むらの世界観
村人たちが生活の場として強く意識する範囲は「むら」といわれます。決して行政的なものではありません。
むらでは、血縁、年齢によるもの、階級的なもの、経済的組織、各種の講、などなど、さまざまの集団や関係が重なっています。私たちが広範囲にわたって築いている関係性が、むらには集中してみられます。つまり、むらはただ家々が集まる集落ではなく、人間がつくるそれぞれに個性のある集団といえます。
村人は各々のむらに合わせ、どのように生きるか、振る舞うか、という同じような価値観や意識を持っています。
これは、代々の村人たちがつくり、受け継いできたものです。共同の洗い場があったり、むらの人が集まって田畑の耕作をしたり、採れた作物を互いに交換したりして、自給自足で暮らします。
同じ価値観を共有しているからこそできることですが、さらに言えば、農を主産業とする村人たちが同じ自然環境のもとで暮らすためには価値観うんぬんを抜きにしても、互いに協力することは必要不可欠になってくるのです。皆で食べたり、使ったりするものは、皆で協力して調えてゆく。
そこでは、おのずと、与えられた役割が見えてくるでしょう。責任も生まれるでしょう。
また、個人の責任、その人次第、という都合のいい言葉が通用しないからこそお金を稼ぐことばかりでなく、暮らしの工夫をしたり、みんなで生きること、暮らすこと、子どもたちを育てること、ができるのだと思います。
個人主義の世の中では、誰が何をしようと、それはその人の責任で周りの人が困ることも、助けることもありません。が、結局それは、社会の全体的な流れによりかかっているだけに過ぎません。
個人主義だと言って、自信を持って人と違ったことができる人が、ほんとうのことを言える人が、この世の中に何人くらいいるでしょうか。
わがままな個人主義はやめて、それぞれ独立し、本当の個人になるべきです。
そして、個人として自立し、そこにおいて協力すべきです。集団の中の自立した個人として何をすべきか、何ができるか、考え、行動しなければなりません。
そうでなければ、ふとした瞬間に「暮らし」は終わってしまうでしょう。
食べ物を買い、お金を払って電気や水やガスを使っている私たちは、暮らすことに関して、消費しかできていないのではないでしょうか。いくら、声高に循環型社会を目指すと叫んでみても。
むらで暮らす人々の風景をみていると、彼らは地に足をつけて生きていると感じます。
それは、ほんとうの意味で生活を営み、生きているからだと思います。
大自然の中で、大自然の力を生かし、自分たちの暮らしを自分たちで創っていく村人たちの姿に、神秘的な感動を覚えずにはいられません。
山に住むことだけが、生活をつくることではないと思います。
たとえ都会に住んでいたとしても、むらに学び、生活に取り入れられるものを取り入れていきたいです。
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