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3.「リアルな街」とは何か? −フュージョン体験と街−

【全8回連載目次】
1. 我々は街をどう見ているか?
2. 人々は街で幸せになったか? −「感情の劣化」の問題−
3.「リアルな街」とは何か? −フュージョン体験と街−(←今回)
4.人間の尊厳と街との関係 −廃墟が魅力的な理由−
5.僕たちは街と対話している −アフォーダンスとノイズ−
6.俯瞰的に街を見るとは? −生態系の一部としての人−
7.街が立ち上がり、人が輝く瞬間 −文学やドラマが捉える街−
8. 我々は街をどのように見ていくべきなのか?


3人への問いかけ「リアルな街」とは?

このセッション(「全まち会議2023in東京ちよだ」オープニングセッション)を開始するにあたり、私は3人にこのような問いを投げかけてみました。

  1. 社会が急速に変容してきた中で、今リアルな街、まちづくりが重要な理由は何か。

  2. ローカルな地域主体のまちづくりと、俯瞰的に考える都市計画との連動はいかにあるべきか。

  3. そのような中で我々プランナーやまちづくりを先導していこうとする者(行政も含めて)の役割は何か。

 3人はこの問いを受け止め、蓑原氏はセッションを行うにあたって約10ページにわたる論考を描いて頂きました。私が最初の問いに書いた「リアルな街」という意味は、インターネット化、SNS化とそれに伴う社会の個人化を通じて、バーチャルな世界に閉じこもり、現実に存在する街に興味を失っている人が増えているのではないかという問題認識です。
 しかし、蓑原氏はこの「リアルな街」の意味を掘り下げます。 

 例えば大丸有であるとか、あるいは日本橋であるとか、あるいは森ビルの六本木であるとか、なんとかして、近代化の流れを進めようとしている。しかし、それが行き先不安、行き止まり感情を与えているのではないか。それがまさに今、宮台さんが言っている感情の劣化を招いている原因ではないのか。なんとなく僕らも虚しいなと感じているからそれを、高鍋さんは、リアルな街ってなんだろうというふうに問題提起をしている。そのリアルというものを、じゃあこれから議論しましょうよということが、まず出発点になってくる。
 その時にそのリアルの対象になっているのが、今2つの大きな問題があって、1つは、その客観的な対象としての都市という物理的なもののリアルさというのをどう考えるかという問題と、もう一つはそれを眺めている人間の心のリアルさというのをどう考えるかという問題があって、その辺をばらしながら議論していかないと、うまくいかないんじゃないかというのが、最初の出発点です。

蓑原氏発言

 ここでは、①都市の物理的・機能的なリアルさ、②人の心のリアルさという視点を提示しています。蓑原氏は、リアルな街は人の都市体験に大きな印象を残す、あるいは人間として成長する過程として重要な経験をもたらす場になっているかどうかが重要ではないかと言っておられるように感じます。

まち体験の重要性と「フュージョン」体験

 ところでまちを考える際に人の心の問題をどのように扱うのでしょうか。このことは前回話題にした「幸せ」とも関係します。つまり、人がまちに居ることによって幸せを感じるかどうか、あるいは心の平安をもたらすかどうかという問題です。人の心の問題は極めて個人的な問題であり、このような議論では扱いにくいのではないかと考える人もいるでしょう。しかし、登壇した2人はそのようには考えません。今回も以前のセッションでも、2人の実際の都市体験を語る場面がありました。蓑原氏は言います。

 僕自身の経験から裏付けます。僕は東京の当時(1930年代)のスプロール前線だった目黒、祐天寺裏で生まれ、小学校5年まで過ごしました。東横線祐天寺駅前の通りと油面通りが「まち」で、桶屋、自転車屋の子などまちの友達もたくさんいました。街路に沿って多様な家で構成されている街並みがあり、縁日になると露店が並んで賑わい、ちょっとそれた横道では仲間遊びができました。たまの休日には母親に連れられて渋谷、浅草、銀座に行き、身近な街並みとは違う、きらびやかな世界の最先端に触れていました。疎開で福岡に行き、唐人町、西新町などが身近な「まち」、天神町や中洲がハレの「まち」で、そこが僕の人生の学校でもあったのです。だから、「まち」は懐かしい。

引用:『全国まちづくり会議、宮台氏との対談のためのメモ』蓑原敬

 色んな人達が混ざって暮らしていたこと、そのようなカテゴリーの違う人が一緒に遊ぶ体験の重要性を指摘しています。宮台氏もほぼこれと同じ考え方を示します。

 宮台さんは何故そういう大人かと尋ねられる。言葉・法・損得への閉ざされを嫌い、コントロールよりフュージョンを好み、フェチよりもダイヴを好む性質のことでしょう。答え。外遊びで年齢・性別・家業などのカテゴリーを越えてフュージョンし、友達んちで御飯や風呂をいただいて親と交流した、幼少体験がベースとなっています。

宮台氏発言

 「年齢・性別・家業などのカテゴリーを越えてフュージョン」した幼少体験がベースとなって今の自分があると言っていますね。もう少し掘り下げると、カテゴリーを超えた人と交わることで、先の「ピティェ」を形成してきた、つまり人間としての感情の豊かさを醸成してきたと言っているのですね。そしてそれこそが街に生きる意味であり、そのような街が「リアルな街」だと言っているのだと思います。しかし、この話を「昔は良かったんでしょうね」で終わらせてはいけないでしょう。では、「リアルな街」とは一体何なのか?

「リアルな街」の学問的解釈

 では、学問的には「リアルな街」とはどのように解説できるのでしょうか。宮台氏は言います。

 包括的アーバニズムの最終目標「リアル」は環境倫理学者ベアード・キャリコットの「人間の尊厳を支える街」そのものです。(中略)美学者の廃墟論やキャリコットの人類学的思考の教養があれば「ヒトの尊厳を支える街=フェイクならぬリアルな街」が何なのかは自明です。ヒトはルーティンの外に出て世界に抱かれていると感じると、力を回復してワクワクし、神経症的反復強迫を脱して感情的安全を得ます。

宮台氏発言

 少し難しくなってきました。まず少なくとも「リアルな街」の問題が学問的にも検討されていることは確かなようです。リアルな街とは「ヒトの尊厳を支える街」という解釈が出てきました。そしてヒトの尊厳を支えられているということは、力を回復する、ワクワクする、感情的安全を得た状態になることだと言っていますね。この感情的働きがすなわち人間の尊厳が支えられている状態で、こういう状態になれる場が、「リアルな街」というロジックのようです。
 では一体どういうまちが「リアルな街」なのか、次回は「尊厳」というキーワードを元に考えて見ましょう。

(高鍋剛/Jsurp理事(副会長)・株式会社都市環境研究所)

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