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菊の節句
夏が再び戻ってきたような秋の日、「釣瓶落とし」というにはまだ少し早い。坂を登り切り、お稽古場から駅までの道のりの最も高い丘の上に出たとき、眼下に傾いてゆく太陽は” 重陽”の名にふさわしく、街を重みのある光に包み込んでいた。
七月から八月にかけて、週末に「子供日本舞踊教室」のお手伝いに出ていた私は、その日、ささやかなお給金をもらった。原稿料やこの日のお給金など、 不定期で少しずつ入ってくるお金が、いわば私の「稼ぎ」となるわけだが、何か考えたり書いたり教えたりするなかでは、お金で測れる以上に得るものや生まれるものが多く、良い仕事ができると嬉しい気持ちになる。これぞ「仕事」。お金を得ることだけが「仕事」なのではない。仕事とは、むしろ、それをするためにお金がかかることでもあるのではないか。
「事に仕ふ」という神聖な響き、そしてその姿が思い浮かぶこの言葉が、金銭的な価値しか持たぬものとしてしか捉えられないというのは、あまりにもむなしすぎる。
「仮想通貨」というものもあるけれど、私は「お金」それ自体を空想的なものだと思っている。刷れば増え、火をつければ燃えて無くなるというのに、通帳の数字はそのままで、しかし、私が貯めているお金は、どこかで誰かが運用していたりもする。そういう空想が社会の基礎となっているのだから、世の中すごいものだ。が、私は、お金を一概に醜いものだとは思っていない。
月毎のお月謝などは、お稽古場での一つのしきたりや作法となり、金額という価値だけでなく、別の価値を生み、気持ち新たにひと月のお稽古に取り組もうという気になる。
お金がただの紙切れや数字になるか、あるいはそういうものであると同時に、それ以上の豊かさや喜びを生み出すものとなるかは、その人次第である。
「お稽古の帰りに、お茶菓子買ってきてくれる?」
朝、母から「重陽の茶会用に」とお菓子の買い出しを頼まれたので、私はデパートのお菓子屋さんのコーナーをうろうろしていた。 菊の花、重陽らしい和菓子を探したが、あいにく、「栗」や「お月見」のものばかりで、菊の花は見つけられなかった。 しかし、どの和菓子も綺麗で、私はショーケースを眺めながら、しばらく物色していた。 そうしているうち、ふと、紫式部日記の、菊の節句の一場面が思い出されてきた。 たしか紫式部は、九月九日、真綿を贈ってもらったお礼に一首の歌を認めていた。
そうだ、真綿を思わせるような白いお菓子にしよう。思いついて、再びお菓子売り場の一角をぐるぐるしていると、乳白色の小さなゼリーを見つけた。真綿のような柔らかい色をしている。
「綿をおくるんや。へえ、ひかるげんじに出てくるん?」
母は綿を贈る風習を知らないようだった。かくいう私も、このごろ、古典を読むうちに知ったのだが、菊に綿を着せ、朝露に濡れたその綿を贈り合うとは、なんと美しいことだろう。菊の香漂うその綿で、体を撫で、人々は長寿や健康を祈ったという。私はそういう時代を羨ましく思いながら、母が買ってきた菊の花に顔を寄せ、そっと嗅いでみた。花の奥から、清廉な香りが静かに聞こえてくる。
……と、風流ぶっていた私だが、重陽の茶会は、あっという間に終わってしまった。
ゼリーが小さすぎたのだ。「ちゅる」と啜れば、もうお皿には何もなくなり、仕方がないので、みな「ご馳走さまでした」というよりほかなかった。これは計算外。風流にはほど遠い我が家となってしまった。
しかし、長生きを祈るとはいえ、きっと20歳の私も、30歳、40歳、50歳、100歳になっても、変わらず「今」というほんの一瞬、小さなゼリーをちゅるりと啜るような、その一瞬一瞬を生きるだけなのだから、やはり人生はあっという間の、夢のようなひとときに違いない。
どうせ夢のようなひとときだ。しかし、これはニヒルではなく、希望である。
どうせ、夢。ならば、ほんの少しの夢のような時間を、私は思い切り生きて、自分の仕事をつとめあげたい。そしてぽっくり死んでしまうのだ。
いざ行かな、誰しもがたどり着くところへ。
長寿を希う、菊の被綿につく朝露は、それでもいつか必ず訪れる別れのときと、それまでの、僅かな生のひとときとを愛しむ涙の一滴のように、私には思われる。