「月兎と竜宮亀の物語Ⅰ海洋編」第1章 月兎
第1章 その一
むかしむかし浦島太郎は、助けた亀に連れられて海の中の竜宮に行きました。そこで毎日楽しく暮らしました。
三年経って浦島太郎は故郷に帰りたくなりました。竜宮の姫様から玉手箱を授かりましたが、 「絶対に玉手箱の中を見てはいけません」と言われました。亀の背に乗ってふたたび故郷の海岸に来ましたが、そこには誰も知っている人はいませんでした。浦島太郎が竜宮に行ってから何百年も過ぎていたのです。浦島太郎はしかたなく玉手箱の紐をほどいて蓋を開けると、中から白い煙がもくもくと出て、たちまち白髪のおじいさんになってしまいました。
(昔話「浦島太郎」より)
物語はここから始まります。
浦島太郎を送り届けた竜宮亀(以後、竜亀)は浜ユウの草かげに隠れて、浦島太郎が玉手箱を開けて白い煙とともにみるみる老いゆく様子を見ていました。
そしてとうとう浦島太郎が崩れ落ちてひからびた屍となり、最後に一陣の風が吹くと、衣服とともに砂塵のようにどこかへ消え去ってしまいました。竜亀はその様子を眺めながらどうすることもできず、ただ涙をうかべて砂浜にうずくまるばかりでした。夜になって竜亀は竜宮に戻ろうかと砂浜の波打ちぎわ近くまで来た時、ふと月を見あげたのです。涙で月の形はゆがんで見えました。
その日は満月できらきらと光かがやき、竜亀の顔をあかるく照らしていました。
その時竜亀はかすかな声が聞こえたように感じました。
その声は、
「亀さん 亀さん~泣くのはおよし 亀さん~亀さん~泣くのはおよし」と歌っているようにも聞こえました。
竜亀は思いました。
「わたしも老いたのかな 皺もまた一本増えて幻の声も聞こえるし これもまたわたしのもう一つの心の声にすぎないのか」と。
そうして波がうち寄せるところまで来て、もう一度月を見ました。今度ははっきりと月の形が見えました。
今まで気がつかなかったのですか、月の模様になんだか物の形があるような気がしました。
「おや月のあの模様 何かの生き物のような形に見えるが」。そしてまたもや声が聞こえました。
さきほどよりはっきりとした声で、
「こんばんわ亀さんわたしの声が聞こえますか」。
竜亀はびっくりしてあたりを眺めました。
誰も居ません。ただ海の真上に丸い月が見えるだけです。
「おやおやわたしもとうとう変になったのか人の喜び悲しみに多くつきあい過ぎてわたしも人の心に似てきたのか」。そう思いつつ煌々と光る月と月の中の不思議な形を見つめるのでした。そしてその形は竜亀の目にはますます何かの生き物の形に見えて、それ以外の物には見えなく感じられるのでした。
第一章 その二
明るくかがやく月の光に照らされたその砂浜の波打ちぎわでは、波が打ちよせるたび引いていくたびに、青い炎のような光を放ってかがやくのです。
その長い海岸線にそって青白い線が幾重にも連なり、遠くの岩では当たった波が打ちあげられ、青い炎が空中に舞いあがるようでした。
それは波間で夜光虫がかがやいているのです。
竜亀は誰もいない海岸で波だけが浜辺の砂とたわむれるこの世のはるか昔からの音楽を耳にしながら、波の音とともに聞こえてくる声にふたたび耳をすますのでした。
それはむかし聞いたことがあるような響きをもった人の女性の声でした。
「亀さん 亀さん わたしは月の兎です 今夜は満月だから あなたとお話できますよ」。
竜亀はあらためて満月を眺めながら思いました。『兎 そういえば兎のような形が見える いや蟹かな それとも』。
視る力が人より少し劣る竜亀は、それでも月に模様のようなものがあることは、以前から見て知っていましたが、そこに何かの形があることを想像さえしませんでした。大地は丸いことを経験で知っていたので、月もまた自分の住む大きな大地のようなものだとぼんやりと思っていました。黒い影の部分は海かもしれないとなんとなく考えていました。
でもいまや兎の形に見えることを発見して、「わたしは兎です」という声を聞いてからは、月の表面の模様は兎の形にしか見えなくなりました。
『そんなバカな あれが兎に見えるとしても あの兎がわたしに声をかけるなんて ましてばかに大きい兎じゃないか 何か知らないものが自分は兎だと言って声をかけているのだろうか もしかして誰かがいたずらをしてどこからか声をかけているのだろうか それとも人がうわさする神様なのだろうか いや神様であるはずはない 神様なんてこの世にいないのだ』。
