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37.昭和21年4月 名物軍医
大隊長 日本軍側の軍医
第14大隊の名物としてその名の響いていたのは2名いた。
その1人は大隊長の加藤大佐で、ニックネームは『ダイスケ』。
もう1人の相棒は自称『高級軍医』と名乗っていた渋谷軍医大尉で、彼もいつとはなしに、その独特な言動から、だれいうこともなく『ハゲ公』が陰の通称。頭の髪の毛の半分以上も返納していた。その貫録は充分。
病棟の入口の扉に、自ら筆をとり、大きな紙に【出入者は、許可を受くべし。渋谷高級軍医】と、墨書して貼りつけるほどの価値があるものかどうかは知らないが、その高級軍医という単語はシベリヤに行ってから初めて聞いた。
自ら自分を高級と位置づけるだけあって、非常な気どり屋で鼻ひげものばしていた。
この軍医の機嫌のいい時には終始にこにこしていて、まわりで見ている者には薄気味が悪かった。そんなことはおかまいなく、重患者には「ご飯はうまいか。」「昨夜は風がひどかったな。眠られたか。」などと聞いており、また衛生兵にも「体温表を見ろ。これは確かに肺炎だ。ここ2、3日のところよく注意してくれ。」とか言っていた。
そんな時に、一般の中隊より診断を受けにやってきた兵に対しても、実に丁寧に診察してやり「作業は休め。」という鶴のひと声がかかるかと思えば、別に頼みもしなくても「粥食を許可する。」(入室していなくても甲食をとってもよいという許可をだすということ)と言いわたしていた。
ここでは軍医はどんな事項でも絶対的な権限で決定していた。
ところで、そんな彼の低気圧の時には、それこそ軍医なんかは無用の長物。
病棟内の就寝中の患者をなんでもないことで怒りまくり、指の先の爪の色までしげしげと見つめ「これには煙草を吸っていた跡がある。」とか、患者の枕もとの整頓が悪いなどと言っていた。
また、衛生兵にも「舎内が不潔極まる。」とか「患者の顔が汚い。もっときれいにしておけ。」、「通路には水を撒いておけ。」だとか、舎内の通路の中央近くの柱にかけてある寒暖計のところに衛生兵を集め、舎内の温度調節の説明みたいなことをぐだぐだ並べたてた。
そんな状況下のもとへ、中隊の兵が班長さんとともに病棟まで診察を受けに来た時は、もう無茶な診断。中隊からやってきた兵は、診断を受けるよりもありがたい説教を聞きにきただけのことさえあった。
感冒かなにかで、現在熱発の最中でも「貴様、たるんどる。」、それが診断のはじめなりまた終りの挨拶だった。
下痢をしているという兵に対しては聴診器さえ手に持とうともせず「おい、貴様下痢か、食い過ぎだろう。絶食をしているだろうな。」
そこでこんどは、いっしょにきている班長の方を向いて、「おい、班長、絶食させているか。」、また兵に向い「命が惜しければ絶食しろ。分ったか。」
まことに簡単にして明瞭、診断兼即決治療指示。
こんな日には入室の許可など受ける兵はまずなかった。それどころか、体のどこかが不調でやってきている兵に向って「元気がない。」、「身体が不潔だ。」とか「貴様のような奴が日本人の体面を汚す。」と怒鳴りあげ鉄拳さえも振っていた。
入室患者一同より、命の神様のように尊敬されていた兵舎長の佐藤曹長でさえも、たったロスケの巡視があったときの批評がよくなかったというぐらいのことでやたらと興奮し、私達患者の見ている前で、この曹長の胸ぐらをつかんでペーチカに押しつけていた。
すぐさま衛生兵が屋外に飛びだし、本部より小林副官を案内してきて、渋谷軍医のご機嫌直しを図ったこともあった。
生意気で横暴だった給与係(めしあげ専門の長、めしあげのほかに中隊に配られてくる物資の配分もしていた)の飯田兵長などは、兵達の間では、ひそひそと影の方では「あいつ、内地の土は踏ませないぞ。」とささやかれた。
しかし、いつもひどいと思っていたこの「ハゲ公」に対しては、その場限りの反感の域をでることはなかった。
人の命は、各人で最も重要なものであることを誰も心の底に秘めているからこそ、「ハゲ公」の傍若無人ぶりを増みながらも、そのもっている【医師】という肩書きには動かしがたい敬意を払っていたことと思う。
渋谷軍医は病棟内で大声をあげて衛生兵に薬の調合を指示していた。
それには一つの癖があった。
「おい、衛生兵、アスピリンを0.5、日に2回やってみろ。」
