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407. 【ボヤキ】2024年10月




10月に入っていろいろとまたやるべきことが増えて。

それを毎日こなす忙しい日々なわけで。

淡々とただ淡々と積み重ねる時期でいる。


ついこないだ夏鈴ちゃんがドラマに出演するという事でドラマ「モンスター」を観た。


まあなかなかに救われない役であり、胸糞強めのエンドであり・・・

んでまた夏鈴ちゃんから漂うか弱さ、もろさみたいなものが見事に役にマッチしている訳で。


結構引きずった。

親和性が高いがゆえに喪失感が強かったのかもしれない。


ある意味自分の立場から見ても結構刺さるようなストーリーで。

誰か一人の棘だけでなく、ひとつひとつの棘が複合し折り重なって結果が生まれてしまう。

そういったことを強調したいためにわざとああいった脚本にしたのかな・・・と思った。





とまあまるでそのドラマが何かの前兆だったのかは分からないが、その直後に人生の視野が大きく広がるような、究極的な体験をまたまたした。


伝わってくる話とかドラマとかそういった間接的な、こんな感じだろうというイメージは自分の中であったけどそれは自分のイメージでしかないわけで。

もしかしたら全く現実と違う妄想である可能性もあるわけで。


でも実際に目と耳で味わった感覚というのは直接的な実感だった。


感情をむき出しにする

のではなく

「無」に近い感情。


「無」は固いし重たい。

その場ですぐに何かできるわけでもない。

進むこともなく戻ることもなく、ただ「無」とその場にいる。


さざ波と大波を繰り返し、大波が来た時に堤防が決壊しないよう抑え込む時に自然と無意識に出てくるのが「無」なのかもな・・・と。



究極的な経験を実感してやっぱり自分の内側をもっともっと強くしていかなきゃなんだな・・・と思ったし、逆に外へ外へ押し出していく強さも鍛えねばだなと悟った。


どうしても話す相手の状況や言葉、表情が気になり無意識にブレーキがかかり過ぎてしまうのだが、ある意味バカになって、酔ってるようなそんな感覚でぶち出していく力を付けて行こうと思う。


多少この経験ってのは整理付くまで時間がかかりそう・・・






ひとつ浮かんできた答えを最後に書いとこうかと。



やっぱ闇ってのは自分で取りに行く、突っ込みに行くものではない。


だって人生70,80年平均寿命まで生きたら誰しもどっかで自然と数回ぐらいデカい闇にぶち当たるもんなんだから。


だから敢えてそこにのめり込む必要はないわけで。

でもまあ世の中の結構な数の人間ってのは目の前の欲やらいっときの好奇心のためにわざわざ自ら闇に飛び込むわけで。


なんだかますますそういう人に対する嫌悪感、拒否感がガチガチに強まったなと感じた。


まあでもその闇に飛び込んでいく人というのは、闇に自分が飛び込んでいるとか目先の欲にくらんでいるだけとか、気づかないから突っ込んでいくわけで。


でもそういうのって本能的に誰しも備えているもんじゃないの???

そういう危険センサーを自分で勝手に鈍くさせてきただけじゃないの???

と思ったりする。


生きてきた環境の問題とか近くにいた人間関係の問題とか正直どこまでそれが影響するのかは分かんない。

(もちろんなかなかにそれが自分の性格や感情に厄介なほどこべりつくことは分かっている)


でもいくら過酷な状況下で生きていたとしても、その後自分のセンサーを経験で磨いて180°ひっくり返している人、成功談はいっぱい溢れている訳で。


だから環境的な話に100%責任を押し付けるのは説得力に欠けるな・・・と思う。


単純に、純粋に自ら闇に飛び込んでいく人。

そして闇同士慣れ合い、集団でどんどんどんどん鈍くなっていくグループ。

ただただ可哀想。

としか思えない。


何か起きて「何で自分だけこんな目に?」って泣きじゃくって癇癪起こして泣き喚いても

う~ん

そらそやろ。としか。



自分も自分で色んなトラブルに出会って、人間関係の整理をしたけどそれは間違ってないなと。

これから先の単純に、純粋に自分の感性を楽しませることってのに近づける選択だったなと。


そう再確認できる経験だった。




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