私は生きたわ 恋心と
好きな曲について勝手に想いをぶちまけるシリーズやります。今日は輝かしき1回目。
悩みましたが最近ヘビロテしているポルノグラフィティの「サウダージ」にします!
ちなみにコード分析とか歌詞分析とかそんな高尚なものではなく、「ここの歌詞やばい」「これはこう意味かな?だとすると…」みたいなことを勝手に書くものなので、仮に否定されても無視します。
(否定されるほど読まれれば御の字ではあるけど)
やり方は探り探りですが、特に気になるところをピックアップしていこうと思います。
サウダージ(saudade)
ポルトガル語のようで、あえて日本語訳としての単語をあてるなら「郷愁」とか「切なさ」みたいだけど、なにやら「car = 車」のように単純な一対一の訳はできないらしい。
今はないものについて、焦がれるような想い、みたいなことなのかな。
私が私とはぐれるとは?
子供が親と「はぐれる」と迷子になるし、雪山で誰かが集団と「はぐれる」と遭難する。
じゃあ、私が私とはぐれるとは。
例えば、私がどこに行ったかわからなくなる、自分を見失うとか。
「自分を見失うわけにはいかない」つまり、自分が自分でいられなくなるわけにはいかない。
逆に言えば、自分が自分じゃなくなるほどの恋をしていた、ということでもあるのかな。
そして、サヨナラをするのはその相手方ではなく、自分の「恋心」というのはあまりない展開。
自分を見失ってしまうような狂おしいほどの恋に「また逢いましょう」と告げてサヨナラする。また恋に落ちるのを避けることはなく、でも今はサヨナラ。
涙の正体
涙を「この恋が終わりゆくことへの悲しみを溶かして溢れ出てくるもの」と例えるこのフレーズが秀逸すぎる。
ここから続く、主人公の相手への(この恋への)想いの強さを表す流れがたまらない。
悲しみを一雫もこぼすことなく保ち続けることで、その痛みがあることで、私はあなたを忘れずにいられる。
「忘れずにいられるでしょ?」と言う彼女の顔はきっと少し首を傾げて、涙を浮かべた笑顔なんじゃないかと思う。
許しを乞う
恋心に許しを乞う主人公。
「ごめんね、でもこのままではもう私は私じゃなくなりそうなの。あの人との甘い夢を見てた。でもそれはもう叶わないの」
この主人公は、自分の恋心をとても大事にしているんだろうな。
強がりきれない素直さ
一つずつ知っていって、一つずつわからなくなって、去っていくあの人に伝えてほしい想い。
「寂しい、手放したくない」という素直な想いと、「私は大丈夫」と強がりたい気持ちで揺れ動く感情を表した名シーン。
高まる感情と恋の肯定
吟遊詩人の語りのようなフレーズと間奏を終えて、ラストのサビではまるで抑えきれない感情の昂りを表すように転調するのがまたぐっとくる。
そして、これまでは自分の恋心に語りかけるように「恋心よ」と歌ってきたものが、最後は「恋心と」と歌う。
永遠を感じることができた恋。
夜空を焦がすほど燃えるような想い。
今は悲しみが胸にあろうと、その悲しみすらも恋をした証。
「こんなに辛いなら恋なんてしなければよかった」と嘆くのではなく、「あなたに恋をした」ということを全力で肯定する。
ここは、歌い方もこれまでと変わる。
これまでのサビの「その日まで」は全て同じ長さの音で歌ってるけど、この最後の「私は」のところは、「わたーしは」と音の長さが変わって強調されている。
「私は恋をしたのよ!」と、辛いことはあってもそれを肯定していこうとする強い想いが溢れる、ぐっとくるところ。
あと、ファーストテイク版ではなく原曲のサビで、「いつかまた逢いましょう」の「逢いましょう」でストリングスがメロディの3度上をなぞっていくところがとても好き。
(伝わるかな。。。)
おわり
サウダージが意味する「ここにはないものへの焦がれるような想い」。
去りゆくあなたへの想いなのか、また逢う日までサヨナラした恋心なのか。
きっとこの「私」は「あなた」とは結ばれず、「あなた」が戻ってくることもなく、そうこうしてるうちに別の人への恋心と逢っていい人生を歩むんだけど、でも心のどこかでは、別れて自分を見失ってしまいそうになるほどに好きになった人がいたことを大事に大事に、時に凛とした痛みを胸に感じながら生きていくんだろうな。
初めてやってみましたが、難しいですね。言いたいことをまとめきれず、書いてるうちに「いや?もしかしてこうかも?」とかなるし。
でもこういうのもいいですね。またやります。
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