第十八章 泊まった旅館は事故物件 まわりは海で逃げ場なし
この物語はフィクションです。登場する団体、名称、人物等は実在のものとは関係ありません。
赤線とはー
性風俗の混乱を恐れた国が慰安所として許可を出した特殊飲食店街。半ば公認で売春が行われ、警察の地図に赤い線で囲ったため、赤線と呼ばれた。ー
―四国・歓楽街―
宇高連絡船の舳先が瀬戸内海のだだっ広い海を切り裂くように進んでいる。潮風を受けながら虎之介や女たちはデッキでキャアキャア騒いでいる。すっかり観光気分だ。
浜やんも同じデッキにいるのだが、気分はちょっと違った。話が盛り上がって四国行きを決めたものの、なにせ四方を海で囲まれた島である。逃げる時の足は連絡船しかないのだ。
―行くからには成功させたいが、うまく逃げられるか。
修善寺ではまんまと店の女将を騙すことに成功したが奪った支度金は少ない。その上、横浜で英気を養って結婚式まで挙げたりと、赤線から金を奪う回数がかなり減っているのだ。金は思った程貯まっていない。内心焦っていた。
―しかし、この焦りは危険でもある。へたに決行しても逃げ場がなければ…。
宇高連絡船が高松桟橋に着いた。
船から降りた四人は再び電車に乗って松山に行き、そこからバスで道後温泉のほうに向かった。
四国では高知・玉水一帯の赤線街が百二十軒前後の店に四百五十人の女たちを擁し大歓楽街を築いていた他、高松の東浜周辺にある八十数軒の色里、そして琴平など、酒と女を豪語するお国柄らしく島のあちこちに旦那衆を歓ばせる店があった。
温泉場として有名な道後温泉は芸者衆が百二十人程、赤線街には二十数軒の店に百八十人弱の女たちがいた。
四人は先ず温泉街の中を避け、温泉街から少し離れた場所にある安宿を探した。
宿に入って行くと年老いた夫婦が丁寧に迎えてくれた。
「いらっしゃいまし」
「おう、爺さん。空いている部屋あるかい」
「ええ、大丈夫ですよ。今のところお客さんもいませんから、ゆっくりお休みになれます。さあ、どうぞ」
廊下を歩くと床がミシミシ音を立て、物音一つせずに静まり帰っている。お茶を運んで来た婆さんが
「一息ついたら庭でもご覧になって下さい。ちょうどいろんな花が咲いていて綺麗でございます」
と言って、部屋を出て行った。
夜になった。相変わらず他の部屋は静まり返っている。物音一つしないのだ。
マリが廊下にある共同のトイレに行って戻って来た。
「丈二、隣の部屋、何かおかしいよ。ドアが閉まっていて」
「閉まってたっていいじゃん。そんなもの」
「それが違うのよ。変な閉まり方なのよ」
「何がよ」
マリがあまり気持ち悪がるので、二人で隣の部屋を見に行った。ドアには板が十文字に張ってあり、しっかりと鍵で打ちつけられていた。
二人は顔を見合わせた。
「ね、変じゃない」
確かにマリの言う通りだ。
その上、静まり返った廊下はところどころ電気が消してあり、薄暗くて不気味だった。
二人は帳場へ行った。
「あのぅ、爺さん起きている」
「はい、起きていますよ。何か?」
障子を開けて寝巻き姿の爺さんが出て来た。
「あのさ、すごく静かだけど誰かいないの」
「はぁ…」
「いや、客は他にいないの」
「ええ、いません」
「というと俺たちだけ」
「そうですよ」
「ところでさ、俺たちの隣の部屋に板が張ってあるけど、あれ何よ」
「ああ、あれはですね…」
「前に…ちょっとしたことがありましてね」
「ちょっとしたことって何よ」
「あんまり言いたくないんですけど…自殺しましてね」
「自殺」
二人は顔を見合わせた。
