
『最長片道切符の旅』を旅する day39-1 どうやって四国を出るか、それが問題だ (3) 松山まで
「『最長片道切符の旅』を旅する」は
宮脇俊三『最長片道切符の旅』(新潮文庫)を忠実にたどる記録です。
[day39] 窪川 0622ー0837 宇和島 0840ー0929 伊予大洲 0946ー1113 松山 1126ー1137 堀江 1205ー1216 松山1220(バス)1255 松山観光港 1415(フェリー)1610 呉港(徒歩)呉 1640ー1656 仁方 1721ー1859 三原

今日は「四国を出る」のだが、それが大変なのだ。「最長片道切符の旅」では今は廃路となってしまった「仁堀連絡船」を辿らなくてはならない。
仁堀航路は影が薄いが、私の最長片道切符にとっては貴重な存在である。
なにしろ同じ駅を二度通ってはならぬというのが最長片道切符の条件であるから、もし宇高航路だけで仁堀航路がなかったら、最長片道切符のルートから四国をはずさねばならなくなる。
この仁堀航路は先生が最長片道切符の旅をした1978年から4年後の、1982年に廃止されている。だから、先生も滑り込みであったのだ。

私が旅をしているのは仁堀航路廃止40年後である。四国と本土を結ぶ航路は、しまなみ海道が開通したためにほぼなくなっている。島と島を結ぶ航路も、今は橋が架かっているのでこれもほとんどない。

仕方が無いので、ほぼ近いと思われる「松山観光港ー呉」を結ぶ航路を取ることにした。四国は「入る」のも難しかったが、「出る」のも難しいのだ。

さて、昨夜泊まった「窪川」を始発で出発する。あいにくの雨だ。とはいえ、ずっと鉄道に乗っているので雨が降ろうが降るまいが私には関係ないんだけどね。





0622 窪川始発の予土線に乗っているのは私一人だけだった。
他にはどさっと積み込まれたビニールでくるまれた新聞の束。

この始発列車は新聞輸送車でもあったのだ。各駅で新聞配達人が乗り込んできて一束づつ下ろしていく。

予土線は四万十川添いに走る。蛇行する川を串刺しするようにトンネルと橋で繋いでいく。時々、沈下橋が見える。併走する国道には車も走っていない。

途中、半家(はげ)駅という印象深い駅を通る。


この路線、始発駅から終着駅まで136分、列車にトイレがないのが少々不安だ。と思っていたら「江川崎」駅で12分のトイレ休憩があった。ありがたい。

そこへやって来たのがまさかの「新幹線」(笑)
日本で唯一新幹線がないのが四国。そこで四国に新幹線を誘致するために作られたのがこの列車。中のシートや料金版などは本物の新幹線で使われていたものだ。「ホビートレイン」という。「プラレール」とのコラボレーションだそうだ。


ぼちぼちと高校生二十人ほどが乗ってくる。かれらは「近永」でどっと降りていった。地図で見てみたら「県立北宇和高校」の生徒たちだった。

「務田」(むでん)を通る。ここは四国お遍路を歩いていたとき、前の晩泊まった宇和島から始発でやって来て第41番札所へ歩き出したところだ。第40番から第41番は長かったなあ。見渡したところお遍路さんは見えなかった。

0837 宇和島駅着。宇和島駅はターミナル型の駅である。


ここから予讃線の特急「宇和海」(うわかい)に乗り換える。


あたりの山は一面のミカン畑で、丹念に石を積んだ段々畑が山上までつづいている。まさに「耕して天に至る」だが、ミカン畑には温かさとのどかさがある。
伊予大洲で「伊予灘線」に乗り換える。(伊予灘線も「愛ある伊予灘線」とかになっちゃって、「伊予灘線」でいいじゃないの、ねえ)

先生の頃も今も「予讃線」は伊予大洲から海の方へ伊予長浜、伊予市を経由する「伊予灘線」が幹線である。しかし、1986年に短絡ルートの「内子線」が開通、全ての特急は内子まわりとなってしまった。

「最長片道切符」は当然、海まわりの伊予灘線を通るため、特急を伊予大洲でおり、伊予灘線普通列車に乗り換える。




伊予灘線は伊予長浜から海沿いを走る。途中、「串」(くし)といういさぎよい名の駅を通過。ここ近くの鉄橋が「18切符」のポスターに使われた。

そしてもう一つの「青春18切符」ポスターで有名なのが「下灘」駅である。先生の頃は無名の駅だったが、このポスター以後、撮り鉄、インバウンドなどで騒がしい駅となってしまった。
私が通ったときも沢山の人だかりで、皆カメラを構えていた。

伊予灘線は海に沿って走る。



今回の旅はここまで。次回はいよいよ「仁堀航路」を辿る。
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