竜亀は苦笑して考えました。
竜亀はいつもこの世に神様なんか存在しないし、地獄もありはしないと思っていました。一度もそんなものは見たことがないからです。
竜亀は見たものだけがこの世に存在し、聞こえるものはいつもはかなく消えていく風のようなものだと思っていました。イルカや人の話す言葉もすべては消えていく一時のさざ波のようなものだと。ちょうど夜光虫が放つ一瞬の青い光のように。
竜亀は自分以外には何も動きまわる生き物が、海岸のどこにもいないことを、周りを見渡して確かめると、その声が自分の外から聞こえてくる声ではなく、自分の内側からの声ではないかと、しばらく考えた末に思いました。『わたしの心の中の もうひとりのわたしがわたしに囁いているのだ』と。
第一章 その三
竜亀は、聞こえてくる声が月の兎の声ではなく、自分自身の心の中の声にちがいないと考えました。
でもそういう考えが浮かんだ時、同時に自分自身でもびっくりするような深いため息をついて、心の中でつぶやきました。
『なんということだ また同じことのくりかえしだ』と。何十年も考えることを止めてしまった一つの問いがふたたび甦ったのです。それは、『自分はいったい何者なのだ』という自問自答の、永遠に解けそうもない謎です。
竜亀は小さいころから、自分は他の亀や他の海の生き物とはまったく違った生き物だと、いつも思っていました。自分でも知らないうちに人の言葉を聞き、理解できるようになり、人の言葉で物ごとを考えるようになり、人の言葉をしゃべることのできる自分自身のことです。竜宮とこの広い海を行き来できる唯一の生き物としての自分というものと、海に住むあらゆる生き物の心を読み、老いた鯨や老いたイルカや老いた大蛸のように不思議な力をもっている魔物のような生き物と会話ができる自分についてです。
『竜宮とはいったい何だろうか』よりも、『自分は何者なのだ』という謎です。
竜亀は心の中で、ひとりのわたしともうひとりのわたしが対立していつも対話をしていました。
でもいつまでたっても終わらない自問自答の果てしのない対話に疲れ果ててしまい、ある時から竜亀はもう一人のわたしと別れ、一人のわたしだけになって、対話すらも止めてしまい、自分に問いかけ悩むことも止めてしまいました。そうしてそれからは何も考えず心の中で誰とも対話することもなく、広い海を目的もなくあちこちと行き来するだけになり、そうして何十年どころか何百年か何千年か自分でも分からないくらい時間が過ぎたのでした。
竜亀は深いため息をつきながら思いました。
『かつていつもわたしが相手していた もう一人のわたしは わたしにそっくりな男の亀だったが わたしの心の中にはまだ兎が居て それも人の女のように言葉を使い わたしに語りかけるなんて これは奇妙だ』
と不思議に思うと同時に、
『海の世界はもう飽きたな けれど未知なものがまだわたしの心の中にあったとは』と竜亀はすこし興奮してこの新しい出来事に喜びさえ感じるのでした。
その時ふたたび声が聞こえました。
「亀さん 亀さん 何を考えているのですか わたしはあなたとお話をしたいのですよ 何か言ってください」と。 竜亀はびっくりして、
『これはどういうことだ もうひとりのわたしがわたしの心の中で語る言葉を分からないとは』と心の中で叫びました。
竜亀はかつてのもうひとりのわたしと対話していた時とは、まったく違った生々しい人の女性の声の、月の兎というわたしの出現に、ただただ驚くのでした。
第一章 その四
竜亀はそれでも声の主は自分の心の中にあり、耳に響くのは幻だと思っていました。
というのはこれまで何度も不思議な声や音や音楽を聞いたことがあるからです。
自分の心の底からかどこか外の遠くから聞こえてくるのか、区別がつかないようなことが時々あったからです。
でも竜亀はそのことの不思議さを、そのまま不思議と受けとめて、悩むことも不安になったこともありませんでした。長く生きているとそんなことは自然のものとして受け入れてしまっていたのでした。
竜亀は落ちついて声を出して答えました。
「兎さん あなたがわたしの心の中にいようと 夜空にこうして見える満月の兎さんであろうと どちらが本当の兎さんか わたしに示してくれるかな」。
