『ガザに地下鉄が走る日』を読んで: 無関心という暴力
岡真理さんの『ガザに地下鉄が走る日』を読んだ。
この本を読んで、イスラエルのパレスチナに対する80年間にわたる占領、破壊、虐殺、そしてこれらによる人間性の剥奪を今、ようやく知ることとなった。
2023年10月7日、ハマスがイスラエルに対し大規模な越境攻撃を行った。以来、ニュースではガザでの凄惨な状況が日々報道され、イスラエル=パレスチナ問題やガザの現状に関心を持つ人も増えたように思われる。僕もその一人である。
けれど、それまでは遠い世界の話だった。2009年、2014年にもニュースで「ガザ」という名前を耳にはしていたはずだ。けれど、僕は知ろうとしなかった。遠い世界に捨て置いていた。
この「無知・無関心」がパレスチナの現状を作り出している一因であることを本書を通して強く感じた。何かの形に残さなくてはと思った。なので、せめてこの80年間で何が起こっていたのか、世界がどういった状況を関心の外に捨て置いていたのかを、記そうと思う。
1. イスラエルによる漸進的ジェノサイド
1948年にユダヤ人によりイスラエル建国が宣言されて以降、パレスチナでは80年間に渡り虐殺・占領・破壊が断続的に行われきた。この過程は「漸進的ジェノサイド」と呼ばれる。
漸進的ジェノサイドにおいては、「戦争・虐殺」(1.1 節で記す) に加え、人間と社会を内側から蝕んでいく「占領」(1.2 節で記す) も重要な戦略となる。そのことについて、以下に記していく。
1.1 戦争、虐殺、芝刈り
イスラエル建国以降の占領・虐殺・戦争 の歴史のうち本書で紹介されていたものを以下に簡潔に記す。(漏れがあるかもしれないです、申し訳ありません。)
・1949年: <ナクバ> 70万人のパレスチナ人が居住地を追われる
・1970~ : イスラエルによる西岸・ガザ地区への「入植地」建設の開始
・1975~ : レバノン内戦、タッル・エル=ザァタルの虐殺
・1982年: サブラー・シャティーラの虐殺
・1985 年: キャンプ戦争
・1987年: 第一次インティファーダ、1000人以上の死亡と数万人の逮捕者
・1993年: オスロ合意 → 入植・土地の占領の加速
・2000年: 第二次インティファーダ
・2002年: パレスチナへの武力攻撃、死者数3339人
・2009年: パレスチナへの武力攻撃、死者数1400人以上
・2012 年: パレスチナへの武力攻撃、死者数140人以上
・2014年: パレスチナへの武力攻撃、死者数2200人以上
このように、イスラエル建国後の<ナクバ>以降、虐殺・占領が横行し続けている。特に第二次インティファーダ以降、パレスチナへの武力攻撃の凄まじさは加速している。数年おきに、街を更地にしてしまうほどの大規模な破壊が行われている。
このような定期的な虐殺は、「芝刈り」と呼ばれている。何年かおきにパレスチナ人を「刈り取る」のだ。この度に、何百という子どもたちが命を奪われ、心とからだに癒しがたい傷を負う。
イスラエルは、このような深刻なダメージとトラウマを断続的に与え続けることで、徹底的に破壊し、民族浄化を行おうとしている。
1.2 占領
1993 年のオスロ合意で、PLO (パレスチナ解放機構) とイスラエルが相互承認し、ヨルダン西岸地区とガザ地区がパレスチナに返還され自治が始まった。だが、実態は自治とほど遠く、これを機にイスラエル人のパレスチナへの入植が本格的に開始された。(『ガザに鉄道が走る日』163p, 169p より)
占領はさまざまな形で顕在化したが、中でも「検問所」「防御壁」「封鎖」はその象徴であると本書を読む中で感じた。各要素について以下に記す。
<1.2.1 壁>
自爆テロ防止を口実に、2002年からヨルダン川西岸に数100キロにわたる分離壁の建設が開始された。
だが、イスラエル側の安全を確保するためであったはずのそれは、グリーンライン (1949年停戦ライン) よりも内側に入り込み、パレスチナ自治区内を縦横無尽に分断している。
上記の引用のように、分離壁によって資源や水源が不当にイスラエル側に取り込まれ、パレスチナ人たちを分断している。
そして、このような身勝手な建設の結果、壁の向こう側に住むことになってしまった者たちは、多大な苦労を強いられることとなった。その一つが、次節で記す「検問」である。
<1.2.2 検問>
第二次インティファーダ以降、壁の建設に伴って500を超える検問所とロードブロック (通行を妨害する障害物) が作られ、パレスチナ人はこの検問所を通過するために空港と同様の厳しい検問を受けることを強いられるようになった。彼らは自分の番が来るまで何時間も、時には何日間も待たなければいけなかった。
通過できないことも多々あり、向こう側へ行けないために路上分娩を強いられることもあった。 (『ガザに地下鉄が走る日』11章: 魂の破壊に抗して より)
<1.2.3 封鎖>
ガザでは封鎖が継続して行われており、経済の自立的発展を阻害されている。この封鎖もまた、占領の象徴である。
