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33.不寝番
各兵舎ごとに立った不寝番は、その順番も(月に2~3回)、これまた波乱の多かった勤務だった。
昼の作業で疲れ果てているのに、また明日は何れかの作業に服さねばならない身にとって、夜間、強制的に起されて、その勤務に当ることは確かに重荷であった。その勤務の内容は、その当番に当っている兵舎の盗難、火災予防、ペーチカ焚きということになっていた。その外に、分隊の水作りという大事な仕事があった。
昭和20年11月末、ロッシャ語のできる伍長1名と、その仲間の上等兵1名、一等兵1名、計3名が夜間に逃亡してから、(すぐに見つかり、つかまって、もとの収容所に連れもどされていた)急に不寝番勤務もうるさくなってきた。
不寝番の勤務内容に【逃亡予防】という項目が追加になった。
その上に、日本軍の将校の夜間巡視は1時間毎、又便所行きもやっかいになった。便所は屋外にあった。最初の頃は壁もなければ天井もない、ただ穴を掘っただけのもので、吹きさらしの屋外で用をたした。痔を患っていた兵は、恥も外聞もあったものではなく悲鳴をあげて用をたしていた。やがて天井兼屋根つきで壁のある便所が作られたが、夜間に下痢でもしたらもう体温は下るだけ下がり、冷えきった体では睡眠はできず、ペーチカの煙道に背を当ててうとうとしている兵もいた。
【便所札】と呼んでいた中隊、兵科、階級、氏名を書いた札が作られ、夜間便所に行くために舎外に出る兵はその氏名札を不寝番に渡さねばならなかった。…北朝鮮に移動してからはその氏名札が木で作られていた。復員の際に持って帰った。
ややこしい不寝番守則がもうけられ、各人はそれを暗唱させられた。
・不寝番勤務には伍長以上は服さなくてもよい
・兵長以下は勤務に服すこと…但し班の長になっている兵長は除く
・夜間作業に出る兵はこの勤務を免除…主にパン工場、製材工場、入浴場といったものが不定期にあった
・ペーチカの火を消してはならない…室温は18℃が標準である
・灯火をつけておくこと…最初の頃はバターを燃やして室内の照明をした
・便所が遠いため、兵舎の近くで用便をする者がいるから、これをよく見張れ
・不寝番がいるはずなのに盗難事件があった
・不寝番の勤務時間をインチキしている者がいる…たいていの中隊では1勤務の時間は1時間だったが、あとではどこも1勤務を2時間にしていた
・昨夜も、上番者を間違って起こしていた…よく確かめてから起こすこと
などと、それはそれは、こと不寝番については何かとうるさいことや思い出が多かった。
そしてまた、この不寝番には分隊としての大役もあった。
雪を溶かしたり、よその兵舎の「つらら」まで取りに行って水を作る作業があった。
その上に、入室者の被服の洗濯や昼間の営外作業で分隊員がかすめて帰ってくれた糧秣を始末しておいたり(朝食の時には分配できるように、煮たり炊いたりしておいた)、自分の被服のこまかい修理…日頃は時間がなくてできなかった…などを、ペーチカがうなるほど焚きあげておき身体中をぽかぽかにしてやっていた。
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