中田裕二と椿屋四重奏に人生ごと酔いしれて

 2025年1月9日の夜に、noteを書くことを決めていた。
 
 年始に今年やりたいこと100を決めた。うち、まだ30個程度しか浮かんでいないけれど、そのうちの一つにnoteを書くことがあった。
 何を書こうか、題材はいくつか浮かんで、ではなんのために書くのかと考えた時に「感情を保存しておくために書きたい」と思った。
 その軸で自分を見つめたときに、自分を大きく揺さぶる感情が生まれるテーマの一つに「中田裕二」と「椿屋四重奏」があった。

 そして、初めてのテーマに選び、今日という日を待ってこうして書いている理由がある。
 椿屋四重奏2025の中田裕二ファンクラブプレミアム会員先行の当落発表の日だ。
 もし、チケットが取れていたら自分はどうなってしまうのか。
 もし、チケットが取れていなかったら、自分は何を思うのか。
 その感情を、出来ればフレッシュなままどこかに保存して、時折覗きこんでみたいと思った。
 今日、18時から順次発表とされた当落。その時間を迎えるまで、申し込みをしてから今日まで何を書こう、何を書こうと考えてはいろんなことが廻った。

 12月26日の年忘れでの特大発表、急遽配られたフライヤーを折らないように慎重に慎重に持って銀座線に乗り込んだ。
 震えるままに友人にLINEした。
 ねぇ、東京来て。仕事忙しいと思うけど。
 興奮と信じられない気持ちのまま、短い文を打つのが精一杯だった。
 絶対行く。
 友人からも頼もしい一言が返ってきて、遠く離れていても興奮と動揺が共有できていることがよくわかった。 
 平日22時すぎの銀座線で、何度もフライヤーを見返しては、夢じゃない、夢じゃないと目に焼き付けた。酔夢譚というネーミングだったけど、これは現実。ちょっと家に真っ直ぐ帰る気にならなくて、落ち着くために深夜営業のカフェに入って一呼吸ついて。
 あっという間のようで、長かった今日までの日々だった。


 椿屋四重奏を知ったのは、中学3年生のとき。
 当時、イオンをはじめとした大型ショッピングモールなんて地元には無くて、文房具を買うのも本を買うのも、どこかの個人商店だった。
 その地元で、唯一CDを扱っていたのが駅のロータリー沿いの小さなCDショップだった。あまり人が入っているところは見たことがない。取り扱っているCDも今思い返せば店主の趣味なのか、品ぞろえは子どもが楽しめるラインナップだった記憶がない。
 受験の空気感が一気に濃くなってきた秋、友人と息抜きで電車で出かけようということになった。
 当日、友人から15分遅れてくるという連絡が入る。携帯電話は折り畳みのものがギリギリ学生にも普及し始めたか否かという具合。
 遅刻癖のある友人で、それ自体にはもう慣れていて、またか、という諦めの気持ち半分、残り半分は既に駅についてるんだけどな、くらいの小さな不満。
 当時の携帯電話は何も時間潰しになるものもなく、既に駅についていた私は手持ち無沙汰で、何となしに件のCDショップに入った。

 おじさんが一人。「いらっしゃいませー」と言ってちらっとこちらを見て、何かの本を読んでいた。自分以外にお客さんはいなかった。
 特に買う予定もなくただの冷やかしになってしまったな、と居心地の悪さを感じながら、でも友人が来るまでのあと10分をやり過ごそうと逃げるように視聴機のヘッドホンを被った。
 何のCDが入っているか分からない。でも、しんと静まり返った店内で黙ってCDを物色しているよりもいいと思った。
 とにかくと、再生ボタンを押す。黒い視聴機のにはCDが半分くらい見える窓がついていて、その中でCDが回り始めるのが見えた。
 どんな曲が流れてくるか分からなかった。

 でも、幕開けのギターの旋律が、全部の思考をどこかに吹き飛ばしてしまった。
 なんとなくの居心地の悪さとか、あと何分で友人が来るかとか、早く来てくれなかなとか、買わずに店を出たら店員のおじさんに悪いなとか、そういうの、全てを。

