ういろうじゃないよ うどんげ

小学生の頃から、他人は他人、自分は自分と割り切れない人たちが、どこか苦手だった。
「だって、あの人は」などという他人に対する妬みや言い訳のようなものを聞くたび、僕は憂鬱になった。
自分と他人は圧倒的に違う。
そのことを理解できない子どもたちに囲まれて、僕はどこか浮いてしまっていた。
そのことを自覚して、それを少しだけ心配していると母は「あなたは動物園で生まれたの、だから少し浮いているのよ」と楽しげにくるくると回りながら答えてくれたのを覚えている。
「お母さんはやけにくるくる回るけど、動物園で生まれたの?」
「あれ?何で分かったの?」
と不思議そうに首をひねった。
「なるほどなるほど」
なんだ、僕が浮いているのは動物園で生まれたからだったのか。なら仕方がないかもしれない。
「お父さんはどこで生まれたの?」
「お父さんは病院で生まれたのよ」
再び母はくるりと回った。
「なるほど、だから頭がいいんだね」
「病院で生まれるだけで頭が良いなら大抵の人間が頭良いってことになっちゃうんだけど」
そう母はいうけれど、こんな他人にまみれた世界で、浮かずに生きていく術を身に着けている僕以外の人物は、間違いなく頭がいいとしか言いようがなかった。

そんな世間から浮いた僕は、ニコニコの例のアレ界隈で活動する頃にはついに浮ききってしまい、ついに、完璧に客観視ができるようになった
……俯瞰で物事をみつめる巨大な竜が出来てしまった。
それを僕は、<<ドラゴン>>と名づけていた。
コモドドラゴンの展示されていた動物園で生まれた僕にピッタリなネーミングだと思っている。
どんなに楽しくても、どこかでドラゴンが冷めた目で僕を、その周辺を見下しているのだ。
こんなことを誰に言っても意味が無いし、バカにされることは分かっていたので
「どうしたんですか? 有くん」
有というのは、僕の名前だ。母が僕の名前を決める時に「腹の音が鳴っていてさらに、有田草と蟻を使った料理を食べていた」という理由で「腹(ハラ)」か「草(クサ)」か「有(アリ)」か「蟻(アリ)」で悩んでいて、最終的に有になったらしい。
そしてこのマッチョな女性は尹乃小鳥さんだ。
唯一打ち明けられることができた声優。
「いや、またちょっと……」
「あぁ、糞動画の方じゃなくて、また他人に比べて浮いているとかそういうこと考えてたんですか?」
「賢いね、どこで生まれたの? 病院?」
「大江山ですよ」
「物騒だなぁ」
大江山についての知識が東方くらいしか無かったので、とりあえず適当に返した。
「あ、有くん、あのドブ川を見てください」
「何かあるの?」
「汚い猫のヌイグルミが浮いてますよ。まるで有くんの元師匠みたいですね。良かったじゃないですか」
「浮いていたらなんでも僕に関連付けるのやめてもらえる?」
そう言った時、ふと自分が抜けていくのが分かる。
やはり冷めた竜が、声優二人、つまり僕と尹乃さんを見つめていて……馬鹿な会話しているなと見下していた。
「また変な顔してますよ」尹乃さんがため息を付いた。「そうやって、すぐ変な顔しますよね。四十代前半の男性が古明地こいしのコスプレしてるだけでも変なのに、はやく変な顔するのやめてください」
「人の顔を変変言わないで……」
結局、今日は一日中<<ドラゴン>>している自分を拭えずに、憂鬱だった。


「有くん、どうしたんですかそんな顔して」
「まだどんな顔もしてないんだけど」
別の日、尹乃さんが話しかけてくる。彼女には友人がたくさんいる上に夫もいるが、僕にはあまり友人がいない。
彼女が率先して僕に話しかける意味はないはずなのだけれど、それでも僕を優先して話しかけてくれる。
「どこか浮かない顔です。例のアレ界隈で常に浮いている有くんらしくないですよ」
「やかましいわ」
時々面倒になる尹乃さんだけれど、ありがたいかありがたくないかで言えば……多分ありがたい。
「今日は実はお願いがあるんです。池袋パルコに行きませんか?」
「えっと、ニコニコ本社のあった所だっけ?」
「そうです」
そういえば確かそうだった気もするけれど、尹乃さんが池袋に行くこと自体が珍しいのですっかり忘れていた。
「どうかしたの? 池袋なんて普段行かないじゃん」
「会わせたい人がいるんですよ」

