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32.日本軍将校の軍刀をソ軍に返納(没収?)、その最期を見届ける

 昭和20年12月 軍刀返納

 これはまた思い出のある作業だった。
 その頃【待機の使役】という、いとも珍妙な呼び名の使役があった。
 一方的にソ軍側から、あれこれと日本側に急急に作業要員の請求があっても、本部が、どこの兵舎に何名の兵がいるということまで知っているわけでもない。本部は作業割り当てはしても、残留兵の掌握をしているわけではなかった。
 そのために、急急なソ軍側の要求に対処するため、用事があるか、それとを何もないか、そんなことはおかまいなく数名の兵が、営時、本部のペーチカのまわりで、待機することになった。その待機している使役を【待機の使役】と呼んでいた。

 武装解除の時でも、将校は軍刀を帯び双眼鏡を持っていた。
 これが、そもそも捕虜ではないという証明のようにも聞こえていた。
 11月3日の明治節※や、11月14日、12月14日(8月14日 停戦の詔書。14大隊では毎月14日には営門前に全員を集合させ、戦争終結に関する詔書の奉読式を挙行)の停戦の詔書奉読式などには、帯刀した将校が並んでいるため、日本の国の敗戦ということには誰もが半信半疑だったのも無理のないことだと思う。


※明治節
戦前の祝日は、戦後、呼び方は変っても同じ日が国民の祝日としてそのまま継続されているのもある。
2月11日  紀元節…建国記念の日
4月29日  天長節…天皇誕生日
11月3日  明治節…文化の日
11月23日   新なめ祭…勤労感謝の日


 ましてや、いつも「停戦」という言葉が使われており、「終戦」とか「敗戦」とかは開いていなかった。……昭和20年8月14日終戦の詔書……
 また、あの詔書では、はっきりと大敗戦は述べられてはいない。


 たまたま私が「待機の使役」に当った時、本部に行き、「今日は用がないらしい。」ということで中隊まで帰っていたら、「至急、本部まで2名。」と伝令がきた。病弱な兵だけしかいないので、私が1人で本部に行った。
 本部に行き、作業担当の小林副官に到着届をした。
 すると「いや、1人でよかったよ。御苦労さん。少し休んどれ。」と言われた。
 私達の中隊の兵舎内とは違って、健康な兵がペーチカ当番をしている本部は、よく燃えそうな石炭ばかりが積んであり、それを使うからか、ポカポカと暖かかった。
 ソ軍側の将校も2~3名来ていた。
 本部は将校が集っているところで、1人の将校に1人の将校当番がついていて、将校の食事、洗濯など身のまわりの世話をしていた。
 ここも中隊と同じように二段装置になっていた。

 それぞれの場所で、将校が各人毎に軍刀を抜き、油を塗ったり、粉をかけたり、布で拭いたりしていた。
 アルジの将校さんが作業隊長として出ていて不在なのか、当番兵らしいのが綿の袋から軍刀を抜き出しているのもいた。

 私の作業というのは「ここにある日本軍の将校の軍刀を(下士官の軍刀は武装解除の時に他の兵器といっしょに返納済み)ソ軍側に返納するため、その軍刀とともに、ロスケの将校の家まで行くことだ」と小林副官より告げられた。
 30数本あった軍刀を2つに分け、荒縄でぐるぐる巻きにしてしまえば、名刀も昭和刀も同じもの(昭和刀というのは、光っているだけの鈍刀だといわれていた)で、村芝居役者の使う竹光か、割木の束ぐらいの感じしかしなかった。
 それぞれにいわれもあろうし、名もあると思われる日本刀を、束にして通路になっている土間に転がしてあるのを眺めた時には、何ともいえない切ない気持ちと、これも、敗戦の実態というものかと、しみじみ思わされた。
 束の中の軍刀は、1本1本、どれにも、その刀の持ち主の名前を記名した布が巻きつけてあった。
 その中の1本を抜いた。
 その刃文をじっと見つめていたら、最初の壮厳な感じから、やがて、涙が出そうな感じにおそわれた。

