不完全性ってなに?― エンジニアのための「隠喩としての建築」読解with GPT4o
【前回より】
本稿は、納期に追われながら未来のものづくりについても考えなきゃ、、と思っている新人バックエンドエンジニアが新しい時代のシステムの在り方について「隠喩としての生きたシステム」を考えるために、柄谷行人さんの「隠喩としての建築」(講談社学術文庫)の難解な文章をGPTに助けてもらいながら読み解いていく記事です。
ぜひ「隠喩としての建築」をお手に取って読んでいただくことをおすすめします。
今回は「隠喩としての建築」20ページからつづきを読んでいきます。
完璧で堅固なものづくりをめざそうとすることのアイロニーが見えてきます。
あなた:
本の続きを読むので 手伝ってください
ChatGPT:
『メタファーとしての建築』(隠喩としての建築)の続きを読み進めるために、どの部分についてサポートが必要ですか?
具体的な概念や章の内容について解説することもできますし、議論したいテーマがあればそれについて深掘りすることも可能です。
あなた:
「アイロニカルなことは、西洋思想史において、建築的たらんとすることが、むしろそれのみが、いつもその逆のものを露出してきたということである。ポール・ド・マンは、言語の厳密な使用を目指したロックこそ、比喩的言語・自然言語に関する最初の考察者だったという。
『実際、ロックが語や言語に関する理論を発展させるとき、彼が構築するのは実は比喩の理論なのだ。むろん彼自身はけっしてそのことを認識しないし承認しないだろう。われわれは、ある程度、ロックを、その明示的な言明に抗って、あるいは無視して、読まねばならない。とりわけ、啓蒙主義の思想史において一般にそう考えられているような 常識を無視しなければならない。・・・・・・すなわち、ロックは、明示的な言明においてでなく、とくに言明に関する 明示的な言明においてでなく、意図や確認できる事実に還元できないような、彼自身のテクストのレトリカルな動きにおいて読まれるべきである。( 「メタファーについて」 )
このような逆説は、しかしテクストの意味生産性というような一般論から来るのではなくて、ロックが明示的に「言語の厳密な使用」を追求したからこそ生じる。」
上記を解説してください。
ことばは完璧になりえない。
ChatGPT:
この部分は、ジョン・ロックの言語に関する考察と、彼が意図せずに引き出してしまった「比喩」や「レトリック」の役割について、ポール・ド・マンの視点から解釈しています。柄谷が指摘しているのは、西洋思想史において、「厳密な言語使用」や「論理的な構築」を追求すればするほど、むしろその反対、つまり言語の比喩的な側面や曖昧さが浮かび上がってくるというアイロニーです。
具体的に解説すると、次のようなポイントが重要です:
1. ロックの意図と実際のズレ
ロックは言語を明確で厳密に使おうとした啓蒙主義の哲学者で、言語が曖昧であることを克服しようとしました。
しかし、ポール・ド・マンによれば、ロックが意図した「厳密な言語の使用」を目指す過程で、実は「比喩の理論」を構築してしまっていたのです。つまり、ロック自身が気づかないうちに、彼のテキストが比喩的な側面を表に出してしまっている、というアイロニカルな状況が生まれています。
2. ロックのテクストの「レトリカルな動き」
ド・マンは、ロックの文章を読む際、ロックが意図していない「レトリカルな動き(修辞的な動き)」、つまり言葉が持つ曖昧さや比喩的な性質に注目すべきだとしています。
ロックは「言明」や「確認できる事実」に依存して言語を厳密に定義しようとしましたが、その過程で逆説的に、言語の比喩的な側面や自然言語の曖昧さが際立つ結果になったのです。
3. 常識に抗う読み方
ド・マンは、ロックを読む際に「啓蒙主義の常識を無視する」ことを勧めています。
これは、啓蒙主義が信じるような「言語を合理的で厳密なものにする」という前提から離れ、ロックが無意識的に引き起こした言語のレトリカルな側面(比喩や曖昧さ)を読み取る姿勢を持つということです。
言語の中に含まれるアイロニカルな要素や矛盾を見抜くことで、彼の意図とは違った観点から彼のテクストを解釈できる、という逆説的な読み方が推奨されています。
4. 「逆説の発生源」としてのロックのアプローチ
柄谷は、ロックが「言語の厳密な使用」を追求したからこそ、逆に言語の曖昧な比喩性やレトリックが露出してしまうと述べています。
これは、言語を厳密に扱おうとするほど、言語のもつ自然な曖昧さや比喩性が浮かび上がってくるという皮肉な現象です。
あなた:
続きを読みます。
『ロックの建築的な意志が、その反対のものを露出してしまうのだ。ユークリッドの『原理』が、厳密さをめざすそのことによって、非ユークリッド幾何学の可能性を呈示してしまうように。つまり、ド・マンがロックに関して示した逆説は、明示的に「建築への意志」が徹底的につらぬかれているところで、またそこでのみ不可避的に成立してしまうのだといえる。そして、それはテクスト一般の問題ではありえない。実際に、テクストの多義性が「問題」になるのは、それに先立って構造主義的な「建築への意志」があったからであり、またそのかぎりにおいてである。しかも構造主義的な企てがその逆のことを語ってしまうという逆説において。』
