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【食足りず】 衣食足りて、則礼節を知る


食足則知栄辱
(衣食足りて栄辱を知る)


 中国人のいう、『衣食足りて、則礼節を知る。』
 身も心も不足がなければ、礼儀も守られるということと思うが、世の中には、王朝文化の華やかな頃の藤原氏のように、「この世をば、わが世ぞと思う。」程に満たされた人ばかりではないはず。
 それでも、最低の礼は温存されている。
 その字句どおりではなくても、実際には、誰も我慢のできるものは我慢しているから、結果的には、上記のようなきれいな言葉が並べられるものではなかろうか。
 徳川家康の家訓には、『不自由を常と思えば不足なし。』とある。それは人間が生活する上の三大要素、衣食住の中の衣と住のことについてではなかろうか。
 食については『武士は食わねど、高ようじ』という諺があり、武士は食についてはがつがつしないのが美徳のように考えられてきていたようである。

 しかし、1食や2食ぐらい欠けてもそう重大なことではないかもしれないが、毎食ごとに微量の食事が続き、その期間が長期となれば、行きつくところは栄養失調、そして死に至ることしか残されてはいない。
 気力の充実は、一時的な刺激による興奮によっても可能であろう。
 慢性的な食糧の不足にあえいだ場合、その復旧はそう簡単に妙薬が利きそうもない程、難しいように思う。
 気力の復旧と、慢性的な食不足が原因である栄養失調の復旧とは、全然比較にならない問題が、後者の栄失患者には内臓されているのであった。

 1番に、食不足からくる気力の減退があり、2番目には、羞恥心がふっ飛んでしまっていることである。
 この2番目の問題ーーーシベリヤでの囲いのない野外便所の使用に慣れていた兵達が、北朝鮮まで帰り、旧日本軍の兵舎に入った時のことを思いだす。或夜、全員への通達事項、「便所に入る時には、必ず、戸を開く前に、先ず戸を叩いて、中に人がいるかいないか確認してから入ること。それから中に入ったら、中の鍵をすること。」が最低年令20才以上~46才までの大人に対する訓辞としてあったことがある。
 社会復帰の基礎訓練みたいなものをしないといけない程に、誰もの知性や理性は極度に減退していたのである。

 朝食用のパンが時間の都合上前夜に中隊まで支給されたこともあった。その時には、炊事より、翌朝食分のパンを毛布にくるんで受けとり、中隊の指揮班に保管しておき、朝になってから各分隊に分配された。
 ところが、或夜、中隊の指揮班でパンを保管しているはずの小隊長が、その3kgの黒パンを1本かすめてしまったという予想外の重大事件が発生したために、朝食用のパンは、前の夜の間に各兵に分配されるようになった。
 3大隊で小隊長といえば曹長級以上。兵よりみれば雲の上の人みたいな存在。だから、それなりに兵よりは信を得ており、それだけの権威もあったはずだが、その人にしてしかりである。(20001部隊3大隊の小隊長は曹長以上)
 朝食用のパンを袋に入れて壁にでも掛けておけば、ほとんどの者が盗難にあっていた。
 やりきれないのは、その掛けていた場所より考えて、犯人は、同じ分隊員以外にはありそうにないことだった。
 とうとう、翌朝食分のパンは、誰も分配されたらすぐに食べていた。
 朝食には太平洋みたいな、しゃぶしゃぶのスープをぐうっと一息に飲み干し、勇躍?作業に出発していた。

 欠食以前みたいなこれらの兵に、ソ連側はどれだけの作業効果を期待していただろうか。(1食2食満腹になっても、どうにもならない飢餓の状態)

 入ソ当時は、10名に1本の3kgの黒パン(単に10名に1本と呼んでいた)がすぐに8名に1本になった。逃亡兵が出た(20年の12月末までに2回ばかりあった)といっては、10名に1本に落された。
 日本兵の生殺与奪の権限がソ連側にある以上、こちら側は横暴な処遇にもなんらなすことなく、ただ忍徒のみを強いられていた。
 3kgの1/8というと、そのパンの大きさは、子どもの握りこぶしぐらいの大きさである。

 入隊前は、奉天の大製材所社長や役人さん(朝鮮総督府勤務の高官で内地への所要には、公用も私用も皆飛行機だけ使い、時には軍用機にも便乗していたという)も『食』になると、その輝かしい履歴も、社会的な地位も肩書きも全く無縁な存在であった。
 “食べるものがない!”となると、食には上も下も無い。あるのは、食べるという本能が人間には誰もあるということを公開した。

 チタ駅の作業は、軽作業だけで、10時に砂糖入り紅茶と煙草の給与まであり、又午後の3時過ぎには送迎用のトラックが待っていた。
 雪の中を歩くことは全然なく、作業とても至ってのんびりしていた。その上に、満洲領よりどんどん回送してくる日本軍の輸送列車は、この駅で長時間停車したからいろいろな情報交換もできた。
 時には、満洲領での編制場所の異なる部隊が3列車も停車していた。
 しまいには、希望の多い水運搬の使役と、チタ駅行きは、同じ人が2回も3回も続いて行ったとか、割り当てのない小隊があったとか、何かと文句が出始め、各分隊とも不公平のないように順番まで決めることになった。
 そんなに仕事がしたいのではない。
 要は、その場所では、食に直結する機会が多かったからである。

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