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正しさが分からなくなって引きこもった

2018年に今までにないほどの挫折を経験した。自分の価値感が全て崩れていくのを感じた。何が正しいのか分からなくなった。自分が誰なのか、世界が本当にあるのか分からなくなった。今でも何が何だか分からない。恐ろしくなってTwitterを開くようにした。鍵を掛けて1人でいろいろ呪文を唱えた。頃合いを見て外に出ると、誰かが同じように1人でぶつぶつ言っていた。大勢いたので少し安心した。インターネットをやめろとか、社会が終わればいいとか言っていたので、そんな訳はないだろうと思った。彼らはたぶん芸人だと思う。面白いことを言うので自分も一緒になって面白がった。

ふと自分は何がそんなに面白いんだろうと考え込んでしまった。面白いからにはどこかズレているんだと思う。でもそのズレは何と比べているんだろう。比べたものは正しいんだろうか。自分は頭を抱えて込んでしまった。正しさが何ひとつ分からないので常に恐ろしかった。自分は間違っていて、誰かから責められると思った。インターネットは面白かったけれど、怒られると思ったから笑うのをやめた。

自分は大学で価値観について少しだけ勉強した。4年間で学んだことは「価値観は人それぞれ」ということだった。これは本当に不愉快な話だった。正しさはどこにもないと言っているようなものだったから。神さまがいないとタネ明かしするよりもっと残酷な話だった。自分という異質な存在がそこにいるという違和感を常に覚えなければならなくなったから。

この違和感を覚えていることは、自分自身にとってひどく不利な状態だった。なにしろこのおかげで、自分ははたらくことも勉強することもできなくなってしまったのだから。はたらきたいと思った集団に「あなたはなぜここではたらきたいと思ったのですか」と訊かれたとき、大学院の先生に「ここではどういう研究がしたいのですか」と訊ねられたとき、自分は答えられなかった。正しさが分からなかったから、自分の言っていることはすべて間違いかもしれないと思った。この違和感をごまかしてしまったらすべて演技になると思った。結局自分はどこにも行けずすべてが失敗した。

「価値観は人それぞれ」ということが偉い人の口癖になっている。社会はいろんな価値観を認めようと頑張っていて、すごいなあと思う。その一方で、自分みたいに正しさが分からなくなって困ってしまった人間がいる。自分の信じていた価値観は、人それぞれという言葉で煙のように消えてしまった。

自分には何もなくなったので部屋にいる時間が長くなった。外は面白そうだったけれど、人のこわさがあって近づけなかった。コンビニで食事をとることが増えた。お金が減っているという感覚が次第に消えていった。愛されたいという気持ちもなくなった。まだインターネットは面白いと思えるけれど、この感覚もだんだん薄れている。

自分はとうとう引きこもりになってしまったんだなあと驚いた。昔のことだから話してもいいと思うけれど、自分は人より努力する人間だった。小さい頃から自分のレベルに合ってないことを諦めずに挑戦し続けた。英語が大嫌いだったから大学で学んだことはほとんど英語だった。絶対に引きこもりにはならないと思っていたけれど、実際なってしまっている。ここらへんの過程は漫才を見ているようで面白かった。人生何があるか分からない。

引きこもっている間はほとんど何かを考えることに時間を費やした。たまにゲームをやって疲れたらまた考えた。考え疲れたら寝るようにした。そして起きたらまた考えた。お前は考えすぎだとネットゲームの知り合いに言われた。考えたところで分からないから諦めた方が楽だと思う。それでも考え続けるのは考えたりないからだというのが自分の考えだ。それに諦めたところで自分の気を死ぬまで紛らわしてくれるものはないと分かっていた。

でも、そうやって考え続けても何も変わらなかった。社会は自分がいなくても回り続けるし、人それぞれの正しさがある。自分はそこから少し外れたところで正しさが動いている様子をぼんやり見ていた。けれどもこれを見て、考えているだけじゃだめだ、とか何か行動しなければ、とは思えなかった。これは焦ってどうにかなる問題じゃないと思う。正しさが分からないのだから、また同じように失敗するだろう。自分がわかるのは正しさが動いているということだけだ。自分が行動するということは、正しさを動かすというだけのことだ。そこに面白みがあるように今の自分には思えない。