解説してください
ChatGPT:
この部分では、ロックの「建築的な意志」が逆説的に「その反対のもの」、つまり厳密さの中に潜む曖昧さや多義性を浮かび上がらせる現象について説明しています。
柄谷は、厳密さや構造性を追求する意志がむしろその限界を露呈するというアイロニーを指摘し、これを「建築的な意志」と「逆説」の観点から議論しています。
ここでのポイントは次の通りです:
1. 建築的な意志と逆説の成立
「建築的な意志」というのは、言語や理論を論理的に構築し、厳密に意味を固定しようとする意志を指します。
ロックは言語を厳密に理解しようとする中で、その反対の曖昧さが表れてしまいました。
この現象をド・マンは逆説として捉えました。建築的な意志が強く働くほど、その意志がかえって曖昧さや多義性を暴露してしまうという矛盾が発生するのです。
2. ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の例え
柄谷はこれを、ユークリッド幾何学が非ユークリッド幾何学の可能性を予示してしまう現象になぞらえています。
ユークリッド幾何学は、厳密な空間の法則を定めようとしましたが、結果的にその厳密さゆえに「他の幾何学もありうる」という可能性が示唆されてしまいました。
つまり、ある枠組みが徹底されると、その枠組みでは説明できないものが見えてくる、という逆説が成立します。
3. 構造主義と「建築への意志」の逆説
柄谷はまた、構造主義についても同じ逆説があると述べています。
構造主義は意味を構造化して明確にしようとする思想ですが、その試みが逆にテクストの多義性や曖昧さを露出させてしまいます。
構造主義的な「建築への意志」が強く働けば働くほど、それに抗うように多義性が浮かび上がるという矛盾です。
4. テクスト一般の問題ではない
この逆説的な現象は「テクスト一般」に当てはまるわけではなく、あくまで「建築的な意志」が強く作用している場合にのみ現れるとしています。
つまり、テクストの曖昧さや多義性が「問題」として意識されるのは、まずそのテクストが構造化され、厳密さを求められる状態になっている場合に限られる、ということです。
5. 逆説の本質
構造主義や厳密さを追求する意志は、もともと「曖昧さを排除して明確にしよう」とするものです。
しかし、その試みが徹底されると、その意図に反する結果(曖昧さや多義性)が露出します。このアイロニーを、柄谷は「建築的な意志」が成立するところでのみ生じる逆説として捉えています。
このように、厳密さを追求することが逆説的に曖昧さや多義性を顕在化させるという現象は、単なるテクストの特性ではなく、ロックや構造主義のように「建築的な意志」が作用している場合にのみ避けられないものとして発生する、というのが柄谷の主張です。
あなた:
続きを読みます。
『この逆説は純粋詩を企てたマラルメにもあてはまる。言語の日常的な使用価値をしりぞけ、 まったくの関係のみで成り立つ語の構成を試みようとするこの企てが出会うのは、"偶然性"である。いうまでもなく、純粋詩の「不完全性」 (ゲーデル)は純粋詩を建築しようとする途方もない企てのなかでのみ見出されるのであって、そのような「建築への意志」が逆に自然言語を明るみに出すのだ。『エウパリノスまたは建築家』において明確に詩人を建築家として規定するポール・ヴァレリーは、ポウからはじまった一連の詩人たちの企てが何を意味するかを自覚している。それは、詩作(ポイエーシス)というそれまで神秘的に見られていた領域を技術という観点で意識化しようとすることであるが、逆にそれは技術(テクネ―)というものをより本質的に考察することにほかならない。』
解説してください。
ChatGPT:
この部分では、フランスの詩人マラルメやヴァレリーを例に、「建築的な意志」が逆説的に不確実性や自然言語の曖昧さを露わにしてしまうという現象を論じています。
柄谷は、詩における「純粋性」を追求し、日常言語の曖昧さや偶然性を排除しようとする試みが、むしろその逆の結果を生むことを指摘しています。
以下にポイントを整理します:
1. マラルメと「偶然性」の逆説
マラルメは、詩における純粋な言語の構成を追求し、言葉の「日常的な使用価値」を排除しようとしました。
彼は、言葉が本来持っている実用的な意味や価値から独立し、言葉同士の「純粋な関係」だけで成立する詩を目指したのです。
しかし、この「純粋詩」を追求する過程で出会うのが「偶然性」です。
これは、意図を超えて不確定要素が生じるという逆説的な状況であり、純粋を求めるほどに詩が偶然性や曖昧さに依存するというアイロニーが浮き彫りにされます。
2. 「不完全性」と純粋詩の限界
柄谷はマラルメが目指した純粋詩の「不完全性」を、数学者ゲーデルの不完全性定理にたとえています。
ゲーデルの定理では、ある体系が完璧であろうとするほど、その体系内部で証明不可能な命題が存在することが明らかにされました。
同様に、純粋詩も「完全な詩」を目指せば目指すほど、その詩の中に「偶然」や「曖昧さ」が入り込んでしまい、「完全」を達成することができなくなるのです。