するとすぐさま返事がありました。
「亀さん あなたの知らないことでわたしが知っていることを言いますよ あなたの自慢の白い大理石のようにきれいな甲羅の右後ろに 小さな傷があることを知っていますか あなたの大切な宝玉で見てください」。
竜亀は驚いて甲羅の中に隠しているきらきらと光る宝玉を取りだし、右の後足で器用に甲羅を鏡のように反射させて覗きました。
やっとのことで見えた甲羅の右後ろに小さな×印が見えました。
「これは何だいつからこんな傷があるのだ」。
驚いて竜亀は声を出しました。
「それは浦島太郎に助けられる前に子どもたちにあなたが捕まって石ころでいたずらをされたのですよ わたしはその光景を見ていたのです」
と声が聞こえました。
でも竜亀は、
「いいや あなたは月の兎なんかじゃない きっと高いところからカモメかコウモリがわたしをからかっているのだ おいお前たち いい加減にしろ」
と少し声高に言いました。
でも竜亀は別に怒ってもいら立ってもいませんでした。
今までこのようないたずらはたびたびあったからです。
すると今度は少し張りつめたようなはっきりとした声が聞こえてきました。
「あなたの右の前足の下に 小さな赤い貝殻があります 割らないように気をつけてください」。
竜亀は驚いて右足をそっと持ち上げました。
そこには桜貝という花びらのように可憐な貝殻が一つありました。
竜亀はしばらく黙ったあとに小さくつぶやきました。
「これは困ったな わたしがいままで生きてきて 一番いや二番目に不思議なできごとだ」。
そう言いつつも竜亀は心の底から興奮とも喜びともつかない気持ちがあふれてくるのを感じたのでした。
第一章 その五
竜亀が見るその日の満月はまわりに巨大な光る環がありました。
環の外側は虹色にかがやき内側は紫色のオーロラが揺らめいているように見えました。そしてその環の下側は水平線に届きそうでした。竜亀はその不思議な光景を眺めながら思いました。
『月の兎はわたしのことをどれほど知っているのだろうか』と。
そこで竜亀はふと思いついて月の兎に聞きました。
「兎さんよ わたしはあの時どうしていたずら小僧たちに捕まったか知っていますか」となにげなく尋ねました。
するとすぐさま、
「ええ あなたは人の畑に忍びこんで 大根をかじっていたのです 大蛸さんに教えられてね」と返答がありました。
竜亀はびっくりして月の兎は本当に自分のことをよく知っていると驚いてしまいました。
むかし竜宮の門番の大蛸が陸に上がって何かしているのを後ろからつけて行き、海の中から見ていた竜亀は、陸に上がってはいけないという竜宮の掟のことで、「竜宮の姫さまに言いつけるぞ」と脅かして聞き出したことがあったのです。それは変なものを食べて腹のぐあいが悪いときは、陸の大根がいい薬だという蛸族の秘密です。
竜亀はクラゲに飽きて海底で見つけた大ナマコを食べて胃が痛くなり大蛸の秘密を思いだして畑まで出かけて、子どもたちに見つかったのでした。
月の兎の返事を聞いて竜亀はすっかり動揺してしまい、もしかして竜宮姫も知らない自分だけの秘密も知られているのかと心配になり、なにげなく聞きました。
「これは これは なんでも知っているのですね では竜宮の中のことも あなたはすべてをお見通しなのですね」と言うと、「いいえ 竜宮の中だけはよく見えないのですよ もし知りたいことがあるとしたら 竜宮の中のことですよ」と、困ったようなあるいは少し笑うような返事がありました。
竜亀は、『しめた』と心の中で叫びました。
相手の秘密や弱点を手に入れたと思ったとき、竜亀はいつもなぜか、『しめた』と心の中で叫ぶのでした。
月の兎は全てを知っているのではなく、知らないこともあるということと、そして自分にとっても一番大切な秘密が知られていないということに、ほっとしました。
月の兎の弱みを握ったと確信すると、竜亀はようやく落ち着きを取りもどし、いまこそ問いかけようと、できるだけ平静をよそおい、月の兎に言いました。
「兎さん あなたは わたしとこんなおしゃべりをしたくて声をかけたのではないでしょう あなたがわたしに本当に言いたいことは 別にあるのでしょう」と言い終わると、夜空いっぱいに広がる環はいっそう輝きだし、真ん中の月も黄金のように輝きはじめました。竜亀はどんな返事が来るのかと夜空の真ん中に浮かんでいる満月を見上げたまま、まばたきもせずじっと見続けました。
