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「公安調査庁に中国のスパイがいる」との言説に対する異論
はじめに
本記事は、2024年2月14日の衆議院予算委員会で福島伸享議員から発せられた質問及びその種本となった鈴木英司氏の「中国拘束2279日 スパイにされた親中派日本人の記録」(毎日新聞出版、2023年4月24日発売)で述べられている「公安調査庁に中国のスパイがいる」との言説に対し、異論を挟むものである。
なお、本記事の内容は全て著者の推測であり、事実とは異なる可能性があることを申し添えておく。理解しやすくするため、著者の推測を含む部分は太字で記載することとする。
本記事では前提として、鈴木英司氏が述べている以下の事項を全て事実であったと仮定する。
2016年7月、日中青年交流協会理事長だった鈴木英司氏がスパイ罪で中国当局に拘束された。
中国当局は、2013年12月に北京のレストランで湯本淵氏(元中国駐日大使館公使級参事官)及び高塚保氏(毎日新聞政治部副部長(当時))と会食した際に、鈴木英司氏が北朝鮮情勢について尋ねたことを問題視した。
中国当局は、取り調べの際、公安調査官の顔写真付き身分証明書の写し約20枚を提示した。その中には、鈴木英司氏が把握している公安調査官4名の顔写真が含まれていた。
鈴木英司氏は、裁判所に向かう護送車内で、同じくスパイ罪の容疑で拘束された湯本淵氏と会った。湯本淵氏は鈴木英司氏に対して、「日本の公安調査庁の中にはね、大物のスパイがいますよ。ただのスパイじゃない。相当な大物のスパイですよ。私が公安調査庁に話したことが、中国に筒抜けでしたから。大変なことです」「日本に帰ったら必ず公表してください」と述べた。
結論
中国当局は、何らかの手段によって鈴木英司氏と公安調査官との接触を把握していた。
ただし、中国当局の情報源が公安調査庁内部のスパイ(人的情報源)である可能性は低い。
中国当局の情報源は、電話・メールの傍受などの人的情報源に依らない情報源であった可能性がある。
中国当局は、鈴木英司氏と接触していた公安調査官及びその周囲の公安調査官の顔を盗撮していた可能性がある。
「公安調査庁に中国のスパイがいる」との言説は、公安調査庁ひいては日本政府の信頼性低下を狙った中国当局による影響力工作(インフルエンス・オペレーション)の可能性がある。
理由
1-1. 中国当局の行為は公安調査庁内のエージェントを使い捨てにするに等しい
仮に中国当局のケース・オフィサー(※1)が公安調査庁内部のエージェント(※2)を運用しており、当該エージェントから鈴木英司氏のことを把握し、かつ公安調査官の顔写真付き身分証明書約20枚を入手していたとすると、エージェントの疑いのある人物は相当程度絞られる(あなたが企業に所属しているならば、あなたの企業の社員20名分の社員証を秘密裏にコピーし得る人物がどの程度存在するかを考えてみれば良い。)。
※1 ケース・オフィサー:自国が求める情報を提供し得る人物を探し出し、リクルートすることを主たる任務とする情報機関員。ここでは中国当局の職員を指す。
※2 エージェント:ケース・オフィサーに協力し、情報を提供する人物。協力者とも。
鈴木英司氏を死刑又は終身刑にして中国から出国させないならばともかく、鈴木英司氏が日本に帰国すれば身分証明書の件を公表するのは明白であり(実際、鈴木英司氏は書籍等で身分証明書の件を公表した)、それは当該エージェントを窮地に追い込むことを意味する。
エージェントの獲得工作には、それなりの人的・金銭的・時間的リソースが費やされる(あなたが昨日会った外国人から端金で社員証のコピーを売ってほしいと持ちかけられたら、どのように対応するだろうか。)。日本のカウンターインテリジェンス(防諜)機能を担う公安調査官に対する獲得工作に必要なリソースは通常より遥かに大きいと考えられる。
多大なリソースを費やして獲得した大物のエージェントが日本当局に摘発されるリスクがあるにもかかわらず、中国当局が鈴木英司氏に身分証明書を提示したことは不合理である。
鈴木英司氏の拘束から日本への帰国までの間に約6年あることから、それまでにエージェントの「賞味期限」が切れると見越して身分証明書を提示した可能性もあるが、公安調査庁内部にエージェントがいることが判明すれば、公安調査庁は対外的にも対内的にもその対策を取る必要が生じるはずであり(実際、冒頭の福島伸享議員をはじめとする複数の議員が本件に関する質問を行い、法務省・公安調査庁を叱責している。)、本件により中国当局による今後の獲得工作が一層困難となるであろうことを踏まえれば、やはり不合理である。
1-2. 補論(米国のケース)
鈴木英司氏は、少なくとも中国当局からすれば公安調査庁のエージェントであったと言えよう。こうした中国当局によるエージェントの摘発は、日本に限ったことではない。
WSJやNewsweekによると、米国の情報機関であるCIAのエージェント数十人が2010年後半から拘束・処刑されたという。その主要因として挙げられているのが、ケース・オフィサーとエージェントの連絡に使われていた通信システムの傍受である。
