敬語があまり好きではない
敬語があまり好きではない。
目の前の相手に対して対等でいることが難しく感じるから。
年が一つ上なだけで敬語に切り替えなければいけない理由も分からないし、逆に、自分よりたった数百日、数十日後に生まれた人にタメ口で話す理由も分からなかった。
別に尊敬している訳でもない人に敬語を使う理由もよく分からなかった。
英語を使って生活や旅をしていく中で色々な人に出会った。
世界中の国の人と英語で話して、日本人と日本語で話した。
印象的だったのは、出会った日本人は大抵、出会ってすぐに私の年齢と大学名を聞いてきたことだ。
逆に他の国の人は、アメリカ人もオーストラリア人もフランス人もドイツ人もブラジル人…も話の流れで年齢を話すことはあっても、挨拶と同時に年齢や大学を聞くようなことはしなかった。
そのことを発見してから、日本語が象徴する日本文化は、個人を構造の中に位置づける特性があるのではないかと気がついた。
はじめましての誰かと出会った時、私たちが無意識的、意識的に行うことは、私たちが共通して持っている大きな価値観のモノサシの上に相手の情報をプロットして、相手を認識、判断することだ。
そして、相手に応じて器用に振る舞いを変える。
そのモノサシは、年齢や学歴、性別、容姿だったりする。
私たちは、相手が自分より年上か年下かで、敬語とタメ語を器用に使い分ける。
そして、大抵相手の出身大学や職業を気にする。
賢いと言われる大学に通っていたり、高給な仕事に就いていたら、すごいですね、とへりくだる仕草を見せる(ここで本心は問われない)。
人によっては、相手の性別に応じて男らしく振る舞ったり、女らしく振る舞ったりする。
年上の人にはへつらう仕草をして、年下の人にはリーダーシップを見せたり、大きな背中を見せようと試みる。
これは、私が日本で暮らしてきて感じてきた大体の人々の振るまいの傾向だ。
自分の振るまいがいかに相手の外的要因や社会的地位に影響されているかに気がついて驚いた。
私は自分でも気づかない内にたくさんのペルソナを獲得し、器用に付け替えて相手とコミュニケーションを取ってきたのだ。
当たり前と言われれば、当たり前のことかもしれない。
生活が英語圏になったことによって、日本で付け替えていたペルソナを使わなくなり、そんな中日本人に出会うことで、自分が日本で獲得したペルソナが浮かび上がってきたのだ。
それもあってか知らないが、英語はまだまだ下手くそだが、英語を使ったコミュニケーションの方がなんだか素直になれる気がするのだ。
オーストラリアで出会う人たちは私が通う日本の大学なんて知らないし、誰も互いの年齢なんて気にしない。
構造の中にプロットされた一個人ではなく、ペルソナも何も関係ない、個としての自分として、個としての相手と向き合えている気がして、とてもフェアに感じる。
個人を構造の中に位置づけることで、集団全体としての統一は図りやすくなるだろう。
個人個人がどう振る舞うかが、自動的に構造により決定しているので、最悪個人が確固たる意志を持たずとも、流れに身を任せていれば勝手に進んでく。
日本が全体主義と言われる所以もここにあるのではないかと思う。
塾に入ってする受験勉強も、進学先の大学も、その後の進路も、自分で強い意志を持っていなくとも、流れに乗っていれば大体同じところに行き着く。
だから、周りの人間は自分と似たような境遇を持った人ばかりになる。
組織を構成する際に、個人に役割を与え、構造の中に位置づけることと、端から個人を構造の中に位置づけてその人を判断することは、別だと思う。
同じ個人を構造に位置づけるという行為であっても、前者は、組織や団体といった単位であるのに対して、後者は社会全体のデフォルメ状態だ。
組織単位であればその人の在り方は組織内で妥当なものであり得るし、組織を離れればその組織で着けていたペルソナは外れる。
しかし、社会全体のデフォルメは中々変えることは出来ない。
社会の構造の中に自分や他者を位置づけることで、社会の中で決められた役割を無意識的、意識的に演じようとしてはいないだろうか。