第一章 その六
まもなく月兎からの声が聞こえました。「亀さんは 海の生き物のことなら すべて知っていますね でも陸の生き物のことを知りたいと思いませんか」。竜亀は何のことかと、
「陸のことなんか興味はないね」と言うと月兎の返事は、「あなたに陸に上がって見てきて欲しいのですよ」という予想もしないことでした。
竜亀は言いました。
「月兎さんよ あなたはわたしのことをすべて見て知っているのだから 陸のこともすべて知っているのでしょう」と、わざととぼけて言うと、
「いいえ 陸の上の生き物は人という生き物を除いてすべて知っていますよ でも人という生き物はどうも分からないのです 亀さんに陸にあがって人のことを調べて教えてほしいのです」。
竜亀はすかさず、
「冗談でしょう わたしは亀ですよ まして海亀じゃないですか どうして人のいる世界に行くことができますか」と、からかうように言いました。
すると、
「亀さんや あなたは自分でも分かっているでしょう あなたは海亀なんかじゃない ちゃんとした陸亀ですよ その指のある足はなんですか」と、笑いながら竜亀をさとすような返事がありました。
竜亀は、『月兎は何でも知っているな』と苦笑しながら思いました。
竜亀がこの世に生まれた時の最初の記憶とは、卵の殻が割れて外に出たとき、自分が海の中に居て、必死で海の上に出て呼吸しようとしていたことでした。海面に出てようやく海岸の砂浜にたどり着き、陸地のより高いところへと登ろうとした時、出会ったのは自分と同じ小さな亀達が卵からつぎつぎとかえり、海に向かってよちよちと歩きだし、そして海の中へと泳ぎだして行く様でした。竜亀は途中で自分の向かう方向がみんなと逆だと思い、ほかの亀達と同じように海へと引き返したのでした。
でも海亀と自分とはまるで違うとすぐに気がつきました。海亀の足はヒレのようになっていて指はありません。竜亀は足には指があり、指と指の間は小さなヒレがありました。また海の中でほかの亀達と同じものを食べても美味しくありませんでした。クラゲよりも陸地で見つけてときどき食べるミミズのほうが好きでした。だから小さいときから自分の本当の姿は陸に住む亀か川や沼にいる亀の仲間ではないかと思っていました。そのうえ陸のほうが気持ちよく感じるのでした。時々隠れて夜に海岸の砂浜に上がって歩きまわり、あるいは海上に突きでている岩の上で昼寝をするのが大好きでした。
でもどうして自分が最初に海の中の卵から来たのかいつも不思議に思っていました。
竜亀はふたたび月兎にむかって問いかけました。
第一章 その七
「月兎さんよ たとえわたしが陸の亀であっても どうして亀が人の世界に入りこめますか冗談だよねえ」と、竜亀はすこし笑いながら言いました。でも心の中ではどういう秘策があるのかと期待していたのです。
月兎からすぐに返答がありました。
「ええ あなたを人の姿に変えられます それに服も用意してみせます」。それを聞いて竜亀はなるほどと思いましたが、同時に不可解な思いにとらわれました。
『あんなに遠くにある月に居て どうしてわたしの服を用意できるのか』と。そしてまた最初の疑問にもどり、心にひとつの言葉が浮かびました。
『この声は確かにわたしの外にいる誰かに違いない でも本当にいま見ているあの月の兎なのか』と。
竜亀は声に出して言いました。
「月兎さんよ あなたがこの空のあの月の中にいるという証拠を見たいね あなたの周りの環がさきほど強く輝いたように わたしの眼の前でいますぐに三度強く輝かしてくれるかな」。
すると、「疑い深いのですね では三度ですね 見ていてください」という声がして、月の周りの大きな環が三度、さきほどのように強く輝きました。そして中央の満月も黄金のように輝きました。
これを見た竜亀は、『誰がこんなことが出来るのだろうか月か月にいる誰か以外には不可能だ』と思いました。
でもどうしてもあの月の中のあんなに大きな兎が話しかけているとは思えません。そこでそこで竜亀は言いました。
「月兎さんよ あなたが月にいるのはわかった いや月があなたかもしれない あるいは月の中にいる誰かは知らないけれど あなたはわたしの知っている兎にはとても思えないのだよ もっとも兎については海岸の草地を跳びはねている兎しか知らないのでね」。
