おまもり

 あなたは、『おまもり』を持っていますか?
お母さんに貰ったって?お土産で買ったって?
いいえ、いま、私が言っている『おまもり』は、いま、あなたが思っている『お守り』とは、ちょっと違うかもしれません。
 自分を守ってくれるもの、それがお守り、そう思ってはいませんか?
それは、それでいいと思います。そう考えるのが普通でしょう。
でも、それだけでしょうか?

 日本に戦争というものがありました。
まだ、百年も経たない、つい最近のことです。
 その時、東京に、空襲という爆弾や焼夷弾(しょういだん)という凶器が、それは狂気といったほうが相応しい物が、空から落とされました。
 人を物を爆破し火達磨(ひだるま)にする。
そう、きょう、凶狂兇恐怯、き、奇鬼忌危が落とされたのです。

 ある晩、もう幾度となく鳴らされた空襲警報のサイレンが夜の闇を切り裂きました。
 灯りが漏れると標的にされるからと、家の灯りは何処にも見えません。
その闇の中を声も出さずに走り、逃げ惑う人々がいました。 
本当の恐怖のとき、息を呑んで誰も声など出しません。
泣き声をあげたのは、訳の分からない幼い子供だけでした。
闇の中にまるで花火のような光が降り注いでいました。
それは、一時とてつもなく長いようで短い時間だったのかもしれません。
空を轟音(ごうおん)で埋め尽くした戦闘機が姿を消した後に、闇と静けさが訪れました。
燃え盛った火の残り火が深い闇と静けさに燻っていました。

 焼夷弾の嵐の中、逃げ惑う人々中には、二十歳になったばかりの幼い母親がいました。
 背中には、まだ一歳に満たない赤ん坊がくくりつけられていました。
その幼い母親は、家族とはぐれてしまったのです。
 「おかあさーん」と母親は自分の母を心の中で呼んでいました。
履いていた筈のズックが片方なくなり裸足になった足にも気づかず、夢中で走っていました。
背中の子は飛び跳ね、泣くことも出来ません。
 息もつけない程に走り続け、気が付くと周りは火の海でした。
その時、彼女は覚悟を決めたのです。

 次の日、家族によって見つけ出された彼女は、うつ伏せで背中を黒く焦がし息絶えていました。
 その体を起こすと、地面に穴が掘られ、そこにすっぽりと子供が入り息絶えていました。
彼女の両手の爪は剥がれていました。
 でも不思議なことに、その母の顔も子の顔も穏やかで苦痛の顔ではなかったそうです。

私は思ったのです。
彼女にとってその子は『おまもり』だったのではないかと…。
命をかけて守りたいもの、守ったもの、それによって彼女は守られていたのではないかと。
彼女が苦しがることで子供を怖がらせないようにと微笑むことで、彼女の苦しさは消えていたなんじゃないだろうか…。

 ベロだしチョンマの話を知っていますか?
飢饉(ききん)が続きこのままでは飢え死にだと、長介の父親が先頭となって米一揆を起こしたのです。
 その結果、村人は助かったけれど、首謀者である長介一家は川原で磔獄門(はりつけごくもん)になることになってしまいます。
 河原で助けられた村人が悲しみ見守る中、怖がってヒキツケを起こしたように泣き出した妹に向かって長介は叫ぶのです。
「兄ちゃんの顔、見てみろ!」
泣き虫の妹を笑わせるために長助がいつもやっている目を寄せてベロを出す顔、それを見て妹が笑った瞬間、顔をそむけた役人が槍(やり)を出しました。
 長介を偲んで、今も何処かの縁日で長助人形が売られると聞きました。
長介は、可哀想だったけれど幸せな人間だと、私は思います。

あなたは、『おまもり』を持っていますか?
『おまもり』は人だけではないと私は思っています。
仕事でも夢でも自分の命を掛けても守りたいもの、それは決して見返りなど求めていないのに、いや見返りを求めないからこそ自分が駄目にならないよう守ってくれている。
 だけど、その大事なおまもりが消えることがある。
ピアニストの指が折れる。
サッカー選手の足がなくなる。
歌が歌えなくなる。
愛する人を亡くしてしまう。
夢が消える。
 でも、ダイジョウブ『おまもり』は、そこに見えなくなっても、あなたを見守り続けている。

あなたは、『おまもり』を持っていますか?


これは、40年位前に「お菓子放浪記」を書いた作家の西村滋さんの講演会を聞いて感動し書いたものです。


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