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栄養食中隊


キンクーマより、まず謝罪…
この項の最初の2ページ分(2-52、2-53)の撮影を飛ばしていました。

現物が手元にないので、この項の該当部分、第2巻の後半(2-126)の内容を簡単に紹介します。
また島根に行く機会があれば撮影してきます…陳謝。



 退院した祖父の配属先は栄養失調の兵ばかりで編制された「栄養食中隊」と呼ばれる特殊中隊だった。
 薪を切るために山に行き、この時に現地人との物々交換で食べ物も得ていた。

 その収容所には馬鈴薯、ぶり、さば、白菜など様々な食材が兵舎に運び込まれ、これらを栄養食中隊の不寝番が、朝食に間に合うように処理していた。

(以下より本文)



 むしろ、道路でない所を通るよう皆が暗黙の了解をしているから尚更のこと、始末が悪かった。
 つまり、薪とりは正式に営門を出るための大義名分であって、実態は、朝鮮の地方人の耕作している畑荒しが最大のお目あてだった。
 「みやげを頼む。」と声援に元気づけられ、手を振って営門を出ていった。

 11月ともなれば、いよいよひどいものになった。
 池も河もすべて凍っていた。目的の山に向って、真っすぐに進むことができたため、その途中の畑のものは、車を停止させて没収した。
 執銃のソ連兵がいるから、朝鮮の地方人は遠くからこわごわ見ているだけ。
 とり残しのとうがらし、白菜、大根、等何でも手あたり次第に車に積み込み、時には、馬鈴薯(ジャガイモ)まで掘りおこし、山に着いてから、飯盒でゆでて食べた。
 ソ連兵という世界最強の軍隊の兵が護衛している野盗の集団は、収獲物を袋に入れて車に結びつけたり、民家から叺を取り出して積んだりした。
 薪の不足分は、民家の古ぼけた板塀まで壊していた。(もっとも、ポプラを切る時と同様に、相当な抵抗はあった)
 2~3名で、ゆっくり板塀を動かして倒し、あっというまに車に積み、あとはどんどん現場を遠ざかっていた。

 遠まきにして、「アイゴー。」「アイゴー。」(朝鮮語で、この場合は、どうしようか、と嘆いている言葉)とやっているけど、そんなこと少しも気にするのでもなく、予定の行動の如く荒らしまくっていた。
 もとより、彼等に対して罪の意識なんかみじんもない。
 それどころか、昨日までの同胞だったはずの朝鮮民族が、一流に戦勝国なみに、日本兵に対して「日本負けたんだぞ。」と殊更に言っているのが頭にきていた。

 何よりも収獲第一と心掛けているから、薪とりは、無軌道列車のばく進そのものだった。
 ほうきを振りあげて怒っている彼等となぐり合っていたり、組みついてひっくり返したりしている中に、乗馬の警戒兵が砂ほこりを立ててとんできて、空に向けて1発撃てばそれで勝負あり。
 ここで射殺でもされたらそれまでのこと、銃声がこだませば、もう地方人は皆どこかへきれいに隠れた。

 山に着くと、殊に樹木の少ない朝鮮の山の木を、何の遠慮することもなく、ドラム缶を切って作った大鋸で切り倒した。木を切るよりも、息のよく切れる大鋸であったが、交代交代で時間をかけて切った。
 もともと薪にする樹木の少ない朝鮮なのに、頼みもしないのに、心やすげにシベリヤからやってきた程度が最悪の日本兵の捕虜に、当るを幸いと、ばっさ、ばっさと切りとられている朝鮮民族にとっては、求めざる客、日本兵は憤まんやるかたなき昭和の倭寇現代版と写ったことであろう。

 山の中で現地の朝鮮の地方人が、彼等の隠しもってきた物品、にんにく、りんご、卵、ねぎ、といったものなどと、私達が持っている靴下、石鹼などと物々交換。またお金でも売買していた。
 (日本紙幣、満洲国の紙幣、朝鮮銀行券、ソ連の軍票、どれでも通用していた。後から思えば、あの金は、ブローカーがいて、相当な交換率で物品やドルとか、何か他の安定した金品になっていたのではないかという気がする)