池袋はとにかくゴミが散らかっていたし、何より狭かった。
映画やアニメで見る街並みは、例外なく広々としていて木々が並んでいる印象があった。
だけど、ここは、まったく逆。狭く、臭く、ゴミが散らかっていた。
コロナ禍の中でも路上飲みが横行しているせいで、道に酒瓶やツマミの袋が散らばっている。流石にパルコの中はゴミまみれではなかったが。
「はじめまして、貴方が有くんさんね」彼女が、尹乃さんの言っていた会わせたい人だろう。「緋翠と申します」
想定外の人物だった。

「っとー漢字は宝石の翡翠という漢字の『翡』の部分が緋色の『緋』になっているかんじです。はい。とても読みづらくて、あのー、なんて読むかわかりませんでしたって呼ばれる事に定評がある名前です。でも変える気はないです。へへw
っと、そうだな何がいいかな。あっ、とてつもないニコ厨です。そしてとてつもないオタクです。もう残念としか言いようの無いくらいですねこれは。大抵何を話されても『あっそれね!』っていう風に返す事の…多いですね。残念すぎます。はい。
まあこんな私ですが、まああの、ニコ生やVTuber動画を投稿した時にまあ『ちょっと聞いてやるか』みたいな感じでちょっと聞いてくださるとすごい嬉しいです。よろしくお願いします」
彼女は太っていて、どこか余裕のある優しげな表情をしていた。
「はじめまして、牧野有と言います」
半ば無理やり連れてこられたにも関わらず、尹乃さんはパルコに入る直前に「用事を思い出しました」と言って、居なくなってしまった。彼女に用事があったことなんて今までボイス依頼があった時ぐらいなので、おそらく嘘だろう。
「落ち着いた印象を受ける方ですね」
「よく言われます」
ふふっと、楽しそうに笑った。
「どっしりとしていますね。もしかして森ビルで生まれましたか?」
「森ビル……?」緋翠さんは首をひねった。「それは言われたことないかな……」
「ところで、尹乃さんにあなたと会うように言われたのですが、何か僕に御用ですか?」
「あぁ……それは私のわがままなんだけど……、あなたと話がしてみたかったんだよね。貴方が私の声を使った作品を量産した経緯は『主観で見るHSI姉貴ブーム』を観て分かったからいいとして、それとは別に物事が客観視できるという話を聞いて」
「尹乃さんが言ったんですか?」
「あら、もしかして内緒だったの?」
内緒というわけではないけれど、あまり陰でして欲しい話ではなかった。誕生日会も開いてほしいとは思わないが、僕の誕生日に両親が、僕抜きで僕の誕生日会を開いたことがあり、悲しい気持ちになったことがある。修学旅行中だったので仕方がないらしい。
多分それと同じような理屈だと思う。

「別にそういうわけでは無いんですが」
「聞いてるよ。<<ドラゴン>>だっけ」
「そうです、どのくらい聞いていますか?」
「えっと、人から浮いていると思ったら、本当に浮いて<<ドラゴン>>して見ることができるようになった、で合ってるかな?」
「そうですね、というよりどこか冷めた竜が常に<<ドラゴン>>している。俯瞰で僕の周囲を嘲笑っているって感じですね」
言ってみて、恥ずかしくなった。
別に、話の内容自体は事実なので恥ずかしがることは何もないのだけれど、それをペラペラと例のアレ界隈のゴタゴタに巻き込んだ初対面の人に話してしまった自分が恥ずかしかった。そしてそれを……冷めた竜が嘲笑っていた。
「じゃあ、私のことを<<ドラゴン>>できてるってこと?」
「そうですね……意識してあなたを<<ドラゴン>>して捉えることもできますよ」自分の顔が熱くなるのが分かった。「それよりも、緋翠さん。あなたは、もしかして、僕の言っていることを信じているんですか?」
彼女は首を横に振った。
「そんな話を、いきなり信用する人は居ないよ」
「それは……」
思わずうなずいてしまった。
「私はまだ信じていないけど……私の好きなクトゥルフ神話やSCPと同様に面白い話だと思うし疑ってもいない」
「ありがとうございます」
嬉しかった。初めて自分を理解してくれるかもしれない人と出会った気がした。

「じゃあその<<ドラゴン>>で私を見てもらえる?」
「できますよ」
そう言って、"僕の外の竜"に意識を集中させる。
パルコに、僕が佇んでいた。そして、その正面には太った女性が居る……はずだった。