すると月兎は言いました。
「そうですね でも亀さんだって あなたは自分のことを普通の亀と思っていないでしょう いえ わたしの言いたいのは わたしが兎だろうとそれ以外の何かであろうと どうでもいいことです あなたが呼びやすい生き物にしただけですよ お魚の竜宮の使いでもいいのですよ」と。
竜亀はそれを聞いてドキッと心臓が動くような音を聞いたような気がしました。そして心の底からこの月兎という誰かは本当はすべてのことを知っていて、自分の心の中も本当は知っているのではないかと思いました。そして自分の生まれの謎も竜宮の謎もこの海のことも、この世界のあらゆることを本当は知っていて、自分を何かの目的のために試しているのでないかと思いました。
そして竜亀はこの時、不安になるというよりも、怠惰な日々にうんざりしている自分に、『何か大きな変化をもたらすのではないか いや今こそなにかが始まる』と希望の光を感じつつ、さんぜんと輝きながら夜空にぽっかりと浮かぶ球体を眺めるのでした。
第一章 その八
「人のいるところへ行って 何か見て来ればいいのですね」。
竜亀は乗り気のない言い方をしました。
「ええそうです あなたが感じたことを伝えてほしいのです」と月兎の返事がありました。
竜亀はすこしがっかりしたように、「それだけですか なぜわたしがわざわざそんなことをしなくてはならないのですか わたしではなく 誰か本物の人に月兎さんが問いかければ済むことではないですか」と言いました。
でも竜亀の心は反対で、自分こそその役目にふさわしいのだと思いこんでいたのでした。
「いいえ あなたが人の世界で見聞きし 感じたことや思ったことや考えたことをわたしに伝えるのではありません」との月兎の返事を聞いて竜亀は、「それはどういうことですか では誰に伝えるのですか」と聞くと、しばらくの沈黙のあと、月兎の以外な返事がありました。
「今からちょうど千年後に ある島に海の方から顔のない人がやってきます その人に亀さんが人の世界で得た知識や知恵や亀さんの考えを すべて伝えて欲しいのです」。
竜亀はますます混乱して、「そんなことなら今でもすべてを知っている月兎さん あなたがそのなんとかの無い人に話しかけて伝えるほうがいいでしょう それに千年後とは気の遠くなるような未来だし わたしはそれまで生きていられるか というより千年後のことがどうして月兎さんは分かるのですか まったくわけが分からない」とつぶやくような言い方をしました。
すると、「ええ でもわたしは千年後までの未来を見とおせるのです 今日亀さんにこうして出会うのも予想し そして決められたことなのです」と澄みきった声が夜空の彼方から響くように聞こえてきました。
「うそ 冗談 いや神様だってそんなことはできない いや 神様なんていない」と言うと、竜亀は混乱してしばらく口をつぐんだ後に、「月兎さん あなたが千年先の未来を見とおすなんて わたしは信じられない ましてわたしには確かめようがない だからたとえばこの夜空で わたしの上を何羽のカモメが そして今からいくつ数えたら通り過ぎるか分かるかね」と聞きました。
すると、「それではだめですよ なぜなら未来の予想にはなりません だって海の向こうから三羽のカモメがそちらにやってくるのが わたしには見えます 予想するまでもないことです 亀さん わたしはこれからあなたの身のまわりで起きる出来事はすべて分かるのですよ だからその時になってわたしの言ったことが真実だと分かるようなことを言いますね それは あなたが今日からちょうど百日後に友から秘密を打ち明けられます そしてあなたは樽に頭を突っ込むのです」と、おかしさに笑うような声が聞こえました。 竜亀はあっけにとられて、『なぜ樽に頭を突っ込むのか いやそれより月兎とはいったい何者なのだろうか』と考えるのでした。
第一章 その九
竜亀は心を決めると月兎に言いました。
「あなたが誰で何者であろうと わたしは決めましたわたしを人の世界に送りこんでください」。
すると、
「あいかわらず あなたはせっかちですね まだ千年も時間はあるのですよ それから あなたが人の世界に行ったなら 二度と海や海の中の竜宮には戻れないかも知れません だから竜宮や海の友に別れを告げるのがいいですよ」と声がしました。
それを聞いて竜亀は、