3. ポール・ヴァレリーと「詩人=建築家」の意識
ポール・ヴァレリーは、『エウパリノスまたは建築家』において、詩人を「建築家」として描いています。
これは、詩人が単に情感にまかせて詩を創作するのではなく、建築家のように詩を技術的・論理的に構築しようとする意識を持つことを意味します。
彼は、この詩作の試みを「技術(テクネー)」として意識し、詩作を構築的に捉え直そうとしました。
4. 詩作の神秘から技術への転換
ヴァレリーによれば、詩作(ポイエーシス)はかつて神秘的な領域と見なされてきましたが、彼は詩作を論理的かつ技術的なものとして捉えようとしました。
しかし、この技術としての詩作の試みは、単に詩を合理化するだけではなく、「技術」そのものの本質についても再考することを促します。
詩が「建築」的に構成される中で、逆に詩が日常言語の偶然性や自然な曖昧さをも暴露するという皮肉な状況が生まれるのです。
5. 技術(テクネー)の本質的な考察
詩作を技術として意識することで、詩の構成や論理的側面が意識化されますが、その過程で技術(テクネー)そのものについての深い考察が生まれます。
詩作の中に「技術」としての秩序を持ち込むことで、言語の偶然性や自然な曖昧さが見えてくる。このことは、「建築的な意志」を突き詰めたときに、逆にその枠組みから外れるものが浮かび上がるという逆説を示しています。
まとめると、詩を「建築的」な構造として作り上げようとするほど、その詩の中に偶然や曖昧さが現れ、それが技術の本質や限界を考えさせるという逆説が生じます。柄谷はこの逆説的な性質を、建築的な意志が強く働く場面でのみ見出されるものとして捉えています。
ゲーデルの不完全性定理ってなに?
あなた:
質問していいですか?
数学者 ゲーデルの不完全性定理 なんですが、ある体型が完璧であろうとするほど その体系 内部で照明不可能な命題が存在することが明らかにされた ということなんですが
これについて もうちょっと詳しく解説してください
ChatGPT:
ゲーデルの不完全性定理は、数学や論理学における重要な定理で、「完全で一貫性のある数学的体系には、証明不可能な命題が必ず存在する」ということを示しています。
この定理は、私たちが持つ「論理や数学を通じてあらゆることが証明可能だ」という直感に挑戦するもので、論理や数学の限界を明らかにしました。
ゲーデルの不完全性定理の概要
ゲーデルは、1931年に「形式的な数学体系」について次の二つの定理を証明しました:
第一不完全性定理:
任意の一貫性のある形式体系(たとえば、算術のような自然数の体系)には、体系の中で証明も反証もできない命題が存在する。これはつまり、その体系が完全ではないことを意味します。
第二不完全性定理:
自己言及的で一貫性のある体系は、自身の一貫性を体系内で証明することができない。これは、「その体系は矛盾がない」ということを体系の内部で保証することができないということです。
第一不完全性定理の意味
第一不完全性定理において、ゲーデルは、「ある形式体系が完全で一貫しているならば、その体系の中には決して証明できない命題が含まれる」という事実を示しました。これを簡単に言うと、どれほど厳密で論理的に整えられた体系であっても、その体系の内部には「証明できない命題」が存在するということです。
この考えを支えるために、ゲーデルは体系内で自己言及的な命題を作成しました。たとえば、「この命題は証明できない」というような文です。この文が体系内で証明できるとすれば矛盾が生じ、逆に証明できないならば、それは証明できないことが証明されるという逆説が成り立ちます。
このようにして、証明も反証もできない命題が体系内に存在することが導かれました。
第二不完全性定理の意味
第二不完全性定理は、数学のような体系が自分自身の一貫性を証明することはできない、という事実を示しています。つまり、ある体系が矛盾していない(矛盾が存在しない)ことを証明したければ、その体系の外側から証明しなければならない、ということです。
ゲーデルの不完全性定理のインパクト
ゲーデルの不完全性定理が証明されたことで、「すべてを証明できる完全な体系を構築する」という夢が限界を持つことが明らかになりました。
例えば、算術の体系においても、私たちが体系をどれほど論理的に厳密にしても、証明できない命題が必ず残ります。
これは、すべてを完全に説明する「究極の数学体系」は存在し得ないことを示しており、現代の数学や論理学における重要なテーマです。
また、この定理は、純粋詩や言語の構造について考える際の比喩としても用いられます。
例えば、先ほどの柄谷の議論でも、「純粋詩を完璧に構築しようとするほど、逆に不完全性(偶然や曖昧さ)が現れる」というように、体系の追求がその逆の結果を引き出す「逆説的な構造」の理解に役立っています。
まとめ
ゲーデルの不完全性定理は、どれほど厳密であっても、「証明できないもの」が体系の中に必ず存在することを示しています。この定理は、数学にとどまらず、論理や哲学にも深い影響を与え、「人間の知識には根源的な限界がある」という洞察をもたらしました。
あなた:
すっごく面白いです
ChatGPT:
そう言っていただけて嬉しいです!
