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【引揚者の健康状態】


蒔かぬ種は生えぬ
無理もない


 昭和24年8月27日(土)の毎日新聞に次のような記事『京大生理学教室の主任笹川博士の調査』、第4回目(昭和24年度)の引場者に対する医学的調査の結果、“見かけは非常によくなったが、まだ体力的、精神的に憂うべき欠陥が秘められている”と掲載されていた。
 そして、そのあとに第1回引場者の状況として、(昭和21年末~22年の初)“病人または、半病人が大半で、体力、栄養とも最悪、関東軍の精鋭たる彼等が体力的には、14~15歳※の子供と同程度の反応しか見られなかった。主観的な観測だが、これは、捕虜労働に耐えられぬような不適格者が第1陣に選別送還されたのではないだろうか”と結んであった。(赤枠部分)

 さすが帝大系京都大学の生理学教室の調査である。
 限られた一部の引場者の体調を診断しただけで、他の帰還者の体調を見事に推測していた。
 1字1句、何のミスもない。この診断解説のとおりであった。
 その正確な推察考証には拍手をおくりたい、だが、そうなった原因は何だったか、誰がそうなるようにしたのか、そんなことを調べるまでもなく、その答はあまりにもはっきりしているのではないだろうか。


※14〜15歳の子供というのは、昭和20年頃の子供のことである。昭和30年代以後は、国内産業の発達に伴い、敗戦国の日本が、世界の経済大国の仲間入りをしている。食生活の向上・改善も進み、日本人の体位は目ざましく向上しており、成人した子供は、その子の親より大きい子供であっても別に驚く程のことはなく、むしろ、その方が常識化している。
 だから、その頃の14才~15才の子供は、昭和50年以後の子供とは全然比較の対照にはならないくらい、ずっと貧弱な体位だった。
 昭和20年頃は、牛乳は、医師の発行した、この病人には牛乳が必要であるという証明書のある者しか購入することができず、砂糖、バナナなどは一般の人の目に触れることもなかった。主食の米は、国の厳しい生産奨励、管理、出荷、配給等の統制下におかれ、米を生産した農民自身でさえ、自分の作った米が自由にはならなかった。
 学校内で児童が昼食に持参していた弁当の中味だけが盗まれたというような事件は、大都市だけでなく、島根県でも珍らしいことではなかった。
 50年代の学校給食では、バナナの食べ残しが増加し、牛乳は生産過剰のため生産者の経営は苦しくなった。反当りの米の生産量がのび、生産調整が図られている。稲作をしない田の耕作者には、国より補償金が支給されているような、昭和50年代後における国内の食糧事情のもとの子供と、昭和20年当時の同年代の子供とを比べることそれ事態すでに比較条件の基盤より、想像もつかない程次元が違いすぎている。



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