「知れませんと言ったって 月兎さんはわたしの未来を知っているのだから きっと竜宮に戻れないのですね」と言いました。
月兎は笑い声で、
「そういうことですよ だからあなたの気が済むまで竜宮に居ていいのですよ そしてここで再びちょうど千年後の満月の夜に会いましょう わたしにはそれがいつの時か分かっているのです」と言いました。
竜亀はそれを聞いてためいきまじりに、
「分かった 分かった どうにでもなれ 竜宮かこの海であと千年過ごせばいいのだな まあなんと先の長いことだな それまで何をして過ごせばいいのだ どちらにせよ千年後にあなたはわたしに満月の夜に話しかけてくれるのだね そして顔のない人がやって来てその人といっしょに 人の世界に行くのだね」と言って次の言葉を言おうとすると、それをさえぎるように月兎の声が聞こえてきました。
「今夜はもうお別れしなくてはなりません ではまた会う時まで さようなら」。
その瞬間、あんなに輝いていた月の光とその周りの環も消えてしまい、いつもの満月に戻ってしまいました。それでもその満月はやはり美しく満天の星の真ん中で輝いていました。
竜亀はハッと眼が覚めたような気分になり、『今の出来事は夢だったのか それにしてもまるで本当の現実みたいだ』と、しばらくその出来事を思い出していましたが、「そうだ」と声を出して右の前足をそっと持ち上げて見ました。
そこには赤い色の小さな桜貝の貝殻がありました。
そして今度は甲羅の中から宝玉を取り出して反射させて、甲羅の後ろを映すと×印の傷が見えました。
竜亀はおもわず、「今のあれは夢や幻なんかじゃない 本当にあったこと」と叫び声をあげました。
そのとき竜亀のちょうど上空を三羽のカモメが音もなく通り過ぎていきました。
竜亀はそれを見上げたまま、
『なんということだ 月兎はこのことも知っていたのか』と思うのでした。
そして夜空の満月を眺めながら物思いにふけるのでした。
第一章 その十
竜亀はいましがた自分に起こった出来事を思い出しながら、さまざまなことに思いをはせていました。
それは自分にまつわるすべての謎めいたことや、あるいはこの世の神秘というより、この世界が存在することの不思議さなどについてです。
『自分はいったいどこから来たのだろうか どのように生まれたのだろうか 自分はなぜ他の生き物たちとまったく違っているのだろうか そして竜宮とはいったい何なのだろうか そもそもこの世界はなぜ存在しているのだろうか』と。
しかしまた月の兎は今までのすべての不可解さを超えるほどの衝撃を竜亀に与えました。
それと同時に竜亀にとってそれまで抱いていたこの世界のすべての事柄の不思議さや自分にまつわる謎について、すべて解き明かしてくれるような予感をもったのでした。
さきほど輝いていた月はもう以前からの月そのものでした。その月を眺めながら黄金のようにふたたび輝いて、月の兎が自分にもう一度話しかけるのではないかと待ち続けました。
しかし月は何の変化もなく、昔からの変わらない月そのものでした。
そうして月がいつしか水平線の彼方に沈み、夜が明けはじめたころに、竜亀はようやく深い沈思から解きはなたれて独り言のように心の中でつぶやきました。
『これから本当の何かが始まる これこそわたしが望んでいたことだ時よ 速く過ぎよ』と。
それから月兎の言ったことをふたたび思い出しました。
「百日後に友から秘密を打ち明けられます そして樽に頭を突っ込むのです」。
竜亀は苦笑しながら、
『月兎の予言を実現させるためにも わたしは友に会いに行かなくては でも竜宮の友か それともこの海原にいる友か ふん 竜宮の友で大蛸の奴なんかの秘密なんて興味ないな そうだ 彼等の秘密を知りたいな』
と思いつくとすぐさま海にいる友に会いに行こうと決めたのでした。
と同時に、『これでは月兎のおもう壺ではないか わたしが誰にも会わずにぶらぶらこの海で百日以上も過ごせば 月兎の予言は外れることになるのではないか』とも考えたのでした。
でもとうとう、
『ああ 彼等の秘密をなんとしても聞き出したい それに樽とは何だろう』と誘惑に勝てずに、竜亀は友に会いに行くことを決めたのでした。
朝日が東の海から見えはじめ水平線がいっせいに輝きだした頃、竜亀はゆっくりと海の方へ歩みだし、白く泡立つ波間に消えていったのでした。