慰霊碑巡りのきっかけ(前編):レイテ島訪問
まず内容のほどんどが慰霊碑とは関係ないことをお伝えします。
この記事では、かつての戦地を巡り始めるきっかけとなったストーリーを紹介します。
1. レイテ島ってどこ?
"フィリピン中部のビサヤ諸島・東ビサヤ地方に位置する" と聞いてもピンとくる人は少ないと思います。観光地セブのすぐ東隣の島で、南北180km、広い場所で東西65kmと南北に細長い島です。
この熊本県ほどの大きさの島で日本軍とアメリカ軍による陸上戦闘が行われ、周辺では史上最大の海戦とも言われるレイテ沖海戦がありました。
レイテ島の戦い:
1944年10月20日から終戦まで、フィリピン・レイテ島で行われた日本軍とアメリカ軍による戦闘。約2ヶ月で大勢が決したもののレイテ島から転進できた将兵は僅かで、残りは自活戦闘を強いられた。参加した日本人将兵84006名のうち生存率は約3%。現地のゲリラ兵士や民間人の犠牲者も多数。
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2.レイテ島初渡航の目的
レイテ島へ初めて訪れたのは2014年4月のことです。
実は、現地に行くまではレイテ島に慰霊碑が存在するとは知りませんでした。
渡航の目的は、ボランティアです。
2013年11月にフィリピンを襲った観測至上最大の台風「ハイエン(ヨランダ)」によりフィリピンの中でもレイテ島が甚大な被害を受けました。海岸は極端な低気圧と強風に起因するストームサージ(津波)が全てを飲み込み、内陸部でも強風により建物が破壊されました。フィリピン全体の死者は6300名と言われます。
巨大台風がフィリピンを襲ったとのニュース記事の写真を目にした時、「レイテに行かなければ」と即決。
というのも、当時とても後悔していたことがありました。
- 『どうして震災ボランティアに行かなかったのか?』 -
震災発生当時は学生で、東北は遠い遠い場所。
行き方も分からない、ボランティアのやり方も分からない、じゃあ仕方ない、と諦めていました。それが後々になって「ボランティアに参加する方法はいくらでもあった」「あの時行っておけば...」と、どこかで引きずっていました。
そしてフィリピンに台風が襲ったとのニュース記事の写真が東日本大震災で津波が到達した海岸線のように見え、「もう後悔しない」とレイテへ行くことを決定。
ツアーの日程がフィリピンの語学学校へ通う時期とも被っていたことも幸いでした。
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3. 初めてのフィリピン、初めてのレイテ訪問
マニラに前泊し早朝のフライトでタクロバンへ。
着陸前に外を眺めると、一部分まだ瓦礫が残っているのが見えました。
空港は最低限の施設が使える状態でした。
台風により壁は壊れ、預け荷物は空港職員が手作業で移動していました。なんと台風上陸3日後には空港が再開されたようですが、半年が経っても空港がこの状態のまま使用されているとは... 「市街地も被災当時のままなのだろうか?」と穏やかではありませんでした。
空港でチャーター車に乗り、しばらく海岸沿いの道を通りタクロバン市街地へ。
建物の土台のみ残っている場所が多く、津波に全て飲み込まれたのだと直感しました。銀行に預金を持つよりも"物"として資産を持っている人が多く、それが全て流されました。
情報が錯綜し津波の情報も伝えられず、ホール1階に避難していた人たちが津波に飲み込まれました。
今回のツアーは現地のボランティア団体と一緒に行うものでした。まずタクロバン市街地にある団体が拠点としている場所へ。メンバーのほとんどが10代(高校生・中学生)、タクロバン・レイテ島出身の被災した若者達です。
彼らと一緒にボランティアへ。対象は子ども達。
もともと学校へ行けない子ども達も多く、地域の子ども達を集め絵本の"読み聞かせ"など学習の後に子ども達へ給食や物資を配りました。
メンバーが各々役割を持ち動いていた事
物資を渡すのは子どものみで配布時に混乱がなかった事
すごいの一言しか思いつきませんでした。
なお実際に津波で襲われた地区でもボランティアを行いました。訪問時はとても穏やかな水面でしたが、台風上陸時は貨物船を陸に揚げるほどの高波が襲ったと分かります。
このグループでは1日に2ヶ所周り、拠点に戻るとメンバーや地域の子ども達が集まりゲームをしたり、歌を唄ったりとワイワイしていました。
一緒に昼食の買い出しに行ったり、一緒に食べたりと交流もしました。
- 『あれ、ここって被災地だっけ?』 -
と思ってしまうぐらい、人懐っこくキラキラしたメンバーやタクロバンの子ども達、和やかでピースフルな雰囲気でした。
前述の通りメンバーのほとんどが被災し、中には家族を失ったり路上で生活して傷ついていた子も多く、団体のリーダーが「一緒にボランティアをやろう」と活動に誘っていきました。
被災し大変な目に遭っているのに何故人の為に行動できるのか、質問すると
『誰かを助けることで、自分の過去の傷が癒される』とのことでした。
語彙力が少なく「素晴らしい」の一言でしか表現できません。
当時22歳の私にとっては少し歳の離れた兄弟のように感じ、何らか彼らの活動のサポートがしたいと思い、以降毎年彼らを訪ねることとなりました。
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4. 慰霊碑訪問
タクロバン以外の被害も視察に行く道中に慰霊碑がありました。もともと訪問の予定はありませんでしたが、折角レイテに来ているのだから手を合わせよう、と。
訪れたのはドュラグ郊外のHILL120、ブラウエン、リモン峠です。
「レイテ島の戦い」「レイテ沖海戦」の言葉は知っていましたが、本やテレビ番組で伝えられる内容というのが、どこか遠い存在に感じていました。
しかし慰霊碑を目の前にしてみると、小説や映画の世界に入り込んだような感覚に襲われました。
- 『戦争のあった場所に立っている』 -
戦争や歴史とは「本に書かれたこと」であり、原爆の日や終戦の日に追悼式の中継を観ているにも関わらずどこか非現実世界と感じていたのが、この一瞬で現実のものと衝撃を受けました。
恥ずかしながら、この時初めて「戦争があった」史実を実感しました。
それに加え「何故これまで意識していなかったのか」思うこととなり、また友人や家族も戦争で何があったのか知らず、
この時のボランティアに加え、レイテの慰霊碑訪問で感じた事も伝えていこうと決めました。大勢の先輩がこの地で戦死したことを忘れないように。
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タクロバン滞在は3日間のみでしたが、私のこれからの方向性を大きく変えるには十分すぎました。しかしこの時はまだ『各地の慰霊を巡る』行動には至っておらず、2015年のタイ訪問、2016年のレイテ滞在へ続きます。
慰霊巡拝の計画にWebサイトをご参考ください。また旅程の相談などもご連絡ください。
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