38.昭和21年4月25日 チタ州ヒイロク市1936病院 入浴と映画
突然第10兵舎にソ軍側の軍医の巡視があった。
そのあと、いつものように型通りの診断があり、そして、すぐに各人の装具をまとめ本部前に集合すべき患者の氏名が発表された。
私の名前もあった。
全員、26名。
何が何やら分らぬまま、昼食後の集合までにお世話になったもとの班長さん、吉高兵長さんや小門上等兵に別れの挨拶、……それも、私達の方ではどとに行くのか分かりもしないのに別れの挨拶はおかしいが、とにかく、どこかへ行くことは間違いないはず……と思って、作業隊の方に行ったが、誰も作業に出ていて不在だった。
結局は、もとの分隊の人には1人も会えず、別れの言業もなく出ていかねばならなかった。
雪のきれいに消えている本部前の広場で、ロスケの運転手のいたトラックに乗ることになった。
車に乗ると、各人がそれぞれの知人と互いに別れの言葉を交し合った。
車が動きだすと、それらの見送りにきていた人達も走りながら手を振ってくれた。私にとっては命の恩人だった衛生兵の美濃屋兵長、佐藤曹長達が略帽を振っていた。それらの人は、営門の外まで出ていつまでも見送ってくれた。
トラックは、やがてガダラの第6大隊の前で停車し、中から出てきたソ軍の軍医とトラックの運転手が何やら交渉をしているような様子だった。
運転手が再び運転台に上ってきた。
下車させられるでもないようだった。
トラックはそのまま発車してガダラ駅の引き込み線のところまで行って停車した。そこには白色に赤十字のマーク入りの病院列車が2輛入っていて、患者のような兵が降りたり上ったりしていた。
それらに聞いてみると、彼等は昨日からここにきているといった。
第6大隊と第10大隊からきていたそれらの患者は12名か13名ぐらいで、私達第14大隊からくる患者を待っていたということだった。
私達26名が第14大隊よりやってきたあとは、もうどこからも来ないようだ。
私達の乗車が終了するとすぐに戸をしめ、外から鍵を降してしまった。
翌、26日朝、他の貨車に連結されてから発車した。
ガダラの引き込み線にいた2輌の病院列車(といっても、見かけは白色で赤十字のマークの色が鮮かなだけのことで、貨物列車であることには変りはない)のうち1輌には患者だけが入り、もう1輛の方にはロスケの軍医らしい者と若いソ軍兵が1名いた。
この兵は銃も何も持っていなかった。
乗車する前に、この兵士にどこへいくのかと聞いたら、
「ダモイ、トウキョウ。」と答えていた。(日本に帰りますよ、ということ)
そんなこと誰も信用はしていないけれど、収容所を出るときに炊事より5日分の糧秣を受領しており、それもこの列車に積み込んであるから、満洲国か、どこかの大きな病院に移されるのではないか、などと語り合った。
順調に汽車は走りだし、夕方まで全然停車しないので喜んでいた。結局のところこの汽車は満洲国には向っておらず、このまま行けば、どうやらバイカル湖に行きつくではないかという意見が強くなった。
食事の度に外から貨車の戸を開けたり、飲料水の世話をしてくれたり、また患者の食事の分配もしていた若いロスケの警戒兵が、多少は日本語を覚えた。
「アナタ、バカヤロ、ワタシ、ワカリマス。」また、「イクラ、トシ、アナタ。」とか、盛んに愛きょうをふりまいていた。
4月27日の夕方、割りと大きい駅に到着。
私達の貨車は列車から離されて引き込み線まで運行された。どうやらここで下車するのかと思った。機関車から離れた貨車に入ったまま夜明けまで睡眠。
4月28日朝、今までいっしょにきたロスケとは違った兵が、銃を持っていて、降りろと合図した。
私達の下車したその町は、ヒイロク市。
ヒイロク市は、バイカル湖とチタ市との中間ぐらいな地点……チタ市の駅からここまで1昼夜かかっているから、もし、チタ市からバイカル湖まで行くとすれば、同じ急行列車で2昼夜以上かかるという計算になる。
日本の鉄道線路の幅は、シベリヤのような広軌ではなくて、スピードの落ちる狭軌なのだが、それでも急行列車に1昼夜も乗っておれば島根から東京までも行ってしまう。
ヒイロク市は、バイカル湖に近づいたためか、付近には大きな川があった。
ソ軍の警戒兵に先導されて歩きだし、市内を横ぎって1935病院の前まできてしばらく休憩。
どうやら、その警戒兵は私達の行く病院からの迎えの兵らしかった。
手まね、身ぶりで、ここに入るのではなく、もう少しのところまで行くのだということを知らせてくれた。
たった1車輌の小人数だが、にぎやかに話しながら歩いて到着したところがシベリヤでの最終の地の宿舎となった【1936病院】だった。
病院の中の広場では、病院付きの健康兵の姿や、真っ白い病衣を着た同胞が多数のんきそうに散歩しているのが見受けられた。
風に吹かれて何だか寒そうだ。
古参の患者と新入りの患者群は、互いに同県人を探したりニュースの交換をしていた。
