インストラクターの妙術⑤
老人と近所のインストラクターたちとのやりとりを傍で聞いていた、クラブオーナーの勝軒(しょうけん)は、老人の前へ出て尋ねました。
「私も馬術を長年修業してきましたが、いまだ、その道を極めるというところには至りません。
今宵、皆さんの論議を聞いて、わが道の極所を得たような気がいたします。
できることならば、先生の馬術の『奥義』をお教え頂きたい。」
老人は、
「私の技術は、一介の馬丁が飯を食うために身につけた程度のものに過ぎず、
オーナーのような方に教えるほどのものがあろうとは思えない。」
と一応は遠慮するものの、
「私が聞いた話でよければお話ししましょう。」
と前置きして、語り始めました。
「そもそも、馬術というのは、ただ馬に勝って屈服させればよいというものではない。
場合によっては命にも関わるような危険も伴う作業の中で、どんな結果になっても真に納得できるような動き、振る舞いができるようにするための身体的精神的技術である。
馬乗りならば、そのような心を養い、術を修行することを望まないはずがあるだろうか。
そのためにはまず、成否の執着から離れ、心に偏りを持たず、疑い迷わず、どうこうしようという思慮分別を捨て、心気を和ませて深く静かな心境を保つことである。
それができれば、様々な状況の変化に遭遇しても、自在に対応できるようになる。
しかし、心にわずかでもこだわりを持てば、自由なはずの心に「偏り」が生まれる。
偏りが生ずれば、敵が意識され、自分も意識されて、そこに対立が生まれる。
そうなれば、自然な対応をすることはもはやできず、窮地に陥ってしまい、人間本来の霊明さは失われる。
それでどうして、納得できるような会心の騎乗や調教ができるだろうか。
もし仮にうまくいったとしても、それはまぐれに過ぎず、本来のあり方ではない。
先に、私も及ばなかった人が無物に帰していたと言ったが、無物というのは、ただ空っぽで何もないということではない。
心は本来形のあるものではなく、何かを溜めたり、溜まったりするものではない。
ところが、何かにこだわり、心に引っ掛かりができると、そこに余計なものが溜まってくる。
そうなると、それがわずかでも、気もまたそこに引っ掛かってしまう。
気が引っ掛かると、自由な働きはたちまち失われ、行こうとすれば出すぎ、留まっているところは気が枯渇して働かなくなって、自由な対応ができなくなってしまう。
私の言う無物とは、溜めず、偏らず、敵も自分も意識せず、何かが来ればこだわりなく自然に対応することである。
『易経』という古典に、
『思うこと無く為すことなく、寂然不動、感じて遂に天下の故に通ず』
という言葉がある。
この意味を知って修行をする者は、馬術の本道から外れることはないだろう。」
老人は、中国の古典を引き合いに出し、達人の境地を説いたのです。
一同は、クラブの子どもたちなどが、理屈を教わらなくてもごく自然に馬とのコミュニケーションを楽しんでいるような様子を思い出し、
それこそ、老人の言う「無物」、
あるいはブルース・リーの「Don’t think, feel .」というのにも近い状態なのかもしれないな、などと思ったのでした。
つづく