The Hideout-7
夕方に設定されているミーティングが新田には憂鬱だった。現在は基礎研究チームを離れて研究統括マネージャーについている原が主催の少数会議。HICALIプロジェクトにかかわる人間だけの内密なものだ。なるべくその内容について考えずに済むよう、新田は実験の予定をあえてぎりぎりの時間まで詰めていた。
「新田さん」
実験室に入る新田へ、白衣を羽織った瀬戸内が声をかけてくる。
「大きいほうのクリーンベンチの予約時間、代わってもらえません? 私20時からにしてたんですが」
「ああ……、いいよ。交代しよう」
新田は簡単に承諾すると、居室のデスクに戻る。しばらく時間が空いた。もちろん積み残しのデスクワークは際限がないから手持ち無沙汰なはずはないが、そういう作業に集中できそうな気分ではなかった。論文でも読もうとタブレットを取り出すと、画面上に大量のアラート通知がポップアップ表示されている。
「ヒカリの培養槽」
そうつぶやいて駆け出した新田を、切林が不思議そうに目で追った。特殊培養室の緊急アラート通知は、新田、出水、原の三人だけに送られる。多忙な管理職の原はともかく、出水が先に着いているといいのだが。
特殊培養室の内扉を押し破るように飛び込んだ新田の眼前、三次元培養槽の中に満たされた培地の色が変化している。機器のランプが点滅し、新田の社内用スマートフォンが連動して振動する。普段はうすい朱色の培養液が、今は燃えるような真紅に染まっていた。液の酸性度が急変している。培地への添加物は全自動で制御しているはずだ。ヒカリ自身の代謝物に変化があったのだろうか。
「ヒカリ、どうしたんだ」
思わず水槽に向かって呼びかける。中のものに聞こえるはずなどないのだが、新田はこの個体が自分の細胞からできているという経緯から、また自分自身がそれを完成させた責任を持つことからも、ヒカリをひとりの人間として話しかけずにはいられないのだ。
ヒカリは体を折り曲げるようにして液面近くに浮かびながら、溶液中で口を開閉させて泡を吐いている。各部位に接続したはずのケーブルやチューブがいくつも断線していた。
「おかしい、本体から僕の端末にデータが来てない」
「……新田もか」
「出水」
息を切らせて駆け込んできた出水は、タブレットを見ながら培養槽脇のパネルをタッチして素早く操作した。ヒカリのバイタルデータが逐次転送されるはずのタブレットには正常値が淡々と表示されているが、明らかに本体のものとずれている。
「誰かが偽のデータを流してる。アラートも途中まで切られてたっぽい。これ普段の培地じゃない、いったん抜いて入れ替えないとまずい」
「ヒカリはまだ空気に曝露させたことがないんだ。培養液は抜くわけにいかないよ」
「大量に新しいのを流し込んで、有毒なやつを薄くしてやるしかないか……。何リットルいるんだ、あとで怒られそう」
ぶつぶつと言いながらパネル操作を続ける出水を背に、新田は向かい側の大型冷蔵庫から培養液のプラタンクを運び出した。ひとつ4リットルはある大型のものだ。培養システムの基幹部分のカバーを開け、培養液共有用のチューブとタンクを手早く接続していく。焦る手元が震える。理由はわからないが、時間がないのだと直感していた。
「出水! ポンプと濾過器を最大に!」
「もうやってる、これ以上あげたら電源落ちる」
ヒカリが咳き込むような動きをみせて溶液中を旋回する。しかし二人にはこれ以上の対策はできそうになかった。あとは様子を見守るだけだ。
「……出水、ヒカリを頼む」
「どこ行くんだ」
新田は防護用の手袋とスリッパを脱ぎ捨てて走った。所内はまだどのフロアも活発な昼下がりの時間帯だ。すれ違う職員たちが不審そうに目線をよこす。構っている場合ではない。五階、マネージャーのオフィスの並ぶ中に原賢治の現在の居室はあった。
「原さん!」
「新田か。ノックくらいしろ」
「ヒカリになにをしたんです」
普段は温厚な新田の直截で怒りのこもった物言いに、原の表情が険しくなった。はぐらかしても無意味だと一瞬で判断したのだろう、新田を見据えて話しはじめる。
「ホルモン類を投与した。早急にあれを『成長』させる必要が出たんでな」
「現在の現場の責任者は僕です。なぜ相談もなくそんなことを」
「上からの指示だ。私の本意ではない」
その「上」とは研究所の上層部をさすのか、それ以上の省庁や政治家、あるいはもっと別の人間をさすのか、新田にはわからない。新田相手に言葉を濁しただけで、実際は原自身の決断の可能性もある。
「じゃあそのヒカリを成長させる理由は」
「……博覧会だ。あれを上海の国際科学博覧会へ出す。日本館の最大の展示としてだ。その日がHICALIプロジェクトの正式公表日になる。国内メディアだけでない、海外にも同時に告知して論文発表と同時に公開する。われわれはあれに国の威信を賭けている」
「見せ物にするんですか? どういうつもりです、彼女も人間だ……、それに、今のままではとても輸送や環境変化に耐えられません」
原は変わらず冷たい視線で動揺する新田を見ていた。
「だから今回の処置をした。それだけが理由ではないが」
「ほかになにか」
「お偉方の言うには、あの個体はもっと性徴を発達させたほうが展示品として見栄えがいいとのことだ。今は十七歳程度の形態で維持していたが、もう少し『女らしく』しろとの指示でね」
「……そんな」
新田は絶句していた。あまりにもくだらない理由で、彼の分身の娘は人為的変化を加えられて瀕死になっている。新田、出水をはじめとしたメンバーが人生をつぎ込んで生み出した、現代科学技術の結晶のようなヒカリを、この原やその「上の人々」は単なる政治ゲームの駒として使うのだ。
しばらく沈黙した彼の前で、原もまた無言だった。いつものように表情が読めない。一糸の乱れもない整った身なりの原は、撫でつけた髪に軽く手をやり、必要最低限を下回るようなミニマルな卓の上へ静かに目線を落としていた。
「……突然すみませんでした。失礼します」
新田はやっとそれだけ言うと、原のオフィスを辞してゆっくりとした足取りで廊下を戻る。このとき、心の中ではひとつの大きな決意が生まれていた。
ヒカリをこの研究所から逃がそう。ヒカリと二人で逃げて、彼女を保護してもらえるところへ向かおう、と。