特長があるのは、この、「0.5」の発音とその数字の使用される頻度であった。彼は、いとも得意げに「レーイっ」と最後をぐっとあげ、「コンマゴ」と、そのしまいの「ゴ」のところの歯切れがよかった。
この0.5が、普通薬でも劇薬でも、そんなことの区別なく万能選手みたいに渋谷軍医の口から飛びだした。とうとう寝ている患者までがその癖をのみこみ、その口真似をしていた。
アスピリン、健胃散、下痢止め用で牛の骨の黒焼きから作った骨粉、ジアスターゼ、豚の血を乾燥させたといわれていた血粉など、粉末の薬品類にはすべてこの特長のある【0.5】の数字が使用された。
これがでてこなかったのはクレオソート、肝油、ヒマシ油、リューマなどのような液体ぐらいのものだった。
大隊長の加藤大佐は、旧日本陸軍の誇りをいつまでも捨てきれなかったらしく、舎内巡視だの、それ検閲だとかを絶えず思いついては実施した。
もうだいぶ年配のように思えたが、この人には「ぜんそく」の持病があったそうである。
朝夕の点呼の際には軍人勅諭を奉唱させ、兵の守るべき種々の守則や皇軍の一員としての自覚を深めるためとかの条文を作って、各兵舎ごとにそれを大書した紙を貼りつけさせ、暗唱させたりした。
昭和20年の12月末までに、3回か4回もあった儀式の時には、加藤大隊長と渋谷軍医の2名が、軍刀を腰に吊るし、儀礼服を着用して並んでいた。
全く、この2人はいいコンビのようだった。
あの2人の軍刀はおそらく相当な名刀ではなかったかと思う。これとても、私にソ軍側の将校の自宅まで、荒縄でぐるぐる巻きにして運び込まれる運命だったとは、人のことながら少々気の毒でもある。
種々の軍国主義的な色彩に対して、ソ軍側より度々警告もあったようだが、大隊長はこれをあまり聞いてはいなかったらしい。
生命、財産の与奪権(といっても、別にこれといった金銀財宝があるわけでもない)は、ソ軍側の掌中に握られている捕虜の身の上だから、しょせん、加藤大佐の意地がいつまでもまかり通るものでもなかった。
私がヒイロク市の1936病院に転出したあとの昭和21年4月29日の天長節の日、朝食の後、いつものように営門前の広場で遙拝式を挙行するために全員が集合していたところ、ソ軍側より『式を中止せよ』と連絡があったそうである。集合していた兵達は、皆、それぞれにもとの兵舎に帰っていった。
5月1日の朝、この収容所に、チタ市よりソ軍側の司令官がやってきて、全員至急集合の通達があったそうである。何事かと営門前に(本部の前でもある。本部は営門に1番近かった。そのため本部前の広場とか営門前広場とかいっていた)集合したところ、加藤大佐、日本側の通訳、ソ軍の将校の3名が台上に上った。
そして通訳を通じて、
「本日より加藤大佐は皆の大隊長ではない。一兵卒である。またこれを犯罪人として取り扱う。」と宣言された。
そのあとソ軍兵が台に上ってきて、大隊長の階級章と、大隊長き章をもぎとったそうである。
この時、その誇り高い加藤大隊長は真っ青な顔をして、皆の見ている台上で、心なしか、緊張と興奮のためか、益々血の色が失せていったそうである。
このあとで大隊長は銃殺されるかと集合していた兵達は思っていたらしい。
しかし、大隊長はその日のうちに同じチエノフスカにある第10大隊の収容所まで連行され、そこで一等兵の階級章をつけて、昼間は作業に行き、夜間にはそこの収容所内の営倉(軍人専用の室内年のようなもの)に入って就寝していたそうである。
第10大隊から昭和21年6月に北朝鮮に移動してきた兵や、同じく第14大隊から北朝鮮にやってきた仲間から、加藤大隊長の消息を耳にした。彼等は、別に気の毒だとは思っていないような話しぶりだった。
ただ、第14大隊の収容所から大隊長が連れ出されたのは昭和21年5月1日だというのに、第10大隊に着いたのは2日か3日ぐらい後のことだったので、変な話と思っていた。
これについても、皆の噂では「逃亡して第10大隊のロスケに捕ったんだ。」とか「チタに連れて行かれいろいろ調べられただろう。」などと言われていた。
どちらが本当か分らないまま、人々の話題から遠ざかっていった。
以上までの原稿 昭和23年9月26日 夜
雨のしとしとと降る夜
再び読み直せば、
むかし再び目の前に、
未だ一兵も帰らず
第十四大隊の健康兵。
同県人の留守宅に
便りを出せば、
早い返事
『まだです。』
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