 なんだ、この声。なんだ、この曲。それだけが頭の中を埋め尽くした。
耳を覆うヘッドホンの中で、全ての音が調和して弾んでいるみたいで、でもその声は頭の上に降り注ぐような、背中をそっと押してくるような、身体の緊張をするすると解くような、身体全体を覆うようにも聞こえてきて。
 力の入っていた体から緊張が抜き取られて、でも心臓だけはバクバクと一生懸命に動いていて、自分でも何が起こったか分からない。
 え、え? 
 そうこうしているうちに、友人から『どこにいるの』『電車来るよ』と連絡が来て、現実に引き戻されてなんとかヘッドホンを取り外すことが出来た。
 これ、誰の歌?なんてCD? 
 詳細を一つでも、そう思って手作りのポップに目をやる。
『椿屋四重奏』『薔薇とダイヤモンド』
 どっちが曲名? どっちがグループ名? いや、覚えてられるかな、これ。せめて、片方だけでも覚えて帰れれば。
 それを目に焼き付けていると、再び友人からメールが届く。もうそれが限界で、私はCDショップを飛び出した。


 その日、友人と解散し、一度自宅に戻ってCDを買うのに必要なお金を引っ掴んで再び駅のロータリーを目指した。
 それが、初めて椿屋四重奏のCDを手にした記憶。

 
 何度も『薔薇とダイヤモンド』を聞いて、新譜が出れば買って、それでも長年叶わなかったのがライブだ。
 高校生が一人でライブのために東京に行くなんて言語同断で、それも私は理解していて、だから大学生になったら、成人したら、たくさんライブに行くんだと意気込んでいた。
 そして、二十歳になって初めて椿屋四重奏のライブに足を運ぶことになる。念願が叶った、2010年12月。丁度、20歳になった年。中野サンプラザ。

 夢みたいだった。
 いつも自分の部屋で一人で楽しんでいたのに、会場にはたくさんの人がいて。皆同じ方向を見つめていて。手を挙げて。身体を揺らして。
 その熱視線を集めているのが、本物の中田裕二で。
 私が恋焦がれるように聴いてきた歌が、生きていた。
 中田裕二が喉を震わせて、生の声が響き渡って。
 ステージを照らす光が怪しくその姿を浮かび上がらせて。

 あの光景は、今でも新鮮に思い出せる。なんという経験をしてしまったんだろう、と信じられなかった。
 会場を出た後、すばらくボーッとしてしまった。魂をごっそり中野サンプラザに置いてきてしまったみたいだった。
 でも、寒空の下を駅に向かって歩いていくうちになんとなくじわじわ涙があふれてきて、置いてけぼりにしてきた魂がゆっくりと戻ってきて、ああこんなアーティストに出会えた自分はとても幸福なんだと噛みしめながら歩いた。冬なのに、頬が温かかったのを覚えてる。
 涙が落ち着くころには、分離していた魂はすっかり元あるところに戻ったみたいで、ふわふわした火照りから解放されていた。
 また、来よう。次は、もっといろんな会場に足を運べるように。
 大げさかもしれないけれど、その瞬間椿屋四重奏がただの音楽ではなく、大事なピースとして私の人生にカチッとはめ込まれた。

 だから、同じくらい2011年1月11日を忘れられずにいる。
 ひゅっと、心臓が縮こまったあの瞬間を、今でも覚えてる。
 夢であれ、と何度も思った。でも、夢にはならなかった。
 

 それでも、中田裕二の作る音楽が好きで、ずっと追ってきた。
 気が付けば社会人になっていて、学生の頃よりは金銭的なやりくりを考えずにいられるようになった分、仕事でいかに休みを取るかのほうが死活問題になって。
 そうしていくうちに、子どもが出来て、コロナ禍になり。
 椿屋四重奏20周年の告知が出た時には、真っ先に浮かんだのが「どうしよう」だった。
 行きたい、行きたい。一夜限り。20周年。そればかりが頭を埋め尽くして、でもまだ幼い子どもを他の家族に託していけるかと言われたら、家族の個々の事情があって難しくて。
 だから、縋るように当日のライブ配信を見た。
 こんな、特等席みたいなところで観れるなんてと自分なんとかなだめすかして。
 
