戦争のない世界
小学生の時、私を子供らしくない変わった子だと言う人と、並はずれて子供らしい子だと言う大人(主に教師)が居たが、いずれにしても私は普通の感じではなかったようだ。
自分では分からなかったが、落ち着きがない協調性?がない(何事も考えずに同意することが出来ない)などと、周りと歩調の合わない私に困った教師が、学校で私がどんな様子か見てくれと母親を呼び出し、授業参観でもないのに、一人教室の後ろに立っていた今は亡き母親を思い出す。
思い起こすと、今もそうだが色々な事に疑問を持っていた。
「友達を作りなさい」と先生は言う。同時に「誰とでも仲良くしなさい」と言う。
だけど、誰かと友達になるとそれ以外の人と勝手に仲良くなれなくなるじゃないか。
誰とでも仲良くしていたら八方美人で節操のない信用ならない人と見なされて、グループに入ることは出来なくなった。私は、何時も一人逸れ、友達って何だろう?と考えていた。
戦争について考える時、あの時の自分を思い出す。
誰かと仲良くする(何かに属す、味方)になるという事は、どうしても仲の悪い者(敵)が出来るということだ。
だったら誰かと仲良くする(つるむ)のを止めたらいいんじゃないのか?と、私は思う。
誰とも手を組まない(どこにも属さない)と、自由に考え、自由に自分の意見が言え、自由に行動出来る。
でも、若し何処かに所属していても、自分に正直に自由でいられたらいいのになぁ。と思う。
親の介護をしていた時「自分の親なんだからよく面倒見てあげるのよ」と上から目線で言う人が随分居た。
そして、私が自分の親や子でない人の世話をしている時「自分の身内でもないのにどうしてそこまでしてあげられるの?」という声を聞いて来た。
私は、何かをして“あげた”ことはない。すべきだと思う事を、やりたい事をして来ただけだ。
親だけを大事にし、自分の国やモノだけを大事にして、他所は見殺しにする事は、当たり前の事なんだろうか?
テレビで「自分がロシアに生まれた事が恥ずかしい」と話している人を観たが、自分が何処に生まれ何に属していようと、そこを背負って立っている訳ではない。
その自分の国を恥と思う事は、自分が白人に生まれただけで誇りとしている白人第一主義の奢りと何ら変わらない。
何処の国にどのような形に生まれようと、自慢することも卑下することもない。
わが身が置かれた場所で、与えられたモノの上で最善を尽くす。
自分がそに気になって求めれば、それ(最善を尽くす事)は出来る。
求めよ、さらば、与えられん。叩けよ、さらば、拓かれん。って、
カミサマ~、私は、戦争のない世界を、求めます。
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