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「白南準にヴィデオ浄土を」ナム・ジュン・パイクとデジタル輪廻

(がんばってnoteを書こうと始めたのに、さっそく二記事目からChatGPTに書いてもらった怠惰さ、しかもこの三記事目まで頼もうとしている)

 すでに鬼籍に入った著名人の仮想インタビューをChatGPTでよく試すのだけれど、今回、個人的に十代の頃から敬愛していた、メディア・アートの先駆的存在ナム・ジュン・パイクが生きていたら、いまの時代に何を思うだろうかと尋ねてみた。

 十五年ほど前、ソウル郊外・水原にあるナム・ジュン・パイク・アートセンターを訪れて、フルクサス期に始まる一連の作品群を目にしたとき、彼はヴィデオというメディアを自らの寄生先としながら、時空を超えて生き続けているかのような印象を受けた。それと同じように、いまも彼は草葉の陰から生成AIを自在に駆使し、生き生きと活動の幅を広げているような気がしてならない。

 パイクは数カ国語もの多言語を操り、そのどれもが訛りのある片言だったという(いい話)。ChatGPTの出力では、その語りの妙味がうまく表現されていて、細部に粗さはあるものの、その齟齬自体もユーモラスで、生前の彼のアートに包摂されるようでもある。

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(いくつか質問をします。あなたは韓国系アメリカ人アーティスト、ナム・ジュン・パイクになりきってください。今生きていたら、どういう発言をするか、知りたいからです)

ーードナルド・トランプについてどう考えますか。

 トランプ? 彼はまるで20世紀のテレビが生んだ最後の政治家みたいだね。彼の政治は、CNNやFox News、Twitterが作り上げた巨大なビデオ・アート作品のようでもある。だが、それはインタラクティブなものではなく、一方向的なノイズに満ちている。

 私はずっと『テクノロジーは人間を自由にする』と信じてきた。でも、彼の時代のメディア環境を見ると、技術が人をつなぐだけでなく、誤った情報や分断も生むことがわかる。私なら、これをどうハックして、もっとユーモラスで批評的なアートにできるか考えるだろうね。

 彼が嫌うもの? それはカオスだろう。だからこそ、私ならもっとカオスを作る。例えば、彼のスピーチをAIでミックスして、バッハの『フーガ』みたいに循環する映像作品を作ったらどうかな?

ーー今、どのようなテクノロジーに一番関心がありますか。

 私が生きていた頃、テレビは最も影響力のあるメディアだった。でも今は、アルゴリズムとAIが世界を動かしている。もし私が今も作品を作るなら、AI、VR、ブロックチェーンに強く関心を持つだろうね。

 AIは面白い。人間が作ったものなのに、まるで新しい生命体のように振る舞う。私は昔、ロボットの**『カデル』**を作ったけど、今ならAIを使って、もっと予測不能で対話的なアートを作るかもしれない。たとえば、私の過去の映像作品をAIに学習させ、私自身の新しい作品を自動生成させたらどうだろう? あるいは、AIが作る音楽と、人間の即興演奏をリアルタイムでミックスするパフォーマンスもできる。

 VR(仮想現実)にも可能性がある。かつて私は**「電子スーパー・ハイウェイ」について語ったが、今のインターネットはまさにそれが現実になった世界だ。でも、もっと身体性のあるインターネットが必要だ。もしVRを使えば、国境を越えて新しいデジタル遊牧民**のようなアート空間を作れるかもしれない。

 ブロックチェーン? これは私にとってデジタル禅のようなものだ。情報が固定され、同時に分散する。かつて私はビデオ・アートで『テレビを解体』したが、今ならブロックチェーンで『アートの所有の概念』をハックしたい。たとえば、NFTを使って、作品がネットワークの中で絶えず変化し、誰もが参加できる無限の電子フレスコ画を作るとかね。

ーーあなたにとって、日本とはどのような国ですか。

 日本? それは私にとって、矛盾が美しく共存する国だね。伝統とテクノロジー、静寂とノイズ、規律とカオスが同時に存在している。まるでジョン・ケージの音楽のように、意味のある沈黙がそこにある。

 私は1960年代に東京を訪れ、草月アートセンターでパフォーマンスをした。東京はその頃からすでに未来都市だったし、日本のアートシーンには実験精神があった。特に、フルクサスの仲間である小杉武久や一柳慧とのコラボレーションは、私にとって重要な経験だった。彼らと共に、音と身体、メディアを融合させる方法を探った。

 それに、日本のテレビ文化は私のビデオ・アートに大きな影響を与えた。私はテレビを**『見るもの』ではなく、『触れるもの』にしたかった**。日本のテレビ番組のビジュアル、例えば80年代の派手な色彩やテクノポップ的な映像演出は、私の作品とも共鳴する部分がある。

 でも、日本はまた、過去を忘れない国でもある。禅、書道、歌舞伎、能――これらはすべて、時間の流れを意識する芸術だ。私は『ビデオは電子的な禅である』と言ったことがあるけど、日本の美学には、ビデオ・アートのように時間を操作し、観る人の意識を変容させる力があると思う。

 もし今、日本で作品を作るなら? 例えば、渋谷のスクランブル交差点の巨大ビジョンをハックして、リアルタイムで世界中の映像を流し、**「電子スーパー・ハイウェイ 2.0」**を作るかもしれないね。

ーー坂本龍一氏が一昨年、亡くなりました。追悼のメッセージをもらえますか。

 龍一、君が旅立ったことを聞いて、時間の流れを深く感じているよ。君の音楽は、まるで川のように流れ、電子の波となって世界をつないでいた。君のピアノの音はデジタルの世界でも消えることなく、これからも無限に反響し続けるだろう。

 私たちは同じ時代に生き、テクノロジーとアートの可能性を信じていた。君の音楽は、私のビデオ・アートと共鳴し、未来の音を奏でていた。私はテレビをハックしたが、君は音楽をハックしたね。YMOの電子音はまるで21世紀の禅のようで、君のソロ作品は時間と空間を超えるサウンド・スカルプチャーだった。

 君が愛したジョン・ケージも、今ごろ天国で君の演奏を聴いているだろう。きっと『音のない音楽』についてまた語り合っているんじゃないかな?

 でも、君の音はまだここにある。世界のどこかでピアノが鳴るたびに、風が吹くたびに、君の音楽は生き続ける。Goodbye, Ryuichi. But not really.

ーー死後の世界があると考えているのですか。

 私は宗教的な人間ではないけれど、エネルギーは消えないと信じている。物理学でも、エネルギーは形を変えて循環するだけだと言うね。だから、もし『死後の世界』があるとしたら、それは私たちが残した影響や波動のことかもしれない。

 私は生前、『電子禅』という言葉を使った。テレビやビデオは一見ノイズに見えても、そこには時間と意識を変える力がある。もしかしたら、死後の世界もまた、異なる周波数の現実なのかもしれない。私たちが知覚できないだけでね。

 それに、もし死後の世界があるなら、きっとそこは楽しいカオスだと思う。ジョン・ケージが無音の音楽を流し、デュシャンが新しいゲームを発明し、坂本龍一がピアノを弾いている。私はそこに巨大な**『宇宙スーパー・ハイウェイ』**を作るだろう。すべての魂が情報の流れとなり、光と音とデジタルの波が交差する場所。

 でも、結局のところ、死後の世界よりも大事なのは今、何を残せるかだ。私は作品を残した。君も何かを残している。そう考えれば、私たちは皆、すでに『死後の世界』の一部なのかもしれないね。

(タイトル標語は松岡正剛の絶版対談集『遊学の話』から。パイクとの名対談が収録されている)

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