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27.加速度的に増える死者、埋葬の使役
第10大隊では、昭和21年3月の初めには、1500名中300名ばかりが片腕を切られた。※
※片腕を切る
同じ場所に第6大隊・第10大隊・第14大隊の墓所があった。
第6大隊と第10大隊は、この墓地にきてから、死者の片腕を切り落したのを火葬していた。
第14大隊では、頭髪やひげ、爪などを遺骨のかわりとして、方、10cmぐらいの松の木の箱におさめ、白布に包んでいた。
英霊… 2-26 2-39 に記載
比較的に死者の少なかった第6大隊
5名に対して1.5名の割合で犠牲のでた第10大隊
5名に対して1名の割合の死亡率だった第14大隊
いずれにしても、故郷では待っている人のある身がばたばたと永眠していった。
第14大隊では、昭和21年4月末までに、300名もの尊い人命を失ってしまった。
チチハルの陸軍病院の退院下番兵が主力だったこの第14大隊では、最低気温、零下55℃という想像もできない極寒と、不充分な食事の量という悪条件のもとでは、昭和21年の1月・2月・3月に多くの犠牲者が集中した。
それらの死因は、ほとんどが栄養失調の上に、下痢にかかり、その下痢が治癒しないまま死亡というパターンだった。もともと栄失のため、体力はほとんど燃焼しきっているため、人間最期の苦しみの様子を示す余力もなく、眠っているように、安らかに往生していった。
それだから、それらの栄失の臨終については様様な状態を見たり聞いたりした。
・飯盒に手をかけたまま
・朝、体温を計ったきり、夕方まで寝ていると思ったら、冷たくなっていた
・便所に行って、倒れたまま
・今まで話し合っていたのが、急に黙ったと思ったら
・食事のあと、様子がおかしいと思ったら
・朝、眼がさめてみたら、隣の兵が起きてこないので、よくみたら
・作業から帰り、どうも体がきつい、といって横になったらそのまま動かなくなったとか
このようにして、栄養失調の兵は犬の子か猫の子でも死ぬるように、ころころといとも簡単そうに、またとない尊い命を異国の土としてしまった。
故郷まで、無事の帰国は既にはかない望みと悟ってか、楽しかった内地の様子ーーー話は親子・妻・兄弟の身に及び、しわが入って少々変色している家族の写真を出して見せてくれた兵もいた。
しょせん再起不能と諦め、戦友や衛生兵に遺品を託しておき、安心して、かっくりとなり、そのまま成仏した兵もいたようである。
内地に帰れば親も子もあり、前途有望の諸士達が、あたら異郷の地で逝去していったこと、戦場での落命より以上の悲惨事であった。
死亡したという厳たる事実は、結果においては、運命として諦ぬねばならないが、死亡するに至ったその直接の原因、死因ではなく、その死因に至った原因は何か。
このことは、年月が経ったとて、そう簡単に忘れ去られるようなものではない。
四囲を有刺鉄線と火器に囲まれていた収容所で死んでいった友のなきがらに「南無阿弥陀仏。」と両手を合せるそのかたわら、「折あらば、ロスケ。」と話し合った。
これは敗戦の復讐とでもいったような、単なる【江戸時代の主君の仇討ち】並みの図式ではなくて、目にあまる虐待の末、望郷の志むなしく異国に散った友に対する鎮魂のおくりの言葉。
しかしながら、度重なる病没者のあったことから、【死】というものに関してはずいぶんと太っ腹になり、隣に寝ていた人が死んでも、また夜中に、野外便所に行くため外に出て、入口に並べてある死体を見ても、格別に気分も悪くなかった。とりわけ「悲しい」とか「かわいそうに」とかの感傷はすぐに薄らいでしまった。死者と毛布1枚で肌をすり合わすような睡眠を1晩中やっていても、汚いとも思わず、むしろ、人は死ぬのが普通であって、生きている私の方が不思議だと思ったこともある。
死者とか、「死」などに対しての驚く程の無神経というか、鈍なとでもいうのか、まるで神経は麻ひしているみたいになった。
そのために、病気、それも【結核】・【赤痢】・【腸チブス】・【発疹チブス】などの伝染性の患者でも全く恐ろしいとも思わなくなり、平気で同居して、同じ毛布をかけて休んだり、それらの患者の残飯もきれいに食べた。
ーもっとも、伝染することを恐れたり嫌ったところで、自由に安全な部屋にでもいけるはずもないしー
昭和20年11月頃までは、収容所内での死亡者がでた時は、夜の就寝前の点呼の際、【日報】(その日の主なことや、明日の主な日程等の説明も含んでいた)の中で、その日の死亡者名が各中隊に通知されていた。
一方、その死亡者のでた中隊では、病棟からの連絡があると、すぐに病棟まで屍を受領に行き、そして炊事場では水・パン・馬鈴薯・団子など仏前のお供え品を受けとっていた。
中隊に帰ると、その水で体をきれいに拭いてやり、荒木のままながら、木で棺も作って、軍衣袴を着用させて納棺した。
不自由な環境でも、それでご供物も作って祭段に飾り、各中隊長全員参加し、中隊員と共に一同で哀悼の意を表した。
そのお通夜の翌日からは「ガダラ」にある友軍基地での墓穴掘りが始った。
埋めるための穴を掘る身が、また、いつの日にか掘られる身になるやもしれず、『そり』に薪や石炭を満載し、1里近くも、やせ馬の尻を叩きまくってたどり着いていた。( 2-26 に記載)
やせ馬でも、脚先には蹄鉄が打ってある。