ガザにおける封鎖とは何であろうか。筆者は以下のように述べている。
この「封鎖」は、ガザのありとあらゆる物資、産業、生活を蝕んでいる。以下は本書に記されている封鎖のほんの一例である。
例えば、漁業はガザの機関産業の一つだが、沖合3浬のところにイスラエルの船が停泊しておりそこより先にはいけない。なので、近海でしか漁業を行うことができず、多くの漁師は失業した。
また、生活に必須となる水も同じである。封鎖により建築資材が入ってこないため、下水処理施設を建築できず、汚水がそのまま川に流されている。さらに、入植者による地下水汲み上げの影響で、地下水の塩水化が進行している。外からのミネラルウォーターを購入できるのはわずかな富裕層に限られ、ほとんどの人はこの汚染された水道水を飲むしかない。
電気もだ。8時間供給→8時間停止→8時間供給→… ということが繰り返されている。(尚、今は供給時間はさらに減らされている)
これは、普段の生活だけでなく、医療洪水等の災害時にも甚大な影響を及ぼしている。
このように、ありとあらゆる物資の行き来を制限されることで、ガザは強制的に貧困状態にとどめさせられているのだ。
上記に記した 壁、検問、封鎖 は象徴的な例だが、他にもイスラエルはありとあらゆる形でパレスチナ人の人間性を完全に無視し、残虐極まりない占領を行い続けてきた。
本節の最後に本書内での占領についての一節を引用させていただく。
2. 死者数だけで測れない惨さ
イスラエルの斬新的ジェノサイドによる被害は、死者数だけで見れば多くはない。ナチスによるユダヤ人迫害で600万人が犠牲になったことを考えると、一見そこまでではないように思える。
だが、社会学者のサリ・ハナフィは、イスラエル・パレスチナ問題においては、この「死者数」という尺度だけでは測れないと述べた。今行われていることは、 ”Spaciocide” = 「空間の扼殺 (やくさつ、手で首を絞めて殺すこと)」だという。
これは、空間=人間らしく生きることを可能にする諸条件 を徹底的に破壊し続ける行為のことである。
イスラエルはこの "Spaciocide" において、ありとあらゆる「人間の生」を奪い、破壊する。1節で述べた「壁」や「封鎖」などの占領のプロセスも、この「人間の生」の破壊の一環である。
3. 無関心の暴力性について
ここまで、80年に渡るイスラエルの暴虐についてまとめてきた。
80年である。祖母が生まれ、祖母が育ち、母を産み、母が育ち、母が僕を産み、僕が成人するまでの時間、ずっとこれらの占領・破壊・虐殺は行われ続けてきたのだ。長すぎる。
にもかかわらず、これらの出来事を僕は「今」知った。この24年、僕はイスラエル・パレスチナ問題について無関心であった。
この無関心を、筆者は以下のような言葉で痛烈に批判する。
本書では以下に示す「暴力の分類」を用いて、無関心の罪を明示的に示す。
3.1 暴力の分類について
ヨハン・ガルトゥングは、暴力を以下の3つに分類した。 (『ガザに地下鉄が走る日』267p より)
直接的暴力: 戦争など、物理的暴力が行使されるもの
構造的暴力: 貧困や差別などの社会の構造から間接的に生み出されるもの
文化的暴力: 直接的暴力や構造的暴力を正当化したり維持したりする態度や思想
そして、真の平和とは、直接的暴力に加え、構造的暴力がない状態のことだとした。
イスラエルが行ってきた占領や封鎖は、構造的暴力であり、この構造的暴力の空間的・時間的規模が凄まじいのである。この封鎖は、外形的な物理的破壊を伴わないので、可視化されない。この不可視さ故に報道されない。それがどれだけガザの人々の生を蝕んでいるとしても。
そして、今我々 (つまり世界全体) はこの報道されなさも相まって、無知・無関心 という「文化的暴力」をパレスチナに対して振るい続けてきたのである。
3.2 無関心が引き起こした事態
ナチスによるユダヤ人迫害は、ドイツの敗北により全世界に知れ渡り、負の遺産として我々の記憶に刻まれることになった。
だがパレスチナ・イスラエル問題はどうであろうか。80年もの間、無関心の間に捨て置かれていたことで、状況は酷くなっていく一方であった。
筆者によれば、ナクバから80年が経過して尚迫害は止まることなく、むしろ<幾何級数的>に加速している。もし戦争などによってアウシュヴィッツが世界に知れ渡ることがなかったとしたら、こうなっていたのではないか。ガザは、アウシュヴィッツが世界に知れ渡ることのなかった世界線での成れの果てなのではないか。これは、世界全体の無関心が引き起こしている事態なのではないか。
我々にできることは多くはない。無力だ。けれど、せめて我々自身の文化的暴力を認め、少しでも関心を持ち続けるしかないのではないか。そんな風に感じた。
最後に
ここで取り扱った事象は、本書に書かれている内容のほんの一部でしかない。
本書には、筆者自身の体験や数多くのインタビューを通じた、パレスチナの肉声が数多く示されており、まざまざとパレスチナでの悲劇を実感することになる。一人でも多くの方に読んでいただければと思う。