そこには花が咲いていた。

香りのある暗紅紫色の大きな蝶形の花のように見える。しかも精子のような形の白いものが花に大量に付いている。
「な、えぇ……! ちょっと! ここに立ってもらえますか?」
「どうしたの急に……」
しぶしぶ緋翠さんが、僕の指定した所に立つ。
自分の目で見てみると、どの角度で見ても緋翠さんは緋翠さんで、太っていて、おっとりとしていて、優しそうな、普通の人間だった。
花では決して無い。
「いやいや、どうして……どっしりとして……本当に森ビルで生まれたんじゃないんですか?」
「森ビルで生まれた人間なんてそうそう居ないよ。それよりなんで私の周りをくるくるしてるの?」
「僕の母は、コモドドラゴンのいる動物園で生まれたのでお構い無く」
「関係あるの? お母さんもどうやら随分ハードな人生だったんだね」緋翠さんが、小さくため息を吐く。「それよりも、<<ドラゴン>>のほうはどうだったの?」
「花が咲きました」
「え?」
「だから、<<ドラゴン>>に花が咲きました」
それを聞いて、目を開いてキョトンとしていた。

翌日、緋翠さんのツイッターアカウントをフォローして連絡先を交換した。
「意外ですね。有くんがそんなあっさり……」
尹乃さんにとっては予想外だったらしい。
「でもどうして?」
緋翠さんが首をひねる。太っていて若干首が見えなかったので本当にひねったかは定かではない。
「<<ドラゴン>>に花が咲いた理由が知りたいからです」
緋翠さんも尹乃さんも、何も言わなかった。
改めて彼女を見てみると、普通の太った女性だったが、<<ドラゴン>>して見てみると彼女はやはり花になっていて、しかも昨日より大きくなっていた。
「緋翠さんは、僕の<<ドラゴン>>に咲く花なんです。観察させてもらいます」
「何言ってるんですか?」
尹乃さんが露骨に呆れた顔をするのは、かるしうむっさんの事をエッチなレズビアンだと思い込んでいた事がバレた時以来である。
「とにかく、有くんさんがどんな花を見ているのか……図書館で一緒に調べてみます?」
「は、はい!」
なぜか、びっくりしてしまい声が裏返ってしまった。
「私はちょっとした用事があるんでパスしますね」
そう言って尹乃さんは「ごゆっくり」と付け足して、どこかに行ってしまった。

一週間もすると僕は<<ドラゴン>>ができなくなってしまった。
厳密に言うと、冷めた竜が居たという感覚がわからなくなってしまった。それでもなんとか俯瞰で見つめようとすると、お花畑に支配されている世界が見えるだけだった。
何もかもが花に満ちていて、もう一匹の冷めていたはずの竜は白骨化した上に、その全身を覆うように大量の花が咲き乱れている。
「お花畑になりました、『うどんげ』だらけの」
図書館で調べた結果、花の正体は『うどんげ』だということだけは分かった。クサカゲロウの卵にまみれたアイラトビカズラ。
「できることは全部やったつもりなんだけど……」困ったなという顔をする緋翠さん。「結局よくわかんないことになっちゃったね」
「原因はあなたに……緋翠さんにあるんですよ。緋翠さんがいるから何も見えなくなってしまいました……」
そう言った時、やっと遊園地の観覧車は僕達の番になった。
「おまたせしました、ごゆっくりどうぞ~」
どこか疲れた笑みをしたスタッフの方が、僕達を観覧車へと招いてくれた。

「こうやって交流を深めることで、僕が<<ドラゴン>>できなくなった理由が分かるかもしれませんよ」
飲食自由の遊園地なので、前日に作っておいたシメサバのサンドイッチを緋翠さんに渡しながら僕は言う。
「本当にそう思う?」一時間待って少しくたびれた様子の緋翠さんが、少し困った様子で笑いながらサンドイッチを頬張る。「まぁ、有くんさんが満足ならそれでいいんだけど」
「バカみたいですよ」尹乃さんがため息を吐いた。「私がいるの、忘れてるでしょ」
「あ、忘れてないって……」
「何が<<ドラゴン>>ですか、すぐ近くの存在すら忘れちゃって……」
「だから<<ドラゴン>>は、『うどんげ』で見えなくなっちゃったんだって」
「頭お花畑と虫卵まみれってことですよね」
尹乃さんは呆れたように、だけど少し楽しそうに、徐々に高度が上がりつつある風景を眺めていた。
「私は緋翠さんに有くんをガチビンタする機会を差し上げたかっただけなんですけど、まさかこんなことになるとはね。……結局、ガチ恋は盲目ってことでしょう」
その尹乃さんの小声に対する否定の言葉が見つからず、視線を窓に向ける。
本当の俯瞰でみる景色は、とても綺麗だった。