ちょっとした登り坂でも、凍りついた路面では馬も必死だった。
馬の当番兵の叱責と共に鞭は唸り声をあげ、馬脚を地に着けるたびに蹄鉄の先端からは火花が飛び散った。
現場に到着すると、まず第1は、これから掘る予定の場所での焚火をすることであった。いよいよ現場での作業開始は、午前10時頃になっている。
午前中いっぱいぐらい焚火して、凍土のほんの表面が少々ばかり、やわらかくなっただけの所を、焚火を外側に移動しては掘り下げた。
穴を掘る作業というよりも、氷を融かすための焚火にあたる作業といった方が適切な表現だ。
焚火→焚火を外にやる→掘る→焚火→焚火を外にやる→掘る
単調なこの繰り返しの作業が、俗にいう坪掘りのあらまし。
寝棺の箱が隠れるだけの1尺ぐらい(約30cm)の深さ、身長大の長さ、1尺ぐらいの幅、この大きさの穴が、3日間もかかって、やっと1個だけ仕上っていた。
寝棺の埋葬と共に、3寸四方(約10cm四方)ぐらいの墓標の角材を立てる穴も掘った。この墓標には死亡者の兵科・階級・氏名が表に、裏面には、死亡年月日が墨書してあった。
墓地に行く度毎に、墓標の柱を数え、その増えていく数とその速さに驚きもした。何のさえぎるもののない荒野で、遠慮なく吹きつける寒風や吹雪と闘い、重い防寒具を引き回して1日の坪掘り作業を終えるのも、またあわれな抑留生活の1端でもあった。
連日ソ連側より要求されてくる作業の内容、給与、気温を含めた環境、水不足、どの1つをとっても我には利なく、同胞の達した最期の道、つまり、その絶対的な【死】に対しても、とうとう、人間的な扱いさえできない状態にまで追いつめられていくことになった。
11月、入ソ当時のような死亡者に対する丁重さは、ほんの2~3名だけのことだった。どんどん増していく病没者のために、死者の数が3~5名ぐらいまでになってから、お通夜をやるようになった。
昭和20年の11月末から12月にかけては更にひどくなり、屍体を各中隊の兵舎の入口(吹きさらしの屋外)に並べておいて、その中隊の兵が、舎内でぼそぼそと、ほんの型どおりのお通夜らしい営みごとをするようになった。
そのお通夜でさえも、今日の作業の疲れと明日の作業への懸念から、誰も嫌がるようになった。
そのうちに、各中隊の死亡者の氏名の通達もされなくなった。
病棟内で死者があると、本人の属した中隊にまで連絡があり、中隊の兵がその病棟まで行き、そこで爪・ひげ・頭髪などの遺骨がわりを作り、屍体を担架に乗せ、その病棟の入口まで運び出し、毛布をかけて並べて置いた。そしてそのあと、中隊から出た埋葬の使役が、病棟より墓地まで直接に輸送していた。
死者は、もとの中隊に帰ることもなくそのまま葬られた。
中隊の方では、そのことを、その日の日報で知らせただけになってしまった。
そのように、死亡者への扱いが1足とびに、駆け足で階段を下るような速度で粗雑になったのは、ただ、事務的な面ばかりではなかった。
屍体を収めていた棺の方も、最初の頃は、死者のある度に1人に対して1個の棺を作っていた。これも、死者の増加、それも加速的な死者数の増に伴い、1人で1個の棺を作るということは、その棺の製作材料やら製作のための所要時間などの理由によって、とうてい、そんなことはぜいたくなこととして望めなくなってきた。しまいには、棺の役目は単に屍体を病棟から「ガダラ」の友軍墓地まで運搬するための箱になってしまい、その蓋は釘づけにせず、現地に到着したら、毛布にくるんでいた屍体をかかえ出して埋葬し、終了したらその空箱を「そり」に積んで帰った。
そのくらいだから、墓穴にしても同じように扱いは雑になった。最初の頃は、1個の墓穴は1人分用として掘られたものであった。
ところがこの方も、増加してくる死者数のために、1人分の墓穴に何日間もかかっていては大変なことだということになり、1人1個の棺箱の廃止とともに、少し大きい穴を掘り、屍体だけを、3名とか5名とかにまとめて埋葬するようになった。
一方でこの埋葬の使役は、暖房用の石炭掘りと共に、ソ軍の監視兵のつかない営外作業だったため、1里も歩いていかねばならない遠方のようでも、捕虜生活の中で許された貴重な油の売り場所でもあった。
どこからともなくソ連の地方人が物々交換にやってきた。
そしてまた第6大隊や第10大隊の兵もきていたから、ここではお互いに他の収容所の新ニュースやソ連側の動向、物々交換の比率などを知らせ合う絶好の社交場でもあった。
焚火して忘れようとしたのは、寒さだけではなく、同胞を異郷に葬るという、何ともいえない切ない気をまぎらわしたい、そんな潜在意識が、話題としてはのぼらなくても、誰も心中にあったことと思う。
誰も、表面上は、死に対しては冷血動物のように鈍感そうにみえてはいたが、内心は決してそうではなかった。
ある夜、就寝してから、吉高班長(班の長だからそのように呼んでいた。階級は兵長だった)が「今日、俺は墓地に行ったけど、何だか自分の墓穴を掘っているような気がした。みんな、そんな気がしないか。」と言った。
誰も、痛いところに触れられたようで、それっきり、急に黙りこんでしまったことがあった。
1年か2年かすれば帰国ができるのか、それとも、永久に生きて祖国の姿には会えないか、そんな事はすべて運命の神に任せきり。
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