本館に入ると、すぐにロスケの軍医による簡単な診断、氏名点呼、それの終了した者よりタオル、箸以外の品物は一切ズックの袋に入れさせられた。
それは、そのまま没収。
大入浴場で入浴して私の手足を見て驚いた。
それまでは、何となく、足の方に点々とごみでもついているのかと思っていたのに、入浴(チエノフスカのような行水式ではなく、たっぷりと肩までつかる日本と同じ入浴場)して手足をみたら、そのごみのような斑点のようなもの、それは、手足に生えている「うぶ毛」だった。
うぶ毛の1本1本が、ていねいにくるくると巻いて体についていた。
湯につかり、手で足の方をこすったら、みるもひ弱そうな、それも長さだけは3cmもある「うぶ毛」が活気づいたように湯の中でゆらゆら動いた。
浴槽に腰をかけて少し体を乾かしていたら、これまた、その私の「うぶ毛」が頼んだのでもないのに、1本1本ていねいに、くるくると巻いて、まるでごみか斑点みたいになって、もとのうぶ毛の生え根のところに収まっていた。
人間は、弱ってくるとうぶ毛さえも小さくなるものらしい。
これは私だけではなく入浴者がほとんどそうだった。
通訳にうながされて入浴場からでると、だぶだぶのロスケの病衣と袴下、襦袢が支給された。
大きいのが多く、体に合わないような小さいのはなかったが、破れているのがあったりした。それでもどれもきれいに洗濯がしてあった。
各人が支給された患者用の病衣をまとったら、入浴前に坂本通訳にあずけておいた貴重品をそれぞれに返してくれた。誰も、タオル、箸袋、少々の貴重品、それだけのものしかないから実にさっぱりした装具だった。
入浴前に、略帽と脚絆は浴場の窓の方におくようにとのことだった。よく考えてみるとこれは、没収する価値がないばかりか、患者が退院して病院付きの作業隊に入ったときには、その日本兵に支給しなければならない。だから最初から取りあげなかっただけではなかろうか。
入浴の後、しらみ1匹、卵1つない病衣を着て、すがすがしいような気分になった。私達本日の新入りは、別館だとか、新しく塗り替えてある本館より色の悪い、積み重ね方式のロッシャ建築とでもいうか、組みこんだ丸太の見える別棟に行った。
案内されたのは別館の2階。17号室で、上図にある病院の見取り図でいうと、ちょうど炊事場の真上になる部屋だった。
17号室の定員は13名。
第14大隊の第10兵舎時代からの古参栄養失調ばかりで、室長は香田軍曹。
部屋では1連の固有番号の札のかかった寝台にあてがわれた。
私は、チュティリー(4番)だった。
日本の病院なら、四番→死番、という訳で「4」という数字を避けているようだし、クリスチャンだったら嫌っている「13」という数字も、ここでは全くおかまいなし。
習慣や風俗の差とでもいうか、ソ連邦は無宗教だから尚さらのことでもあるだろう。
堅牢な鉄のベッド、毛布1人に2枚、洗濯のしてある敷布、羽根枕、藁布団※のつもりの小枝布団、部屋の隅にあるペーチカ、窓にかかった生地の厚いカーテン、原始時代を思わせる笠のない大きな電灯、中の赤い銅線が露出している電線のコード、隣りあった患者2人で1個の割の小物入れの戸棚。
……これが17号室で眼にふれるものの全部。
あとは人間だけ。
※藁布団
マッチぐらいの太さで5~10cmぐらいの小枝入り。
17号室の隣は15号室で、そこの患者はほとんどが第14大隊からきた強度の栄養失調兵。
17号室前の廊下の向うは16号室で物置、15号室の隣は通訳、軍医室、その隣がこの別館の患者全員が一度に入って食事のできる食堂。
食堂はそう広くはなかった。
ここでは、4人で1個の丸いテーブル、白いテーブルかけ、ゴムのような床の敷物、窓の上にあったスピーカーなどが印象として残っている。
窓から外を見ると、道路の向こうがバザール(市場のこと)で、道路は一般市民が往来していた。
よく見れば、日本兵のようなのが馬に乗って道路を歩いていた。
「おや、通訳のやつ、馬に乗って散歩していやがる。」同じ捕虜仲間でも通訳は少々扱いが違っていたようだった。
そうとはしらず、ここでは日本兵に対して、収容所のように監視態勢は厳しくないとでも思ったのがいたようで、きたばかりの患者の1人が、最初にいわれていたここでの禁止事項の1つ……別館の患者は勝手に階下に降りたりしてはいけない、と指示されていた。本館の方は大入浴場と病室しかないが、別館には食糧倉庫や炊事場などがあるためらしかった……を犯して、階下に降り、庭にでて、板塀の柵から手をだし、歩行中の市民に「プレィブ、ダワイ。」※(パンをください、という意味)をやって、ロスケの歩哨※に見つかり、2階の通訳室の前の廊下に正座させられていた。
※「プレィブ、ダワイ」
その頃のソ連では、一般市民が主食であるパンを市場で買っていた。大きな一かかえもあるようなパンの上に、そのパンの重量の不足分を補うための小さいパンをのせ、何のおおいもかけずに、その市場(バザール)から自宅まで持って歩いていた。
