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ぜぇぜぇをみせつけないで
「ニュース!オモコロウォッチ」のとある回で原宿さんが、「みんな、ぜぇぜぇで生きてるんだなって」と言っていた。
たしか、バスの運転手がサービスエリアでカレーを食べたことにクレームが入ったというニュースで、それにツイッターのみんなも賛否両論大荒れ大漁大喝采みたいな話題を話していた気がする。
内容は本編を聞いてほしい。
いや、いちおう引っ張っておくか。
こちらです。タイトルだったんだ、「ぜいぜい」。
まちがえてたわ。「ぜぇぜぇ」ではなく、正しくは「ぜいぜい」でした。申し訳ありませんでした。
原宿さんのツイートの引用に関する話題で、「ぜいぜい」が出てきます。
「たたかってきたんだなって」とも。
なんかこう、そうなんですよね、みんな。「ぜいぜい」で生きてる。
というか、「ぜいぜい」で生き過ぎている。
常に何かと戦ってる、戦ってきた人生なわけで。それで、自分が戦ってきたフィールドの周辺の話題となると、その戦いのスイッチが入る。
何かが話題になるたびに、大体ぶち切れてる人が出現する。別に話題になってようがなってなかろうが、テレビのコメンテーターは政治やら事件やらにぶち切れてるし、お笑い芸人も大体誰かのお笑いにぶち切れてる。
インターネットの人も、インターネットの文化の話になるとぶち切れるし、何かのファンは自らのいわゆる「推し」の話題になると、超感激するかもしくはぶち切れるかの2択である。
もっといえる。アカデミックの人は学問の話題になると大体切れてるし、あと学歴の話になるともっと切れる人が増える。ヤフコメでは常に誰かが切れている。同様にスポーツとかの話題になると、スポーツをやってきた人は怖いくらいに切れる。さすが長年肉体で競争してきただけあって迫力が違う。
べつに、その内容の是非は基本的にどうでもいいんですよ。ていうか、世の中の言葉の大体って内容はどうでもいいの。「正しさ」とか「本質」とか「法」は、もういい。結構です。おなかがいっぱいです。
そうじゃなくて、寛容という感覚の問題。
「寛容力」みたいなのってよく「リーダー論」とかで言われるけど、「寛容力」はそのまま「人間力」であり「人格」。
そして、寛容力が試されることは、自らが戦ってきたフィールドの中で「ぜいぜい」をむき出しにするか否かですよ。
「ぜいぜい」に生きることは、悪いことではない。むしろ、何かの目標を達成したいと願うならば、そこまで本気にならなくてはならない時もあるかもしれません。でも、その鼻息を他人に浴びせて良いかは問題が変わってくる、というお話です。
自分がずっとやってきた事って、もうなんていうか、「当然」の領域が広すぎるんですよ。そうなると、他人に対する想像力というものがまったく欠如してくるんですね。それをいかに食い止めるか。
他人の目の前で「ぜいぜい」を見せつけて、果ては「これくらいは当然、こんなこと当たり前」と言葉を投げつけるのは、へんなやつです。
きもい、と思われるような、「ぜいぜい」の見せびらかしは、別にするのは自由だけどよした方がいいです。
魂が、ゆがんでみえます。