いくら前の話でもあまり気持ちのいい話ではない。急に背筋が寒くなった。
「誰が死んだの?」
「エッ、お客さんが…」
「だからお客さんて誰よ」
「男の人と…」
「…」
「女の人なんですけど」
浜やんがしつこく聞いたので、爺さんは客の男女二人が鴨居に浴衣の紐を通し、首つり自殺をしたのだと言った。そんなこと言わなくてもいいのに正直すぎる爺さんだ。
「あの部屋で」
マリが尋ねた。
「はい。婆さんが夜になると何か音が聞こえて嫌だというもんで。お祓いしましてね。ああやって板を張って、あの部屋は使わないことにしたんです。でも、大丈夫ですよ。ちゃんとお祓いしていますから」
「マリ、そういうことらしいよ」
マリが浜やんの袖を引いた。
二人は部屋に戻る時、もう一度隣の部屋のドアを見た。
「ねえ、丈二出ようよ。私嫌だ、怖くて」
部屋に戻ると畳の上を大きなクモがゆっくり歩いていた。
「キャー。クモ取ってよ」
もう駄目である。こんな気持ちの悪い旅館で、ゆっくりミーティングなど出来る筈がない。かといって、これから旅館を変えるのも金がかかる。結局、マリをなだめてこの旅館に泊まることにした。幸い虎之介たちからは何も言ってこない。
浜やんは船乗り時代からゲンを担ぐクセがあった。船の生活は舵取りのちょっとした判断ミスやシケなどに遭遇した時の対応など、絶えず命の危険と直結する。荒くれの海の男たちでも普段から縁起を担ぐ者は多く、一見大胆なように見える浜やんも以外と細かい神経の持ち主だった。
その神経がクスリによっても徐々に冒され始めていた。ヒロポン(覚せい剤)のせいである。
この頃、幻覚症状のような状態に陥る回数が多くなっている。
街を歩いていても背後から突然大きな声を上げて、何者かが襲って来るような気配を感じる。だが、後ろを振り向いても誰もいない…そんなことが度々あった。
夜中に突然寄声を発し、寝ているマリを驚かせたこともある。誰かに追いかけられる夢を見て、自分が発した奇声で起きてしまうのだ。布団のシーツに黄色い寝汗をかいてしまうこともあった。
静岡の旅館で、マリがそれを目ざとく見つけ、
「ヒロポンなんて打っていたら廃人になってしまうから止めて」
と哀願された。
だが、なかなか止められないでいた。赤線荒らしを決行する前と逃走する時は、虎之介たちの目を盗んでヒロポンを必ず打った。
この夜も浜やんはマリに気づかれない様に注射器とアンプルを取り出し、廊下に出てヒロポンの世話になった。
次の日、浜やんと虎之介は例によって赤線街の下見に行った。赤線街は狙うには格好の店が並んでいた。どの店も隙だらけのように浜やんには映ったのだ。
「浜よ、どの店でやっても同じじゃねぇか」
「虎、本当にそう思うか」
「ああ、大丈夫だ、ここは」
「俺はダメだと思うよ」
「何でよ、いくらでも騙せるよ」
「いや、やるだけならいいけどよ。どうやって逃げる?」
「高松の船着き場からだろ」
「そうだ。この辺じゃ、あそこの港から船で逃げるしかねぇよな」
「うまく巻いちゃえば平気だよ」
「いや、俺は相当ヤバイと思うんだ。店からマリたちをうまく連れ出すことが出来りゃ、それだけ気づかれるのが遅くなる訳だから先ず安全パイだと思うけどよ。連れ出す時に感づかれたらタクシーもすぐに拾えないし、運良くタクシー拾って逃げても港で張られたらおしまいだしな」
「…そうか」
「島だから、すぐに包囲網張られちゃうしな。島でもなんとかなるだろうと思って来たんだけどな。やっぱり駄目だよ、ここは危なくて」
「なるほどな。背に腹は変えられねぇしな」
勇躍四国に乗り込んで来たものの、計画は思い切って断念することにした。
