もいた。
 しかしその理由は私達には全くかかわりあいのないこと。

 ……はっきりいえること……いつの場合でも、武力の前では農民には何らの対抗手段のないという歴史的事実が操り返されているということである。

 富寧の収容所を出発してから数日を経過したこのすさまじいばかりの貨車輸送のために心身ともに疲労の極。(この区間は日本が統治していた頃、普通列車で一昼夜とかからなかった)
 平壌の駅の引き込み線に入ってから下車した。そのときに2里の道のり(約8km)の歩けるという者は999名中※に100名もいなかった。


※999名
もともとは1000名だった。輸送の途中、同県人の大原郡阿用村出身の地方人、佐藤秀雄さんが病没したために1名の減。


 富寧を出発するまでは全員1里(約4Km)ある山へ薪取りにいけるだけの体力をもっていたのである。
 歩くことのできる元気な者は、すぐにそれらの兵だけで隊を編制して、もと日本軍の自動車隊のあった『秋乙津』まで徒歩で向った。そして残されていた歩けない者のために「秋乙津」よりトラックが迎えにきた。
 これらの兵を「秋乙津」より更に遠く、平壌の駅より6里も離れている『三合里』収容所まで運んでくれることになった。

 トラックの荷台に立ち並んで「三合里」の収容所に行く途中、平壌の町の中で満洲国吉林市より出征して以来初めて邦人を見ることができた。
 それらの邦人はトラックの上の私達を見つけては手を振り、停車したときには近よってきて、
 「兵隊さん、しっかりね。」
 「兵隊さん元気でやりなさいよ。」
 「兵隊さん、帰るときはいっしょだからね。」などと声をかけてくれた。
 思いがけない同胞の顔、血の通いを感ずる言葉には車上のどの兵も、ぐっと喉がつまった。
 子供のいる兵だろうか、母親に手を引かれている小さい子の年令を聞いて涙ぐんでいた。きっとその兵は故郷に残した我が子と異国の地にいる目の前の小さい子をおきかえてみていたのだろうと思う。

 そして、このトラック輸送のときに、残念なことだが日本製のトラックは米国製のそれよりもだいぶ劣っているということも、身をもって体験させられた。ソ軍のもっていたトラックはほとんどが米国製だった。
 元戦車兵の曹長が運転しているというこの秋乙津より迎えにきてくれた旧日本軍の軍用トラックは、ガソリン使用ではあったがエンジンの音は激しく、車体も振動していた。

 三合里の収容所に到着すると、営門のところでほとんどの病弱者は注射をうってもらった。
 私も注射をうってもらったが、この時に日本側の軍医が「ここでは薬品はいくらでもある。しかし、薬品にたよるな。リンゲルは塩水のこと。カンフルとは木の汁でしかないと思え。自分の気持ちは自分で張りつめて、誰もいっしょに元気になって内地に帰るんだぞ。」と励ましてくれた。

 隔離幕舎※に入った翌日の8月3日、入所した中の病弱者が100名ばかり病棟に移っていった。
 現に病弱だったため、このときに入院していた者は帰国するまでにほとんど亡き数に入っていたようである。
 私の友人の西浜村の桑原敏男兵長さんや山口県出身の渡辺定夫一等兵など、このときに入院し、後で病没した。


※隔離幕舎
この三合里収容所に新しく入所してきた者は、全員この幕舎の中で一定期間を過ごしてから、異常がなければ在来の兵のいる兵舎に移動するというシステムになっていた。一般の兵舎とこの幕舎とは、同じ収容所内でも少し離れており、幕舎は小高い山のなだらかな斜面に張りめぐらしてあった。



 「古茂山」から先発していた田中久年兵長さん(ヒイロク市1936病院の第17号室で同室の患者。京都の染物屋さんに奉公していて応召)が、本部付きの将校当番をやっていて隔離幕舎の勤務をしていた。
 田中兵長さんが幕舎に到着した翌日、私を探しだしてくれ、共に再会を喜び合うことができた。
 兵長さんは、新入りは必ずここに入ることになっているから、新入りがある度に誰か知った者はこないものかと探していたとのことだった。

 ここにいる間、毎日のように煙草や副食物、将校にだけ配給のあったきせる用の刻み煙草【はぎ】をさしくってくれたりした。また、私を天幕外に呼び出して、将校用のドラム缶の風呂にも案内して入らせてくれた。
 このドラム缶の入浴は、後で「かいせん」の治療のため硫黄の入った風呂で入浴治療を受けたこともあるが、火が燃えているときに入ってお尻の一部でもその缶に触れたら、飛び上がるほど熱かった思いでがある。

いいなと思ったら応援しよう!

キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
歴史に興味のある皆々様、よろしければ応援お願いします。今後も継続して更新するためのモチベーションアップのためサポートいただけると幸いです!