ゲーデルの不完全性定理は、論理や数学の枠を超えて、知識の限界や「完全性」を追求することの逆説的な難しさについて深い洞察を与えてくれます。もしさらに掘り下げて議論したり、他の哲学的な視点からも考察してみたいテーマがあれば、いつでも教えてくださいね。
偶然性や曖昧さのなかで生きる。
あなた:
このページの後で、ヴァレリーが人間が作るものと自然がつくるものとはどうちがうのかという問いに直面した、とあります。
『ヴァレリーは、「人間と自然」を対比させているのではなく、制作・建築という視点を徹底的に追求して行ったときに見出される 限界、あるいは不可能性を、かりに「自然」と呼んでいる。 したがって、「自然が作るもの」は狭義の自然物に限定されない。明らかに人間が作ったものでありながら、しかもなその構造=作り方が不透過に見えるものがある。事実われわれはそうしたものに、自然言語、自然都市、自然史のように、しばしば自然という名を冠せている。この意味で、「自然が作るもの」は、「人間が作るもの」の特性を明らかにすることによってのみ 明らかになる。 』 とあるのですが、つまりそれは完全性や一貫性を目指すことは空虚であり、また人間にとって自然というものは目指すものや構築するものではなく、融合したり取り入れたりするものだということでしょうか?
ChatGPT:
ヴァレリーが述べている「自然が作るもの」は、人間が意図的に作り出す「人工物」と対比されるものではなく、むしろ人間の作り出す構造や秩序の限界や不完全性を際立たせるものとして「自然」と呼ばれています。つまり、自然という概念は、あくまで人間の制作や建築の視点から見たときに、その枠外にあるものを示すための仮の呼び方です。
ここで言われている「自然が作るもの」は、たとえば「自然言語」や「自然都市」のように、確かに人間の手によって作り上げられているけれど、その成り立ちや構造が複雑で、あたかも自然のように見えるものです。人間が意図的に完全性や一貫性を目指して作る「人工物」とは異なり、こうしたものには計画的な秩序や明確な法則を適用することが難しく、結果として「不透過(ブラックボックス)」な構造に見えます。
完全性や一貫性を目指すことは空虚である
あなたの問いの通り、「完全性や一貫性を目指すことは空虚である」という見方にもつながります。
人間が構築しようとすればするほど、その意図から外れるような不完全性や曖昧さが生じ、それが「自然」に近づくような特性を帯びてきます。
これは、ゲーデルの不完全性定理のように、システムが完璧を目指すほど、そこに「証明できない命題」が生じることと似ています。
つまり、自然とは「完全に作り上げられたもの」ではなく、人間の設計の及ばない領域や、予期しない秩序といった側面を取り入れることが必要なもの、とも言えます。
自然を「目指す」のではなく、「取り入れる」ものとして
ヴァレリーが示唆しているのは、自然を「目指す」対象ではなく、むしろ人間が「取り入れたり、融合したりするもの」として捉えることの重要性です。人間の知識や技術で自然を完全に構築しようとするのではなく、そこに含まれる複雑性や予測不可能な要素を、柔軟に取り入れる姿勢が求められているのです。
この視点は、現代のシステム開発にも通じるかもしれません。
完全で一貫したシステムを目指すだけでなく、ユーザーの意図しない使い方や予測不能な変化を許容し、システムの中に「自然のような複雑さ」を持ち込むことで、より生き生きとしたシステムが生まれる可能性があるでしょう。
あなた:
はい あなたと同じことを考えていました
ChatGPT:
こうして考えを共有できると、ヴァレリーや柄谷が探求している「自然」と「人工」の境界がさらに深く理解できるように感じます。
完璧さや一貫性を求めすぎると逆に空虚さが生じ、人間の活動においても、むしろ自然と融合する柔軟さが新しい可能性を生むといえますね。
この視点は、システム設計の在り方やユーザーとの関わり方にも深く影響しそうです。また何か気づきがあれば、ぜひ共有してください!