数か月考えていることがある。正しさの他に面白いものはないかなということだった。最近自分は正しさを考えることにうんざりしていた。正しさが分からなくて卒業論文がうまく書けなかったので、その腹いせだった。酒やたばこ、女という候補がまず上がった。だけどそれらは自分の身を崩すだろうと思ったのでやらなかった。ギャンブルは好きだったから楽しんだ。だけどネットゲームの知り合いの誘いに乗せられて、1億取られたのでこりごりだった。平気な顔をして何度も誘うので、うちは貧乏だということを正直に伝えた。もちろんゲーム内の通貨だ。

飽きたら上野の森に行って芸術を楽しんだ。偉そうな絵が多かったからおもしろかった。一番傑作だったのは椅子にタイヤが刺さってるだけの作品だった。あんなタイヤを見るだけのために700円払わされた。700円あればラーメン1杯が食べられた。芸術の面白さは、それが芸術であると分かれば便器であれ何であれ誰でも神妙な気持ちになるということだ。これも正しさだと思う。芸術の妙を分かるというのは偉そうな人間だけが持っている超能力だと思う。みんな偉そうになりたいから芸術を前にすると急にしゅんとなってしまう。そうでなければどうして700円も払って便器をじろじろ眺めらていられるんだろうか。

しばらくして大乱闘スマッシュブラザーズが発売された。絶対に面白いと思ったので買うことにした。正しさが分からないのに絶対そうだと言ってる自分がおかしかったけれど、敢えて絶対面白いと思うことにした。本当はスマブラなんか遊んでも正しさが分からないから意味がないと思っていた。そんなスマブラだけど、なぜかとてものめり込んでしまった。自分はオンラインでよくデデデ大王を使っていたけれど、ゴルドーっていう針だらけの鉄球を相手にぶつけると、ものすごい勢いで遠くに飛んでいくので面白かった。とにかく強いし相手が簡単に倒れていったので愉快だった。たぶん人生もそういうようにできているんだと思う。

自分は勝利画面でやっぱりデデデ大王は強いなあ!とよく言っていた。ふとそれが正しさのひとつの姿のように思えた。正しさは競争に勝った人間が決められる世の中の認識だ。自分がデデデ大王が強いと言ってそれが正しいことになるのは自分がデデデ大王を使って勝ち進んできたからだ。デデデ大王が本当に強いかどうか、そもそも強さとは何であるかが厳密に本人にはわからなくても、デデデ大王が勝ったということが価値観の正しさを裏づける。それが本当に正しいかは分からないけれど、ずっと昔に戦争で勝った人間が「競争で正しさを決めるルール」にしたのだからしょうがない。そもそもネアンデルタール人が負けてホモ・サピエンスが勝ったのだから、人間にとって都合の良いルールがいま敷かれているし、それを当然のように受け入れている。わんこをペットに虐げたのは他ならぬ人間だった。捕鯨に反対したところで牛はしっかり食べている。

それでも競争をやめろとは思わない。競争は面白いし、競争に負けてもやり直せるようになっている。若いうちはとくにそうだ。自分がニートでも軽い思いつきで競争に参加することができる。実際、偉い人がそういうルールにした。彼らが敗者を処刑するルールにしなかったのは幸いだった。それが正しいかわからないけれどそこは感謝している。

問題はその競争ゲームに意味があるかということだ。今の自分は意味がないと思っている。だから半分ゲームを降りている。世界は価値観をめぐっていつも喧嘩をしている。みんな自分達が不遇だと思っていて、それでも価値観を動かそうと頑張っている。自分は彼らを見て、どうして自分が正しいと思えるんだろうと思った。たとえば、デデデ大王が試合に勝って、デデデ大王が最強!と言って満足したからといって、何があるんだろうか。勝ったという感覚だけがあって、少しだけうれしくなって、それで終わりだと思う。じゃあどうして、少しだけうれしくならなければならないんだろう。そうしたら頭がびりびりして気持ちがいいからだと思う。じゃあどうして頭がびりびりして気持ちがよくならなければいけないんだろうか。

実のところ、自分はここら辺からよくわからなくなってきている。自分の頭がびりびりして気持ちがいい状態になりたいから、価値観をめぐってあれこれ喧嘩するというのが自分の考えだ。でも誰ひとり自分の頭がびりびりして気持ちがいい状態に「ならなければいけない」理由を説明できていない。勝手にそうなるから、というのが一番知られている答えだ。だとすれば、なにかよくわからない得体のしれないしくみによって、勝手に頭がびりびりして気持ちがいい状態になるから、その状態がうまく起こるような行動を学習してもっと頻繁に起こそうということになる。これは本当に変な話だ。自分たちはよくわからない何かに突き動かされて、それが正しいということにしている。だったらあたまに電極をぶっ刺して頭をびりびりさせ続ければいいじゃないかと思う。それが嫌だというのは、やっぱり変な話だ。

