移りゆく
2ヶ月弱の乗鞍での生活が終わり、自分の住む街、東京へと戻ってきた。
この街を発ったときはまだ夏の雲が漂っていたというのに、季節は秋へと移り変わり、時折冬の香りがほのかに漂ってさえいる。
それでもしばらく僕を見守り続けてくれた山の姿は見えず、白く染まった頂を通して、迫り来る冬を視覚的に見ることなどできない。
僕を囲んでいた木々はビル群へと移り変わり、地面に茂っていた笹の数だけ人に囲まれるようになった。
慣れた環境が目新しく写り、しきりに街中でビルを見上げてしまう。
頭上の遥か上に広がる空は狭くなったものの、変わらない青が、世界に繋がりがあることを教えてくれていた。
山で暮らすことの醍醐味は、季節が自分の中を通って流れていくことだと思う。
地面に染み入る水のように自然に、日々刻々と移り変わる季節を自分の体を通して体験した。
視覚的情報だけではなく、匂いから味、音に至るまで、あらゆる季節の恵みが自分の中を通過していった。
そうした日々を通して、自分も何か洗練されていったような気がする。
葉がすっかり落ち切った木々の中から、まだ葉を残しているヤドリギを探すこと。
紅葉も終盤に差し掛かってからしていた毎日の楽しみをしようとしたところで、東京の木々にヤドリギなんて一本も生えていない。
ヤドリギが木に寄生する方法や、これから森の笹の高さまで雪が降り積もっていくことなんて、この街ではほとんど関係のないことで、ほとんど誰も知りやしない。
(実際は関係があるのだけれど。)
自分の中に養ったものの価値をひしひしと感じながらも、それをいつか失ってしまうことの怖さが自分を取り囲んでいる。
木々が日光を求めて枝を広げるように、山に住む人たちはのびのびと生きていたように思う。
相手を深く知らないと関係性を築けない自分にとって、ごく自然に隣人を愛すことのできる人たちが眩しく見えた。
人の間のしがらみに目を向けるのではなく、人間よりも大きな自然に立ち向かう、同じ側に属するものたちとしてのつながりに目を向けること。
人との大切な向き合い方に出会えたような気がして、そんな場所で時を過ごせたことが嬉しかった。
東京での感情を整理する間も無く、僕はまた異国の山へと向かっていく。
場所の変化に甘んじて何かを取りこぼしていくことが怖いから、僕はそれに抗うために文章を紡ぐ。
一人のささやかな試みが何かに伝播することもまた、心の底で願っているのだと思う。