ワクワク/ツマラナイ・労働・心/行動・愛とロールモデル
僕が小学生の頃、昼休みはサッカーやらドッジボールをしていた。昼休みが始まる前のあの胸のときめき、ワクワク感は何年経っても忘れない。
好きな子をなんとかデートに連れ出して、手を繋ぎ…のときめき、ワクワク感は半端ではない。
そういう内側から湧き出る強い衝動に近い感情を基礎に生活を設計することはできないだろうか?しかし、この強い感情は他者を媒介として引き起こされる。一人でサッカー、ドッジボール、デートは出来ない。楽しくない。そこに異なる者がいて、同じ空間を共有し、体験していることがワクワクの根底的条件である。
ツマラナイけれど、どうしてもやる必要に迫られるものがある。例えば家事とか宿題とか。ツマラナイものからの逃走によってある程度は解放されるけれども、微細に意識の上に蔓延った倦怠感に近い逃走への罪悪感は拭えない。ならば、ツマラナイものを面白おかしく処理するような生活の知恵が必要だ、ということになる。ワクワクへの志向とツマラナイものからの逃走・解体ではなく転換への志向という二つの志向が浮かび上がる。
ワクワクとは自分の狂気とか自分の深部の異世界の開放への繋がる連絡通路のようなものなのかもしれない。
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コンビニ、ホテルのレストラン、学習塾と高校1年の時からアルバイトという名の労働をしてきたわけだけれど、最近「働くってなんだよ」と思うことが多くなってきた。まず大枠として、雇う人と雇われる人がいる。雇用主と雇用者(労働者)というわけだ。だから雇用主として働くとはどういうことか、そして雇用者として働くとはどういうことかを知れば働くことの一端を知れるはずだ。
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心が先か行動が先か。モチベーションが高まったら何かをする、というのでは遅いし理にかなっていない。心は無意識の領域で行動は意識の領域だから。意識を伴った行動が先にきて、それに付随ふる形で心が動く。
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何事にもロールモデルがあってこそうまくいくと思う。日本人が英語を苦手とするのは言語的距離がそもそも遠いとか、ローコンテキストかハイコンテキストかとか言われるけれど、もっと大きな理由は、英語を上手く扱う日本語話者の母数が少ないことだ。いくら小学校低学年から英語の授業を取り入れたって、大人たちが外国人と一緒に英語でコミュニケーションしている姿を子供達が見ない限り、ぬかに釘である。
同じことが愛の問題系でもいえる。人を愛すとか何かを愛すというのは生得的な技術ではない。
自らが重要な他者に深く愛された、という経験が
何かを愛すときのロールモデルとなる。何かを愛するというのも技術なのである。受苦としての感情を拠点に正しく対象を愛することは後天的な技術なのだ。
家族という〈最小の愛の共同体〉が崩壊しつつある現代日本で、誰かを、何かを愛するというのは困難になりつつある。ロールモデルの欠如ゆえに。自分は愛し方を、知らないと開き直った方がいいとさえ思う。自分は何かを愛していると思っていたけれど、実は愛していたのは何かを愛していると錯覚する自分自身だったというのもよくあること。何かを愛することの時代的困難が眼前に横たわる。
2024.7.21