 画面の向こう側では、りょーちんが笑っていて、たかしげがベースを弾いていて、裕二が楽しそうで。
 ああ、もしかしたらこの先はもうこんな機会はないかもしれない。画面を見つめながら泣いてしまったのには、いろんな気持ちが含まれていた。
 三人を観れたこと、素晴らしいカメラワークで観られたこと、行けなかったこと、その他言語化できなかった何か。
 やっぱり、行きたかったな。それが一番だった。
 でも、中田裕二の歌が好きだから。ずっと中田裕二を応援していくから。中田裕二の音楽はずっとあり続けると信じているから。
 そう言い聞かせ続けた。

 


 なぜか今年の誕生日に「お父さんがいる日は、お父さんと寝るわ」と宣言した我が子。
 家族が多忙なせいで、ずっと私にべったりの子どもだった。
 え、本当に? と聞き返せば
 うん、お父さんと寝てもいいかなって。
 いいかなって。なんとも自信満々な返事が返ってきた。その自信の源泉はよくわからないけれど。
 それまで、職場の飲み会も断り、友達の結婚式の二次会も断るくらいに、私がいないとだめだった子なのに。唐突な親離れ的な成長が見られて、私の方が動揺してしまった。
 でも、子どもの発言には夫も乗り気だった。
「今までありがとう。たくさん我慢させてごめん。ライブ行っておいでよ」

 7月の品川
 11月のプラネタリウム
 12月の年忘れ

 今まで行けていなかった分を取り戻すかのように、行けるイベントに足を足を運んだ。
 ライブに行くたびに思うのは、中学3年生の私から今の私まで、ずっと中田裕二に魅了され続けていて、きっとこの先もこれは続いていくんだろうということ。やっぱり、人生のかけがえのない一ピースに組み込まれているから。
 
 時に投げやりになる気持ちに寄り添い、
 時に湯船に沈んでいきそうな疲れを肯定し、
 時に朝の空気を肺一杯に吸い込む手助けをしてくれ、
 時に夜の道をステップさせてくれるような、
 そんな、私の日常に組み込まれている音楽。

 15歳で出会って、もう人生の半分以上椿屋四重奏と中田裕二の音楽が傍にある。
 

 2025年1月9日
 今日、仕事がなかったら、自分はどうにかなってしまっていたかもしれない。
 18時になって、自ずと心臓が大きく脈打って、手先から血の気が引いて、頭のてっぺんだけがひりひりして。気を抜くと、膝がかくんと抜けてしまいそうだった。
 18時5分になってもメールは来ない。SNSの反応を見ようとXを開こうとしてはやめて。何度もメールアプリを開いて確認して。
 どうしよう、どうしよう。でも、だめでもまだ申し込める機会はある。でも、でも。
 1分経って、2分経って、全く通知の来ないスマホを前に涙目になって。
 そして、10分を過ぎたころ、メールアプリに赤い印が灯った。
 あ。
 その一言が零れた瞬間、ぼろっと涙のほうが溢れた。
 やったー!とか、ぐっと拳を握り締める自分を想像していたのに。
 
 夢じゃないよね。大丈夫だよね。
 意味もなく、何度もスクショを撮ってしまった。代わり映えしないのに、ずらっと同じ写真がカメラロールに保存された。
 今落ち着いてみると、なんだこれと呆れるけれど、でも、この自分の不可解な軌跡すら中田裕二、椿屋四重奏の思い出の一つにしたい。
 



 2025年3月20日
 15歳でプロローグに心奪われ、
 20歳で強烈な体験をして、直後に喪失感を味わった。
 そんな自分たちを抱きしめてから、豊洲に行くよ。

 何年経ったって、何があったって「君無しじゃいられない」

 

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