あんまり長くなるからこの変でやめるけど、こんな風に考えていくうちに自分が正しいと思える理由が何ひとつわからなくなってしまった。分からないけれど、頭がびりびりして気持ちがいいスイッチは世の中にたくさんあるらしい。そのスイッチを押し続けようとして一生を終えるのが普通だ。もちろん自分もそうするつもりでいた。でも正しさが分からなくなってから、スイッチを押す事の意味が分からなくなってしまった。押さなければ辛いだけだけど、辛いという感覚もよくわからなくなっている。それで今は途方に暮れてひたすらぼーっと考えている。

いろいろ考えて、すべてが無意味であるという結論に落ち着いた。楽しいゲームをしても、おいしいものを食べても、全部頭がびりびりして気持ちがいいスイッチでしかないのだから、すべての価値観は無意味だ。大学で宗教学の先生がおもしろいことを言っていた。よく覚えてないけれど、すべての宗教は教義を正当化(legitimate)する過程だとか。自分はこれが価値観にも当てはまると思う。価値観と宗教は根っこのところでおんなじだ。みんな自分の価値観を正当化したいから殴り合う。自分だってそうだ。挫折したからニートになるって価値観を正当化する戦いに参加させられている。それでも弱い価値観だから「言い訳」の烙印が毎回押されることになっているけれど。

最近スマブラの他にThe Witnessというゲームを買った。これはSteamで売られているパズルゲームで、我を忘れるくらい遊び尽くした。まだクリアしていないけれど、このゲームはとてもへんなゲームだった。自分が誰でどういう目的を持った存在なのかが分からないままスタートした。先を歩くと目の前に簡単なパズルがあって、そのパズルを解くと扉が開いて、外に出られた。あとは自由にパズルを解いていく感じだった。このゲームのおかしいところは、どうしたらパズルが解けるかっていうチュートリアルがどこにもないところだ。だから、チュートリアルの段階でパズルの規則性を読み違えると、後々分からなくなってくる。自分もそこで何度もつまづいた。中には2週間解けなかったパズルもあったし、解けたときには大声を出して喜んだ。

自分はふと何をやっているんだろうと思った。正しさの問題が分からないのに、気持ちがいいスイッチを押し続けて大声を出している。自分でも情けないと思った。でもここ最近体験は自分にとってものすごく刺激的だった。価値観だけでものごとを考えていた自分に価値観以外のものがあることを教えてくれたから。それは仕組みだ。

仕組みは、パズルを解いてるときに実感したものだ。正しさを必ずしも表してはいないし、表しきれていないけれど、仕組みは価値観の影響をあまり受けずに存在する。たとえばスマートフォンは使う人が便利な電話として使おうと、ゲーム機として使おうと、頭にきて画面をバキッと二つに割ろうと、スマートフォンという複雑な機能を持った仕組みはそこにある。もちろんこの仕組みが生まれたのは技術者がこんなものがあったら便利だろうなあという価値観からだ。でも一度作られてしまえば誰かの価値観に流されることはない。

仕組みは本当に存在するか分からない。正しいかどうかも分からない。それでも価値観よりは少しだけ信頼できると思う。自分はいろんなことが無意味だと思っていた。価値観もそうだし、仕組みだってそうだ。だけど仕組み自体は無意味のまま、何かと何かがうまく組み合わさってそこに存在している。たったそれだけだったけれど、それが新鮮だった。

自分は価値観に振り回されるのがもううんざりだったので、ちょっとだけ仕組みについて考えてみようとおもった。確実なものが何ひとつない状況で、どうしたらいいか分からなくなっているけれど、仕組みを考えるのは面白そうだとおもった。どういう仕組みがいいかなーと考えていたら、自分は頭が子供なのでゲームとかお絵かきとか物語とかがいいんじゃないかなあと思った。いろいろつくれば仕組みについて考えるいい機会になるとおもう。飽きたらやめればいいだけだ。

引きこもりが創作を始めるっていうのはよく聞く話だ。大抵は自分の才能の無さにうんざりしてやめてしまう。自分も才能なんてそれほどないとおもうけれど、人気になれるかどうかなんていうことはこの際どうでもいい。自分は仕組みが知りたいだけだ。とりあえず価値観を考えなくて済むなら自分はそれでいいとおもう。正しさがどうとか、もううんざりだ。




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