その市場が病院のすぐ前にあったから、その風景は別に珍しいものではなくなった。
※歩哨
ソ連では、病院、駅、大きな鉄橋、工場などにはたいてい見張りのための兵士が立っていた。これらの兵のことを歩哨と呼んでいた。
鉄橋の場合には、その両端に小さな小屋があって、その中から出たり入ったりして警戒に当っていた。
ヒイロク市には、【1935】と【1936】と呼ぶ大きな病院があった。一昨日までは【1935】病院にも日本兵の患者がいたそうだが、そこの日本兵を全員【1936】病院に移転させ、【1936】病院は日本兵専用の病院になったそうである。
ここの病院でも10日に1回の入浴だったが、食事と検温、投薬、診断以外は何もすることはないから、誰もゆっくり湯につかった。
入浴をした日には、入浴場で、洗濯のしてある病衣と、今まで着ていた病衣との交換があった。
またここでは、週に1回映画の見物。
それだけ聞くとすばらしい待遇のように思えるが、その実質はすさまじい限りの代物。
映画は本館の廊下に幕を吊るし、正面からはロスケの看護婦さん、軍医、炊事の婦人連中、兵士達が座って見物。幕の裏側では日本兵の患者や、病院付きの作業隊員が座って見物するという方法。
日本でこのようにして幕の裏側から映画を見た時には、字幕が反対になって困るけれど、ロッシャ語も、ロッシャの文字も知らない者にとっては、字幕が逆さでも正式に見えても、そんなことは別に気になることでもなかった。
その映画は、フィルムが切れたりとんだりのおんぼろで、トーキーであるだけがせめてもの、とりえといえばとりえだった。
そして、毎回のことではあったが、たのもしいはずのソ連側の映写技手殿が、通訳と交渉の上、通訳をとおして「おうい、誰かスピーカーを直してくれ。」とか「この機械みてくれ。」とか、大声で助けを求めていた。
最初に見た映画はソ連側よりみた日本の東洋侵略史。
それぞれの立場の違い、見解の相違があるとはいえ興味のある映画だった。
日露戦争の旅順攻撃より始まり、東条英機総理大臣の国会での議会演説や天長節の当日、東京の陸軍観兵式などが折りこまれていた。
また、停戦の際、東京湾頭での、米艦ミズリー号の甲板で、日本側代表団の重光葵さんの杖をつきながらの歩行や署名される場面が写しだされると、誰いうともなく「仇とったるぞ。」と涙をかみしめて見た。
日本の風景として、一面の焼け野が原や、また、あっという短い間ではあったが、色のある写真……後年開発され、一般に普及しているカラー写真のこと。その当時、カラー写真という単語さえ知らなかった。写真はすべて白黒写真というのが常識……姫路城の色ずり写真、また超満員の復員列車、地下鉄で寝ている浮浪者という戦後の国内風景など、復員してからは見ることのできないものもあった。
ロスケの喜劇、時代劇にあたるような映画を見ていると、言葉は通じなくても人情はどこも同じで、日本人側でおかしいと思っていると、幕の向うにいるソ軍兵や看護婦連中も笑っていた。
しかし、日本映画よりみると相当古くさい感じがした。
日本でいうと、文化ニュースのような映画のときでも、レントゲン写真の実演として、懐中の中のお金を透視したり、人体の骨格を写しだしたりしていた。
その度ごとに、幕の向うからもれてくる驚嘆の声に、裏側にいる日本人の方が驚かされた。
日本人側では、今どきこんなものに驚いて、とあきれている。
ロスケの側では、偉大なソ連邦国家の科学の力と文明の利器にうっとりとした喜びと驚きの声だった。
誰も、物珍らしさもあって、映画のあるときは毛布を持って本館に行き、夜でも、窓にはカーテンのかけてある板張りの廊下に座りこんで見物した。
……白夜のため、患者の睡眠のさまたげにならないよう、本館も別館も、窓には厚い生地のカーテンが整備してあった……
私も2回か3回見物したことがある。
あまりたいしたことはない、ということで、しまいには日本兵はあまり行かなくなった。
ところがこの映画は、ソ連の人々にとってはとても待たれていたようで、そのため、そのとばっちりはこの病院内の全患者に及んでいた。
この方が日本側にとっては重大な問題だった。
炊事の婦人連中は特にこの映画に興味が深かったようで、映画のある日の夕食はお話にならないほど早い時刻だった。
12時頃に、本館から元気のいい患者がロスケの看護婦さんといっしょに別館の炊事まで昼食受領(いわゆる、めしあげ)にやってくる、そのあとが別館の順になっていた。
そして、食事のあと食器を洗って休憩しているのだが、映画のある日の昼食は、本館も別館も同時に食事の準備に入るから、炊事場の入口は一時的だが活気がわいていた。
その上に、午後の休憩もしないで夕食のとりかかりをするらしく、午後の3時すぎには夕食が始まっていることもあった。
とにかく食べさせればいいというわけでもあるまいが、自分たちが映画を見るための時間をこのようにして作りだした。