この役割は、~らしさとなって私たちの行動を規定する。
この~らしさに適応している人は、波風立てることなく、集団を構成する一部となれるが、そうでない場合どうだろうか。
ここに「出る杭は打たれる」構造が隠れているような気がするのだ。
空気を読め、という言葉に代表されるように、私たちは全体の統一や協調性を大事にし、なるべく波風を立てないように努める。
この統一間から外れた、秩序を乱すと判断されるふるまいをする者は、しばしば周囲の人間から糾弾、非難される。
沈黙や無関心も時には抑圧となりうる。
何かをしたときの周囲からの抑圧や賞賛を通じて、ペルソナを獲得し、~らしさに適応し、集団の中の個としての自分を形成していく。
この自己の形成の仕方は、時に人を苦しめるのではなかろうか。
~らしさに適応していない人は、’普通’になれない、いい子でいなきゃと悩み、逆に~らしさに適応している人は自分は特別じゃない平凡な人なんだと嘆いたり、これは本当の自分じゃないと悩んだりする。
そして過度の~らしさへの適応は時にその人に自分の意志に反した振る舞いを強要させる。
構造に位置づけられた個人は、構造に存在する権力や権威を自ずと獲得、喪失する。ここで本人の能力の有無は問われない。
ハラスメントの問題もここに原因があるように思える。
ハラスメントはその権力を維持するためや、個人の私利的欲求の達成のためや、~らしさの適応の結果として現れる。
ハラスメントを受けた人が声を上げれず泣き寝入りしてしまう、というのはよく聞く話だ。日本人は自己主張が苦手だとも言われる。
これは、声を上げることに対する、抑圧、つまり’出る杭は打たれる’構造によるものだ。
声を上げれない個人に責任があるのではなく、声を上げさせない構造に問題があるのだ。
ジャイアンやスネ夫がのび太の行動に対して、のび太のくせに、と暴力や理不尽を振るうのと同じだ。
個人を構造的に位置づけることで、その人そのものではなく、その人の持つ社会的特性や外見でその人を判断し、下手に持ち上げたり、蔑んでしたりしまうのだ。
そして、私たちを支配している強烈な価値観のモノサシは私たちの自己肯定感や在り方に強く影響する。
やせている方がいいという価値観は過度なダイエットや過食症の原因になり得る。日本は先進国でもあるのに関わらず、低出生体重児の割合は世界的に見ても高いし、その割合は年々増加している。
自分の在り方をあまりにも世間の大きなモノサシに寄せすぎると、無理をしすぎてしまうし、何より自分の在り方が他者依存的だ。
あなたはあなたのままでいいのに。
ずいぶん話が飛んでしまった。
私は、誰かを話をする時に、自分が持つ偏見を可能な限り排除してその人自身と向き合いたいと思う。
その人が持つ想いや、人となり、今まで見てきた景色を知りたいと思う。
そのためには、相手と対等でなくてはならないし、互いに素直でなくてはならない。対話が必要だからだ。
個人を構造に位置づけてその人を捉える方法は、~らしさという偏見で個人を判断し、無意識な「のび太のくせに」という心理は対話を妨げる。
私がその人より少し長く呼吸をしていることは、その人に偉そうにする理由にはならないし、その逆も然りだ。
敬語という文化はこの「個人を構造に位置づけて判断する」という習慣を如実に反映していて、対等であろうとする試みを難しくさせる。
私は、いつしか誰かを無意識に蔑んでしまわないか、怖いのだ。
別に全ての人を軽蔑しているから敬語が好きじゃない訳じゃない。むしろその逆だ。
全ての人と対等に話がしてみたいのだ。
その人が、自分より長く生きているということは、その時間分の経験がその人を形作っているのだろうし、その価値を疑うつもりはない。
私は~らしさという偏見を持ってあなたのことを判断したくないし、構造に位置づけられた役割をあなたが演じることを期待しない。
ただ、相手も同じような態度でいてくれていたら嬉しいな、という想いと共に偶然出会えたあなたのことを可能な限り知ってみたいというだけなのだ。