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ホモセクシュアリティに対する考え方

こんにちは、プリンセスです🙌

今回は、以前の記事(下記参照)でも言及したように、一般的なアフリカ諸国におけるホモセクシュアリティに対する考え方を少し共有したいと思います。

私はこのお題に対して彼らと話したときに、彼らの回答に対して抱いた感情は、

興味深いというか、
衝撃的というか、
いやまあなんとなく言わんとしていることは理解できるか、

と、まあこんな感じでした。

みなさんはどう思うのかな⁇

※「一般的な」とは言いましたが、もちろん全てのアフリカ諸国に住む人の思いを聞けたわけではないので、情報に偏りがあることはご承知おきください。


ことの発端

なぜこの話になったかというと、

私が出張でケニアに行っていたときにちょうど、ウガンダで、ホモセクシュアルに対してかなり厳しい法案が議会で可決されたから。

日本語版のニュース記事があったので、知らないという方は是非読んでみてください↓↓

で、その出張で出席したワークショップには、ケニア、ウガンダ、スーダン、南スーダン、マラウィ、エチオピア、タンザニア、モザンビーク、マダガスカル、ジンバブエ (とザンビア)から参加者が来ており、当事者のウガンダも含めて、他のアフリカ諸国の人からもこの法案についての意見を聞く恰好のチャンス!と思い、私がこれをランチのときに話題に出したから。

どんな意見が聞けたのか

以下、会話形式↓↓

私「(ウガンダ人に対して質問)ホモセクシュアルの人に対しての法案が可決されたみたいやけど、あなたもあの法案には同感なん?」

ウガンダ人「あれは必要な法律だよ!プリンセスはホモなのか?もしそうだったら、あの法案が完全に固まった場合、自認しただけでウガンダでは捕まるよ」

マラウィ人「あれは西洋から持ち込まれた概念。そういう話をし始めるから、きっと僕もそうなのかもしれない、と思い込んで後天的にそういった特性が身につくんだ」

ウガンダ人「そうそう。生物的にあり得ないよ。男は女を、女は男を求めるものなんだ、それが自然であって、ホモセクシャルは不自然だ」

(そこに同席していた、ウガンダ人、スーダン人、マラウィ人、タンザニア人、ジンバブエ人、ザンビア人の同僚が頷く)

マラウィ人「マラウィでは、ホモセクシャルの人であっても、その”思想”を持っているだけで実践していなければもちろん問題ない(要するに隠し通せ、ということ)」

スーダン人「そうだね。法律がない国であっても、僕たち(アフリカン)的には、そういう人(=ホモセクシャルの人)は地域から孤立して、受け入れてもらえないよ。だから隠し通すか、容認している国に行くしかないよね。アフリカの国々は基本無理だろうね、南アフリカを除いてはね」

ザンビア人の同僚「プリンセス、ザンビアもそうだぞ。法律自体はないけれど、一度自認してしまったら、周りからの目は厳しいよ」

なるほど、勉強になります…。

この後、個人的に話をした南スーダンのWHOから来た友人は、
「もちろんUN(国連)に入るときにホモセクシュアルだからという理由で十分に能力のある人が落とされることはないけれど、その人が働く国がホモセクシャルに対して寛容ではなかった場合、UN自体はそこまでは守ってくれないよ。UNもその国のために働いてるんだし、その国に準じて行動する必要があるからね。もちろん南スーダンでもホモセクシュアルに対してはかなり厳しいよ」とのこと。


と、そのランチでの会話の概要はこんな感じでした。


ちなみにこの会話とは別で私のWHO内のボス(ザンビア人)に意見を聞いてみたところ、

「ホモセクシュアリティを保護するとかサポートするとか、そういう運動は必要なのかなあ⁇日本とアフリカの文化は似ているから、この疑問はプリンセスも理解できるでしょ⁇」
と言われました。

アフリカの文化と日本の文化で確かに似ていると感じるところもあるし、そうやって親近感を感じてくれるのは嬉しいのだけど、このことに関してあなんだか素直にうなずけなかったプリンセスでした。

私が感じたこと

なにに対してもそうだと思うけれど、

こうあるべきだ!

こうあってはならない!

みたいな押し付けって一番酷というか、意味がないというか、めんどくさい。笑

このホモセクシャル対する規則/規制に関しても、
そうあるべきではない」とそれを罰する法律まで作らなくてもいいのに…と思う。

しかも、この会話を共にした人たち、実は、各国の保健省、UNICEF、WHOから来た人たちです。

だからなに⁇って思う人もいるかもしれないけれど、こういう人たちが各国の政府レベルで働いてポリシーを作ったりしているわけです。

それに、WHOもUNICEFもUN機関の一つとして、ホモセクシュアリティへの偏見が医療へのアクセスの妨げになってはいけないと言っているし、差別を止めるようにも言っている。

https://www.who.int/activities/improving-the-health-and-well-being-of-lgbtqi-people

https://cdn.who.int/media/docs/default-source/documents/gender/joint_lgbti_statement_eng.pdf?sfvrsn=fad54fc7_3

そう思うと、なんかやりきれないというか。

文化や慣習って、そういう考え方や物事の捉え方っていうのがあるんやな〜と頭で理解できても、それを100%良いと思えないときっていっぱいある。

けれど、なにかの事象に対して、理解しようとせずに頭ごなしに文化や考え方を否定するのはいかがなものかと思う。

話を聞いた上で、
「でも個人的にこの文化に100%同意はできない」という結論に行きつくのは個人の自由だと思っているけれど。

そして、その個人の意見というものを、どういう立場で言うのかも考慮しないといけないだろう。

というのも、その人の個人的な意見だったとしても、その人が所属している組織・機関・会社の意見だと捉えられてしまうかもしれないから。

私は、
ホモセクシュアリティが全ての国・地域で容認されるべきだと言いたいのではなくて―もちろん罰する法律は意味をなさないと思うけど―、正しい理解(生物学的におかしいとか、西洋からの入れ知恵だとか言わずに)が広がると良いなと思う。

そして何かを必要としているに対してその必要としているものにアクセスできれば良いなと思う。

例えば同性婚が合法、または社会的に容認される、とか。

これはライツベースとニーズベースの考え方になってしまうから、意見の分かれるところかもしれないけれど。

例えば例えば、
個人的には女子教育もニーズベースで考えても良いのでは…?と思っている。

女子教育を世界中の全ての女子に、というけれど(それはそれで理想的であることは賛成)、やっぱりそれは文化や信仰上、すぐに変化を求めるのは難しかったりする。

だけど、
女子は教育を受けるべきではない!絶対ダメ!と規制するのは、うーん違うよなあ。

教育が必要ないと感じている人は強制的に受けなくても良いかもだけど、
学校に行きたい!勉強したい!という女子(子ども)たちが通えるような環境は本当にあってほしいと思う。

どこにいても、
何においても、
選択肢があって、
必要だと思うものを自分の意思で選択できるというのは、
究極の自由だと思う

そして、自分と意見の違う人の話を聞いて、
その上で自分はどう思うのか、
どういう姿勢でいようとするのかを考えて、
言語化して、
ディスカッションできることはこれも究極の社会勉強であると思う。

みなさんはどう考えますか?

Bon après-midi☆

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プリンセス
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