【水運搬】と物々交換による食料調達
軽労水運搬
収容所には給水の設備が全然なかった。
不寝番の(夜の舎内監視の役、防火・盗難防止・脱走防止などがその役)一番大事な仕事は、飯盒に雪やつららを入れてペーチカの上でそれらを溶かし、水を作ることであった。
零下30°Cぐらいでは寒いと思い、零下50°Cになれば痛いと思ったチエノフスカ(チエノフヤフスカという人もいた)の冬、水の少ない生活、飲料用水はビール樽のようを大きな樽を積んだ車を多人数で、引いたり押したりして、町中にある給水塔のある家まで行き、給水してから収容所まで帰っていた。
この作業は、歩くだけが仕事であまり体力はいらないはずだったから、水運搬は、軽労動ということになっていた。
しかし、この作業に出る者には水を運搬する以外に各種の仕事があった。
(1)水筒を持参して行き、水を入れて帰ること。
(2)分隊員のダワイをうまくやって帰ること。
(この場合のダワイは、ソ連の地方人との物々交換を条件よく、監視の連兵の眼をかすめてやって帰ることである)
(1)の方は別に支障はなかった。水筒に水を入れる時には、家の中の小さな水道の蛇口で満水にし、そのまま外に出て、少々待てば上が凍結してくるから、蓋をする必要もなかった。
毎日水汲みには分隊の中の誰かが出ていた。
そのうちに水筒は分隊員のを全部持参するようになった。このようにしたから軽労働のはずだった水運搬は、やがて肩のこる重労働になった。
問題は(2)の方である。
ソ連の警戒兵がついてきたのは、最初の頃、日本兵が道を覚えるまでのことであったから、自由にソ連の地方人との物々交換ができていいようだったが、その中に警戒兵も時々顔を出すようになってきた。
困ったことは、その物を交換の率が日毎に、日本兵にとっては不利になっていったことである。
ここではソ連の地方人が日本の瀬戸物を欲しがった。金属類の節約のため、終戦近くになると軍隊のアルミの食器類が瀬戸物などのこわれやすい焼き物に交代させられていた。その瀬戸物が彼等の一番のお目あて商品だった。
まん中に大きな☆のマークが入っていて、美術品とか芸術品とは、おおよそ縁のない実用一点張りの瀬戸物の食器、大きさは、直径10cmぐらいで平たく、そして、その縁は厚い小皿だった。
その小皿、日本だったら、彼岸の中日に大田の市で一山いくらで売ろうとしても、買い手もなかろうし、人にやろうとしても、手を出す人もいないと思われるようなしろものである。
一般大衆の生活用品さえ生産統制して軍事力の増強だけに力を注入してきているから、ソ連の地方人から見たら、瀬戸物なんかはまるで雲の上の貴重品として写ったのかもしれない。
その小皿1個と、3kgの黒パン1個が最初の頃の交換率だった。
そんなしろ物が、そんな高値に、まさか、と誰も半信半疑だった。
その交換率がそれからそれへと伝わる中に、どうも本当らしいということになり、収容所の中は、一時期、時ならぬ美術品ブームに湧きたったことがある。
日本製の陶器なんか珍らしいから価値があるんだという説と、金属ばかりの食器で生活していると、人間は、やはり土に近いものに或種のあこがれのようなものを持つに違いない、という諸説が行きかい、ソ連人の陶器に対する異常なまでの所作に何かと解訳がつけられていた。
アデカのマーク入りの大型の洗濯石鹸(終戦前、日本では1個20銭ぐらいしていた)も1個で、黒パン3kgの1/2あったのが、またく間に1/3、1/4、と下降をたどり、とうとう1/5にまでになってしまった。
勿論、前記の陶器とても例外ではない。
これも、当初の3kgの黒パンが、小皿1枚で1個になっていたのに、需要と供給の火花を散らす交渉のあげくは、これも又、その交換率が次のようになり下ってしまった。
小皿1枚 = 3kgの黒パン1本 → 3kgの黒パンの1/5
人絹(人造絹糸の略称。レーヨンとよばれている。人絹織物の原料である。この織物は光沢があり、重く、弱い。力を入れて洗ったりしぼったりするとボロボロになってしまう極めて水にも弱い布だった)の風呂敷も欲しがっていたが、特に、花や、赤と黄色の模様の入ったのは相当な高値を呼んだようだった。
これは、交換したら、すぐに女性は自分の頭にかぶっていた。今になって思えば、男も欲しがっていたが、これは、お目あての女性へのプレゼントだったかもしれない。
今の日本でもあまり見かけない風習だが、これは、髪をつつむ、ネッカチーフのような感じで使っていた。春ともなれば、ソ連の女性は、多様な色のついた布をかむっていた。
白は一番ありふれた色だったが、これは若い娘さんには少ないように思えた。
冬でも、少し天気がよいと、頭には何かの布をまとっているのが見られた。
復員してから、島村抱月の恋路『女優・須磨子の恋』という映画を見に行ったことがある。
主演者が、雪の中をネッカチーフをかむり、とぼとぼと流刑の地を歩いている画面が現われ、主題歌になるものを唱っていた。(その頃の映画には、主題歌として誰もが知っている歌を画面にとり入れる方法もあったようだ)
その歌は、『カチューシャかわいいや、別れの辛さ…』だった。
私にとっては、何がかわいいのか! ぎくっとした。
ソ連兵の持っている88連発の自動小銃は、それを持つかっこうから『マンドリン』と呼んでいた。
『カチューシャ』というのは、ロッシャ語では迫撃砲の別称(迫撃砲弾の炸裂後の、何かが空を切るような、カラン、カランという軽い音…)、嫌な音を思い出させられた。
※水汲みの運搬使役は、21年になると、それ専門の牛車や馬車が収容所にも配属された。その車が1日に何回も町へ往復して運ぶようになり、炊事場だけではなく、各兵舎毎に樽を備え、充分給水するようになってきたから、慢性的な水不足は解消してきた。