大伴部博麻の生涯について
西暦、七世紀。
約1300年前(飛鳥時代)、まだ日本が『倭』『ヤマト』と呼ばれていた頃。
朝鮮半島には3つの国がありました。
北の高句麗。
東の新羅。
西の百済。
倭国はこの3カ国のうち、百済と仲良くしていました。
他の2国とも交流はありましたが、とりわけ百済とは深い関係で、百済王室の末王子が幼い頃から倭国で育っていたほどでした(もちろんこの末王子も人質という立場ではありますが、待遇は決して悪くありません)。
そして660年、中華で王朝を築いていた『唐』と、新羅が同盟を結んで、百済を一挙に滅ぼしました。
百済の土地は荒廃し、倭国にも避難民が流れ着きました。
百済の敗戦を受けて、倭国は百済復興の軍を派遣します。
661年に倭軍は朝鮮半島に到着すると、百済軍の残党と協力して、唐軍・新羅軍に立ち向かいました。
それから2年間、戦争が続きました。
そしてついに663年。
朝鮮半島の西側にある『白村江』という河口で、倭の水軍と、唐の水軍が激突しました。
これが、白村江の戦いです。
唐帝国の水軍は強く、優秀で、倭の水軍は大敗北を喫します。
文献によれば、白村江の海が真っ赤に染まるほどに、倭兵の死体が浮かんでいたそうです。
僕が書いている物語の主人公、大伴部博麻(おおともべの はかま)は、この白村江の戦いで、唐軍の捕虜となった兵士です。
博麻は唐帝国の都である、長安に連行され、同じく捕まった倭人とともに、捕虜生活を送ります。
この長安で、捕虜として過ごしていた倭人は、博麻を入れて五人です。
その7年後、博麻たちは、唐帝国による倭国(日本)襲来計画の情報を知りました。
故郷が滅ぼされるかもしれない、一大事です。
これを日本へ伝える為に、博麻は自身を奴隷として売り、残る4人の仲間のために逃亡資金を作りました。
自分の身を犠牲にして、仲間たちを倭国に逃がし、倭国(日本)を救うためです。
当時、世界最大の帝国として栄えていた唐帝国で奴隷になるということは、二度と生きて帰れない境遇になるのだと捉えて良いでしょう。
古代日本で生まれた一兵士が、国を守るために、ここまでの覚悟を決めていたのです。
そして、博麻が奴隷として売られたその資金で、仲間たちはなんとか倭国に帰還し、この襲来計画を大宰府に伝えました。
その後、この情報は天智天皇に報告され、さらなる国土防衛強化が図られました。
一方、博麻は奴隷となった約20年後、ついに日本へ帰国しました。
この時代の人間の平均寿命で考えると、おそらく余命いくばくもない、老人となっていたことでしょう。
そんな博麻の功績をたたえる人物がいました。
それが、第41代天皇、『持統天皇』です。
博麻の国を憂う心、故郷と仲間を想う心をたたえるために、天皇陛下は多くの褒美と、勅語(天皇陛下の正式なお言葉)を送られました。
「朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠」
この勅語の意味は、「我はお前が朝廷を尊び、国を思い、己を売ってまで忠誠を示した事を嬉しく思う」というものです。
そして驚くべきことに、この勅語は、
一個人に与えられた、日本史上唯一の勅語なのです。
日本史には素晴らしい偉人がたくさん出てきますが、この大伴部博麻のように勅語を送られた人はいません。
大伴部博麻。
彼は特別な人間ではありません。
貴族の血を引いているわけでも、大軍を率いる名将でも、国政を担った政治家でもありません。
しかし彼は、ただひたすらに仲間を、故郷を、国を想って、己の身を売って戦い続け、ついには唯一無二の偉人となったのです。
僕は、この博麻の生き様を、描こうと思っております。