鈴木英司氏が拘束されたのも、米国のケース同様に電話・メールの傍受で得られた情報を端緒として、鈴木英司氏と公安調査官との接触を現認された(さらにその際に当該公安調査官の写真も撮影された)ことが原因の可能性があることを指摘したい。
2. 国家公務員の身分証明書のデザインは容易に模倣可能である
国家公務員の身分証明書は、その製造を民間企業に発注しており、仕様書の中には身分証明書のデザインを明らかにしているものもある(例として2023年度に公表された防衛省情報本部の仕様書を以下に添付する。)。
認証機能まで再現するのでなければ、プラスチックのカードに仕様書の画像を編集して印刷すればそれらしいものを製造できるし、「身分証明書の写し」であれば仕様書の画像を編集したものを紙でプリントアウトすれば足りる。
中国当局が身分証明書の写しを提示したからといって、本当に身分証明書の実物やその写しを入手していたとは限らない点に留意が必要である。
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https://www.mod.go.jp/dih/open5.12.12-381-1.pdf
少々脱線するが、2022年11日18日付けの東京新聞に、国家公務員の身分証明書のマイナンバーカード一元化に関して内閣官房、警察庁、公安調査庁、外務省及び防衛省が連盟で反対したとの記事がある。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/214575
記事で取り上げられている文書の日付は2015年11月6日であり、少なくとも2023年度時点では防衛省がマイナンバーカードと一元化した身分証明書を使用していることから、当該記事の情報は古くなっていることに留意が必要である。
3. 公安調査官約20名分の顔写真の入手方法
本項では1-1.の補強材料として、公安調査庁内部のエージェントがおらずとも顔写真の用意が可能であることを示す。
鈴木英司氏によると、提示された身分証明書の写しには、鈴木英司氏が把握している公安調査官4名の顔写真が含まれていたという。
こちらについても、鈴木英司氏と公安調査官との接触を現認されていたとの前提に立つならば、その前後のタイミングで当該公安調査官の顔を撮影し、身分証明書の写真風に編集した上で鈴木英司氏に提示した可能性がある。
また、公安調査庁の庁舎は、その所在地が明らかになっているため、庁舎の出入りを狙って撮影することも可能である。
なお、鈴木英司氏が把握していた公安調査官は4名であり、残りの約16名分の写真は(庁舎の出入りを撮影することでも入手可能であるが)適当な人物の写真で代用していた可能性もある。
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なお、本項と同旨の内容がジャーナリスト・山田敏弘氏の記事で指摘されているため紹介する。
4. 中国当局による影響力工作(インフルエンス・オペレーション)の可能性
鈴木英司氏は、同じくスパイ罪で拘束された湯本淵氏と護送車の中で会っており、湯本淵氏から公安調査庁内のエージェントの存在を仄めかされた上で「日本に帰ったら必ず公表してください」と依頼されている。
しかし、中国当局が公判中の事件の被疑者同士の接触を許し、あまつさえ自由に会話させたというのは不自然であり、中国当局の意思によるものであった可能性が高い。
2人を護送していた現場の怠慢や不注意によって、偶然接触できた可能性もあるが、仮にそうであったとしても、湯本淵氏が公安調査庁のエージェントについて鈴木英司氏に公表するよう依頼する動機が説明できない。
2人の接触が中国当局の意思によるものであった場合、その目的として最もありえそうなもの影響力工作(インフルエンス・オペレーション)である。公安調査庁内のエージェントの存在が日本国内で話題になれば、公安調査庁ひいては日本政府の国民に対する信頼性を損ね、日本国内に混乱を生じさせることとなる。
なお、仮に上記の推測が正しいとしても、鈴木英司氏が意図して中国の影響力工作に加担しているとは限らない点を強調したい。
終わりに
本記事では、「公安調査庁に中国のスパイがいる」との言説に対する異論を展開し、公安調査庁を擁護するようなことを述べたが、仮に本記事の推測が全て当たっていたとしても、公安調査庁の失態は決して少なくない。
第一に、中国当局に鈴木英司氏との関係を把握されてしまったことは事実であり、事件から6年が経過した今となっては今更の指摘であるが、情報の保全体制の見直しが求められる。
第二に、中国に渡航する可能性がある日中青年交流協会理事長の肩書を有する鈴木英司氏に接触し、情報の入手を依頼していたとすれば、日本国として保護すべき邦人を危険に晒していたも同然であり、全く擁護できない(倫理的にはさておき、エージェントが邦人でなければ、すなわち外国籍を有する人物であれば、この問題は生じなかった。)。
現在の公安調査庁の体制がより良いものとなっていることを願うばかりである。
以上