 たいくつとみえて、ついてきた警戒兵は犬や鳥などを撃って楽しんでいるようにみえた。
 殺生なことをしているものだと思っていたが、後で聞くと、この獲物は、安い値で朝鮮の地方人に売りつけていたそうである。

 木を切っている時に近よってきた地方人より、「今度は白菜を出させられた。」とか、「昨日は、大まぐろを出させられた。」とかの、不足だらだらの大文句を聞かされた。
 その口調から推測するのに、どうやら、彼等は収容所の日本兵向けの生鮮食品、野菜・魚肉の類は格安で、強制的に出荷させられているようだった。
 日本人の捕虜の(護衛兵付きの天下公認の訓練の行きとどいた強盗集団)仲間に対して、その暴に報いるのに貴重な食糧品まで格安で提供させられているとは……
 彼等にしてみれば、「早く日本に帰りたい」と思っている日本兵より以上に「日本兵!日本でもよい、アメリカでもよい、シベリヤでも結構、地獄なら申し分はない、とにかく、1日どころか半日でもいいから、とっととここから消えてしまえ!」と心の底から、怨をこめて、願っていたことだろうと思う。
 踏んだり蹴ったり、という表現があるが、三合里収容所周辺の朝鮮民族には、この言葉が実にぴったりだった。


 山にいる時、咸興師範時代に覚えていた朝鮮語が大変役に立った。
 山に着くと、すぐに、枯れ枝を集めて焚火をしていたが、いつかは、誰もマッチを持っていなかった。
 その時に、チゲ(日本式の木負いこの、縦棒の長いもので、どこでも荷を積んだまま簡単に休憩ができる運搬用の民具)を背負ってきた老人風の人がきた。
 「アブジイ チョッコンカマイッソ ソンニャオプソ?」
 (おじさん、ちょっと待って下さい。マッチはありませんか?)
と言うと、彼は、停止してチゲを降ろし、つっかい棒をしてから、腰の袋をとり出した。
 その袋は、火うち石のセットの入った袋だった。
 左手の親指と人さし指とで、親指の爪ぐらいの白濁色の火うち石と黒焦げの火縄を持ち、右手に持った天保銭ぐらいの鉄板を、カチッ、カチッと2回ばかりすり合わせた。
 小さい火花がちっと見えたような気がしたが、もうその時には、黒焦げの火縄の先端に火がついていた。その火のついた火縄を2~3回小さく振っていたら、火はもう大きくなっていた。その火縄を枯葉のかたまりに近づけ、ふうっと息を吹きかけると、ぱっと火は燃え上った。
 その手馴れた手つき、1もその動作に無駄がなかった。
 まさに、神技を見るようだった。

『火うち石のセット』

←火うち石のセットの入った袋
←火うち石

←黒焦げの部分
 ここに火が、すぐつく

←火縄

←石とすり合わせる鉄片
 すり合う縁は、かみそりのようになっていた



 又、水が欲しくなった時には、水がめを頭上に載せて歩いている婦人に、
 「オモニイ チョコン カマイッソ ムル ハナ パシオラ。」
 (おばさん、ちょっと待って下さい。水を1杯下さい)
と言うと、
 「イェー。」(はい、いいです)
  (いやだったら、「アンデゲッソ」(嫌です)と断わられてしまう)
と水がめを頭上に載せたまま静かにしゃがんでくれた。
 言葉が通ずるばっかりに水ももらえた訳だと思う。

 水がめの中には、パカチ(ひょうたんの仲間のフクベを半分に切り、乾燥させて作った水汲み用の容器、朝鮮ではどこでも見かける手製の民具の1種。これで水やマッカリ(雑穀から作った地酒)を飲んでいた)が浮いていた。
 皆、そのパカチが珍らしいらしく、手にとって見ていた。


→頭と壷の間に入れ、壷の安定を図る藁や綿の敷物

←パカチ
 農家では、壁より屋根まではわせて栽培している

←水汲み用の素焼きの黒色の壷
 水汲みは婦人の仕事
 頭上に載せ、1滴もこぼさずに運搬している
 幼時よりこれをやっているためか、朝鮮の婦人は、
 老人でも比較的に背筋がまっすぐにのびてい

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キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
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