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23.昭和20年11月2日、3日 終生忘れることのないシベリア

 昭和20年11月2日 夜、14大隊に転属

 14大隊が、11月3日に出発することになっていた前の日の夜、夕食後、比較的に元気のよい兵が10名選ばれた。
 14大隊に欠員が生じたその穴埋めの人選であった。(1大隊は、1500名単位になっていたから、その時には1490名だったことになる)
 私もその人選に入っていた、1日も早く日本へと思っていたから、喜んでその呼びかけに応じた。
 その穴埋めの補充兵、10名の中には、かや兵長以下9名、ほとんどが顔見知りばかりで、いそぎ連れだって、柵の向うの14大隊の宿舎に行った。
 14大隊では、明日出発するため、皆張り切って準備をしており、舎内中は、活気に溢れていた。
 特別中隊より14大隊に転属した10名は、全員7中隊に配られた。
 私は、14大隊第7中隊の第3小隊(小隊長佐々木曹長)第1分隊の所属になり、分隊長、吉高 文雄兵長と共に、終生忘れることのない、シベリヤに向っての民族の大移動に加わることになった。

 私の転属先の1分隊では、既に、1名の補充兵のあることが通達されており、各種の支給された携帯品の1人前が全部とり揃えてあった。
 それは、小さい物が多く、石鹸、マッチ、数本の釘、それに、車中での燃料用の薪が1束と、持つべき各人の負担品も他の兵と同じように用意ができており、第一印象が大変好い班だと感じた。

11月3日…その当時は、明治天皇の誕生日であるこの日を【明治節】として、国民の祝日に制定してあった。この日を、【文化の日】として国民の祝日に制定されたのは、大平洋戦争の終了後である。


 11月3日、早朝より起床していた。
 起床の時刻頃、「出発は待機しておれ。」と伝令が回ってきた。
 その伝と行き違いぐらいに、「出発は、明日に延期。」続いて、「本日は、明治節の遙拝式、並びに、装具点検実施。」と、伝令が駆けずり回って新しい指令を伝えていた。

 雪と氷の満洲の霜月ショウミントンの飛行場も兵舎も、白一色におおわれた。
 寒風吹き荒れる大陸の一隅で、抜刀した加藤大長以下将校の整列でより威儀を正し、明治節の遙拝式をすませたあと、欲と2人連れの、重く、そして大きいマータイ(麻で作った袋のこと。「ドンゴロス」「とうまい袋」「マータイ」等、色々な呼び方があった。麻の繊維を使っているからとても丈夫であった。昭和30年代まではどこでも使用されていたが、製造単価の安い化学機維に押されてしまい、だんだん人の眼に触れることがなくなってきた)のリュックサックを背負って再び同じ場所に整列した。

 装具点検といっても、それは、荷物を背負って歩くことができるような服装であるかどうかといっただけのことだった。
 出発が延期になったので、もとの宿舎に帰り、リュックの紐を締め直したり、新品のサラシでマスクを作ったりして1日を過していた。

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