又、延期したことで財布の中身はますます心細くなってきている。苛立つ気持ちを抑えて、浜やんは自分に喝を入れた。
「よし、次は絶対に成功させてみせる。やるしかねぇんだ」
浜やんの決意に虎之介はびっくりしているようだ。
「と言ったって、何処でやるのよ」
「岡山に出て、下るか上るか…」
「じゃあ、山陽本線を下って、今まで行ったことがない街は広島とか岩国とか…下関あたりか」
「逆を行こう!」
「何処へ?」
「名古屋だ」
「だってあそこは…」
「いや、一回やっていても大丈夫だ。あそこはでかい赤線街だし。そのまわりにあるもぐりの青線だって山ほどあらぁ」
「考えてみりゃ、初めて成功した街だしなぁ」
「俺たちにとっちゃ、ゲンがいいとこよ。名古屋で決めて、あと二、三回やって終わりにしよう。だんだん知られてきて、ヤバくなってくるからな」
「よし、わかった」
相次ぐ人身売買や風紀上の問題を抱え、赤線を法律で縛り付ける動きが加速していた。
この年の十月、政府は「売春問題協議会」を設け、赤線を取り締まる具体的な法案作りに乗り出した。いわゆる「売春防止法」である。集娼地域は全国に約千九百地区あった。法律が施行されれば、赤線の灯は全国で消滅する運命にあった。
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この小説を読みながら、聞いてください。作詞・作曲・歌っています。
参考文献
兼松佐知子(昭和62年)『閉じられた履歴書 新宿・性を売る女達の30年』朝日新聞社
木村聡(写真・文)(平成10年)『赤線跡を歩く 消えゆく夢の街を訪ねて』 自由国民社
木村聡(写真・文)(平成14年)『赤線跡を歩く 続・消えゆく夢の街を訪ねて2』自由国民社
澤地 久枝(昭和55年)『ぬくもりのある旅』文藝春秋
清水一行(平成8年)『赤線物語』 角川書店
新吉原女子保健組合(編)・関根弘(編)(昭和48年)『明るい谷間 赤線従業婦の手記 復刻版』土曜美術社
菅原幸助(昭和62年)『CHINA TOWN変貌する横浜中華街』株式会社洋泉社
『旅行の手帖(No・20)』(昭和30年5月号) 自由国民社
※近代庶民生活誌14 色街・遊郭(パート2)南 博 三一書房(平成5年6月)
名古屋市中村区制十五周年記念協賛会(編)(昭和28年)『中村区市』(名古屋市)中村区制十五周年記念協賛会
日本国有鉄道監修『時刻表(昭和30年)』日本交通公社
日本遊覧社(編)・渡辺豪(編) (昭和5年)『全国遊郭案内』日本遊覧社
広岡敬一(写真・文)(平成13年)『昭和色街美人帖』自由国民社
※戦後・性風俗年表(昭和20年~昭和33年)
毎日新聞出版平成史編集室(平成元年)『昭和史全記録』 毎日新聞社
松川二郎(昭和4年)『全国花街めぐり』誠文堂
森崎和江(平成28年)『からゆきさん 異国に売られた少女たち』朝日新聞出版
山崎朋子(平成20年)『サンダカン八番娼館』文藝春秋
吉見周子(昭和59年)『売娼の社会史』雄山閣出版
渡辺寛(昭和30年)『全国女性街ガイド』 季節風書店
大矢雅弘(平成30年)『「からゆきさん=海外売春婦」像を打ち消す〈https://webronza.asahi.com/national/articles/2018041300006.html〉令和2年12月14日アクセス 朝日新聞デジタル
※参考文献の他に物語の舞台となっている地などで、話を聞いた情報も入れています。取材にご協力いただいた皆様に感謝いたします。ありがとうございました。