 やがて町の製材所に行くというトラックが本部の前に到着したという連絡があった。
 ソ軍の将校が1束、私が1束、その軍刀の束を抱えてトラックの上に積みこんだ。
 トラックの荷台には、これから製材所に行くための日本兵が数名乗っていた。
 ソ軍の将校が運転台に上ってから、私にも来いと手招きした。
 トラックの荷台からみれば、風の当らない運転台はそれこそ特等席。
 トラックの荷台に乗ったら、第1番に風向を考え、背面に風を当てるように気をつけなければならなかった。トラックの荷台に立つと、それだけ地上より高くなり、走るスピードで風速がより強くなり、凍傷にかかる心配があった。きゅうくつなことぐらい、凍傷に気を使うよりはずっとましだった。
 町に入ると、あまり行かないうちに停車。
 将校と2人で、荷台から降ろしてもらった軍刀を受けとった。
 トラックは町の方に行った。
 そのトラックが町の製材工場まで行き、材木を積んで再び収容所まで帰る時に、便乗させてもらうことになっていた。

 そのトラックがロスケの将校の自宅に来るまでの間が、私にとっては初めてで、また、終わりでもあった、ソ軍将校の自宅(軍人でも、自宅に帰ればそこは兵舎ではなく民家である)での、1人で過した自由な1刻であった。

 将校といっしょに屋内に入った。
 床には布が敷きつめてあり、木製の机が1脚、寝台、スターリンの額縁、窓にかけてあるカーテン。狭いながらも清潔で簡素、こじんまりしていた。
 その将校の部屋に入るまでにはドアが3つもあった。
 入口が第1、次の第2の入口との間は2尺ぐらいの間隔しかなかった(約60cm)。その次の第3の入口までは少し広かった。
 その通路は板張りで、バケツやら桶のような台所用具が置いてあった。
 ソ軍の将校は、最初、ここの板張りの通路の上に運び入れた軍刀を下ろした。私が通路に置くのを嫌い、軍刀を下ろさず、次の部屋を指さして(これが、将校の居間だった)「ハラショウ?」(ここでは、次の部屋に入れてもいいですか?という意味に使った)と言った。ロスケの将校にも私のいう意味が通じたらしく、笑いながらも、一度通路に置いた日本軍将校の軍刀の束をかかえあげ、居間に入っていった。つづいて入った私の軍刀を受けとり、板壁にきちんとよせつけて並べてくれた。

 部屋は、この部屋と、隣にもう1つの部屋があって、マダムらしい人が出入していた。
 私が1番奇異に感じたことは、将校とはいえ、その私物らしい持ち物がないことと、室内が軍人の居間とは全然感じないことだった。
 将校と私と、同じ机に木製の椅子に腰をかけて向かい合って座った。
 マダムが、将校も私も、自分自身も、みんな同じ容器に紅茶を注ぎ、手を平たく回し、「さあ、おあがり。」というゼスチャーをした。
 「スパシーボー。」(ありがとうという意味)と礼を述べてから紅茶を飲みだした。
 そして、マダムが将校より煙草をもらい、私に分けてくれた。
 みていると、マダムが吸いだしていた煙草を将校が取って、それを吸いだした。マダムは、また別な紙※に巻いて吸いだした。


