【お守りさん】
父よ母よ
何時までも待って下さい
必ず生きて帰ります
此のお守様と共に
単に、神社、仏閣名を印刷しただけの紙製のもの、といえばそれまでのお守りさん。
私の懐の奥深く肌身につけていたのは、故郷の刺鹿神社。
朝鮮の京城にあった朝鮮神宮。(咸興師範学校を卒業し、南鮮に赴任する際、同級生の乙貫君、幸野君、といっしょに参拝した)
大石橋神社。(満洲国の大石橋、叔父の田中藤次郎夫妻がいたから、入隊前に行き参拝した)
人のみやげにもらった奈良の春日皇太神。
出雲大社軍人安全守護。
吉林神社御守。の計6社の御守を袋に入れ、その袋の紐を首にかけていた。
炎天下の行軍中、喉はからから、気力も、体力もその限界になりかけた頃、いつもこの御守りさんの入っている袋を握りしめた記憶がある。
苦しい時の神だのみというのか、握りしめただけで、又新な気力が湧きたっていたことは、自己暗示の一種だったと思う。
大雨の中を誰も空腹、しかもずぶ濡れという同じ条件の中で、生還した兵もあれば、とうとう不帰の人となった兵もいる。
だが、これらの生還者には、形態はいろいろ相違があるにしても、自分自身を自分で元気づけていった何らかの自己暗示があったのではなかろうか。
草の先端とか、木の葉などをロにくわえて行軍すると疲れないということを信仰しているみたいなしぐさをする兵もいた。これも、そう信じていればこそ、それなりのその効果が、その兵だけにはあったのではなかろうか。
ヒイロク市の1936病院のベットの上で、お守りさんを開封し、中にあるものをとり出し、(ボール紙、ブリキの鉾、藁の芯を平たくしたもの、などが中にあったが、紙だけの折ってあるのもあった。)たいくつしのぎに1つ1つ並べたりしていた兵もいた。
それを見て、その真似する兵もいた。
ところが、そのお守りさんを開封していたのは、ソ連軍とは一戦も交えずに抑留生活をむかえた連中だけだった。
17号室の室長の可児軍曹(満洲国の鉄道…単に満鉄ともいっていた…の駅にあった軍の貨物庫の守備隊長をしていた。度々中国のゲリラに襲撃され、何度も窮地に追いこまれながらも無事に終戦を迎えた人。昭和22年同病で腹膜炎のため死去。岐阜県出身。)が「もったいないことだ。しまっとけ。」とそれらの兵のしぐさをたしなめていたが、これが本当にお守りさんを信仰の対象とした人の言葉ではないかと思う。
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