酒神教について 〜その思想、その神秘〜
皆さんは『酒神教』という宗教をご存知でしょうか。
あまり耳馴染みがないかもしれませんが、実は紀元前に端を発し現在まで連綿と続く、歴史の深い宗教なんです。
〜その教義〜
一口に言うと「この世が生み出された際、神様は酔っ払っていた。そのためこの世は不完全な形に仕上がった」というのが、酒神教の唱える教義となります。
酒神教(酒教とも)で崇められる神の名は「コホルル(Coholul)」とされ、多くの文献には「アル・コホルル(Al-Coholul)」と記されています。"al"のつく理由は諸説ありますが、通説では冠詞(英語でいう"the"と同じ)とされ、酒神教の文化圏では信徒であることを表明する際に名前の後ろにつける(後置冠詞)形で使われる習わしがあります。
〜酒神教における創世神話〜
全能の神にして創世神であるコホルルが、あるとき「自身の全ての力をもって何かを生み出してみよう。己は全能の神であるから、きっと素晴らしいものが現れるに違いない」と思い立ったことからこの世界は始まりました。
偉大なるコホルル神が初めて全ての力を注いで取り組む大仕事です。途中で力が尽きるようなことがあってはいけませんから、霊力をもたらす蜜の酒(一説には果実酒とも)を湛えた大甕を傍らに置き、杯になみなみと酌み取り、まずはこの世がどういった決まりで動くようにするかを考えました。
そうして杯に満ちた酒を飲み干すと、この世の理を良しとし、ひと息つくと次のところに取り掛かりました。
この世の理を整えたコホルル神が次に取り掛かったのは、空をこしらえることでした。ふたたび傍らの大甕から杯になみなみと酒を酌み取り、この世の帳をどんな色で染めるかを考えました。
そうして杯に満ちた酒を飲み干すと、闇色に青と朱が代わる代わるめぐるのを良しとし、ひと息つくとまた次のところに取り掛かりました。
空を整えたコホルル神が次に取り掛かったのは、海をこしらえることでした。みたび傍らの大甕から杯になみなみと酒を酌み取り、この世の底をどのように塞ぐかを考えました。
そうして杯に満ちた酒を飲み干すとき、うっかり中身を零してしまい、更にはそこに空の色が溶け出しました。これを見てその深く鮮やかな様を良しとし、ひと息つくとまた次のところに取り掛かりました。
海を整えたコホルル神が次に取り掛かったのは、陸をこしらえることでした。前と同じように傍らの大甕から杯になみなみと酒を酌み取り、どのように地を敷こうか考えましたが、この頃になると少し酔いが回ってしまっていたので少々でこぼことしてしまいました。
それでも杯に満ちた酒を飲み干すと、これはこれで趣があるように見えたので良しとし、ひと息つくとまた次のところに取り掛かりました。
ややでこぼことした陸地を整えたコホルル神が次に取り掛かったのは、陸を草木で飾ることでした。前と同じように傍らの大甕から酒を酌み取り、陸の隅々まで種を蒔こうとしましたが、この頃になるとだいぶん酔いが回ってしまっていた上に陸がでこぼことしていたので、種が根付いたところと根付かないところでむらができてしまいました。
それでも杯に満ちた酒を飲み干すと、酔いの気分も相俟ってそう悪いものとも思わなかったので良しとし、ひと息つくとまた次のところに取り掛かりました。
草木を散りばめてごまかしたコホルル神が最後に取り掛かったのは、生きとし生けるものを世に放つことでした。前と同じように傍らの大甕から酒を酌み取り、子らを美しく生み育てようとしましたが、この頃になると相当酔いが回ってしまっており、意識はぼんやり、手元はおぼつかず、不揃いな子らが次々と生まれてしまいました。
それでもどうにか杯に満ちた酒を飲み干しましたが、もはや飲んだ酒の量もかかった時間も覚えがつかず、出来をあらためる間もなくひっくりかえって眠りこけてしまいました。
生まれた子らの声は偉大なる神に届かず、そのまま暫しの時が流れました。
酔いから目を覚ましたコホルル神は、この世を見て驚きました。はじめに思ったものとはまるで違う出来栄えの世が目下に広がっていたからです。
はじめのほうに整えた海や空は素晴らしい出来でしたが、あとのほうにこしらえたものはそのようではありませんでした。
子らは理に従えず、地に溢れ、その諍いは絶えることなく、酔っ払い神への不平不満を口にするばかり。
コホルル神は自分の失敗に気付きこの世を正しくつくりなおそうとも考えましたが、さいごにはそのままにしておくことにしました。既に生まれた子らを切り捨てるのも躊躇われましたし、何より同じだけの酒をもう一度飲んでやり直すのはあまりにも大変に思われたからです。
大甕に残った酒を杯でちびちびと啜りながら再度この世を眺めると、まあこれはこれで賑やかでいいのかもとも思え、己のいない間も逞しく生きてきた子らが案外可愛く感じられてきたので良しとし、コホルル神はこの世をただ酒の肴として眺め続けることに決めました。
〜その思想と文化〜
上記の創世神話の通り、酒神教では「この世の不条理は全て神が酔っ払っていたことに由来する」と考え、その上でそれらを受け入れることを信条としています。また、不条理の元となった酒は同時に神の力の源であるとして神聖視され、いつしかコホルル神と同一の名で讃えられるようになりました(※アル・コホルルの名がアルコールの語源とされる)。
また、飲酒で酔うことが酔っ払いの神へ祈りを届ける手段であるとし、数日に一度以上の間隔で神へ祈りを捧げながら酒を口にする宗教的慣習があります。酒神教徒同士での会合があわせて行われる地域もあるとか。
(※創世神話にちなむ日数だが、宗派により七日説、十日説、十三日説などがある。伝承に齟齬があるのは酩酊した神が日数を数えられなかったためとも言われている)
※酒神教のとある一派は「酒の酩酊が深まると神がはじめに定めた世の理に到達できる」と主張している。当然ながら度を越した酩酊は危険で、「見ているのは真理ではなく幻覚なのではないか」との批判もある。
該当の宗派ではこれらの酩酊行為による『負の徳』のような概念を『酒クズカルマ(SKK)』と呼び習わし、「真理に近付くほど俗世での人望を失う」として酒神教徒内でも異端視を受けている。
いかがでしたでしょうか。
2019年現在、日本における酒神教徒は一名しか確認されておりませんが、ご興味をお持ちの方は近隣の居酒屋やバーなどで会合を探し参加してみるのもいいかもしれませんね。