※煙草を紙に巻く
ソ連の一般民衆の吸う煙草も軍人の吸う煙草も同じだった。日本軍では、軍人用として【極光】とか【ほまれ】などと呼んでいた巻き煙草があった。
ソ連では巻き煙草よりも、煙草の葉や茎などを刻んだだけの煙草が広く流通していたようだった。それには『マホルカ』というのと、『モスクワ』という名の2種類あった。どちらの煙草も、日本製のどの煙草よりも軽かった。
抑留中には、このことにあまり気がつかなかったが、復員船に乗った時に日本の煙草の支給があった際、そのあまりの辛さに驚いて半分しか吸えなかったことがある。それだけ、日本の煙草はきつかったようだ。
ソ連の煙草はそのように刻んだだけであるから、これを吸う時には小さな紙に巻き、「つば」で紙の端をなめて貼り合わせてから吸っていた。
その紙に巻くことを、日本兵は誰もすぐに覚えた。その紙がないため、【日本新聞】や、もう日本が敗れたから通用することはないと思って、満洲国の紙幣(相当な高額紙幣もシベリヤの空へ何の惜し気もなく、煙となって消えていった)などを、その巻き紙にしていた。


 将校とそのマダムが和やかに談話をしているのを眼の前にしていると、これが、あの興安嶺で対戦したソ連軍と同じ人種の人間なのか、鉄のカーテンに住んでいる人間なのか、と疑いさえも持ちたくなってきた。

 将校とマダムが、交互に、私に対して
 「マーリンケイ、スコールケイ?」(子供が何人いるか、ということ)
 手と指とで、「ブイ、スコルケイ?」(年令はいくつ、というつもり)
 「マダム、イエス?」(夫人がいるかということ)などいろいろと聞いたから、私も正直に返答をした。
 逆に私の方も彼等に、「マーリンケイ、イエス?」(子供はいるか?)などと聞いた。
 彼等もきちんと答えてくれた。
 しかし、その返答はどうも必要以上のことを答えているらしく、身ぶり手ぶりをいり交えながら、長かった。
 私も分ったような顔をして、時々うなずいたりした。
 帰りのトラックが家の前で停止してブーブーと警笛を鳴らすまでに、パンとスープの食事をご馳走になった。
 いよいよ車が来た時には、煙草までたくさんくれ、マダムの方から私に対して手をさしのべ、別れのための固い握手までしてくれた。
 なかなかのもてなしだったと感謝する気持ちの方が、日本軍の将校の軍刀を、荒縄でぐるぐる巻きにした時のみじめな思いよりもはるかに強かった。
 暖かい部屋、パンとスープ、煙草、握手。これがその日の忘れられない思い出として残っている。
 …『食べるもの』と「煙草」にありつけば文句なしの最高…つまり、その当時には心身ともに落ちぶれ、心の貧しさも、その極…。


 不思議な縁で、私は第14大隊の日本軍将校の軍刀……大日本帝国陸軍のシンボル……をそのような形で、ソ軍側の将校に手渡し、その最期を見とどけてきた、たった1人の日本兵となった。

 もともと日本軍の将校の持っていた軍刀は、官給品ではなく全部私物だったから、天皇陛下よりお預かりしていた兵器を、大命によって、これをソ連側に返納したというふれこみの武装解除とは少々筋が違っている。
 厳密にいうと、それら日本軍将校の軍刀は、兵器ではあるがあくまでも自費購入の私物である。
 だから一般の兵器のような【返納】ではなくて、むしろそれは【没収】されたというのが妥当ではなかろうか。

 兵とともに、祖国日本の防波堤となるために、はるばる内地より海を渡って満洲国まで送られた軍馬……戦場で傷つきたおれたのもあれば、生きながらえたばかりにソ軍側に没収された以外の馬は、主人であるはずの日本兵の手により、1頭も残さずにその餌食にされている。
 あるいは、大半が名のある伝家の宝刀、古刀、銘刀と思われるそれらの軍刀といい、また、その駿足と強い牽引力を頼りにされていた日本軍の軍馬といい、その最期は敗け戦の実態そのものではなかったろうか。


 私が軍刀を渡した当のソ軍の将校は、私よりも5才ぐらいは年長のように思っていた。もしそうなら、昭和40年頃までには、後年のソ連軍によるアフガニスタン侵攻のような大規模な作戦行動はなかったから、退役して、あのにこやかなマダムと余生を送っているものと思う。

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キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
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