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「月兎と竜宮亀の物語1海洋編」第八章メルキアデス

第八章その一
「やあ アルファか 久しぶりだな あれから五百年か 一年前に竜宮から戻ってね お前がこちらの海にいると聞いてね 神亀と言われているそうじゃないか でも元気そうでなによりだ」
 と竜亀が言うと、アルファと竜亀はおたがいの頭をゴンと合わせてうれしそうに挨拶するのでした。
 アルファが、
「かあさんが亡くなって何千年も経つ 他の兄弟たちはゆくえ知らず 多分とっくに死んでしまったのだろう とうさんを知っているのは僕だけになってしまった」
 と言うと竜亀は、
「僕とか言う言い方はやめてくれ お前だって何千年も生きていて神亀と言われているのだから それにしても仕方ないな 亀でこんなに長生きしているのはわれわれだけだからな」と言いました。
  竜亀の妻の海亀は竜宮姫に竜宮に連れられて来て人の姿になり、竜亀の妻となって竜宮で暮らして、その後海岸でアルファたち卵を産んだあと、しばらく竜宮で暮らして後に亡くなったのでした。
   アルファの母が産んだ卵から孵った亀は普通の海亀でしたが、アルファだけが竜亀と同じで足には指があるのでした。そしてアルファだけが長生きして何千年と生きているのです。 アルファは言いました。
「とうさんの好きな酒を用意しますからね でもその前に紹介したい人がいます」
 と言って甲羅を背負ったまま立ち上がって、奥の木の扉を開けました。そして竜亀を案内しました。
 竜亀も甲羅のまま立ちあがりその部屋に入りました。その部屋は多くの書物が木の棚に整然と並べられ、大小の壷や甕やガラスの瓶が並べられ、陸の薬草のようなものや鉱物や海のものなどあらゆるものがガラスの瓶などに入れられ、雑然と並べられていました。
 そして奥のほうに炉があり火が燃えていて、その上でなにかが壷の中で、ぐらぐらと煮えていました。その横に立ってその様子を眺めている人がいました。
 老人というよりは初老の人はほっそりとしていましたが、いかにも頑丈そうで黒い髭と長い黒髪はまるで中世の錬金術師か天文学者のようでした。
 アルファはその人に向かって、
「メルキアデスさん わたしのとうさんを紹介するよ」と言いました。
 彼は竜亀のほうを振り返ると、
「はじめまして わたしは神亀様の助手のメルキアデスと言います お会い出来て光栄です」
 と言うと、アルファは、
「助手だなんて わたしたちは対等の仲間です いやメルキアデスさんはわたしの先生です」
と微笑んで言うのでした。
第八章その二
 アルファは、部屋の真ん中にある木のテーブルに竜亀を案内すると、
「メルキアデスさん とうさんにはお酒がいいと思う 例のやつを飲みましょう」と言いました。
 メルキアデスは棚から黄金色の液体の瓶を取り出してテーブルの上に置きました。
 アルファは、「さまざまな薬草入りの酒です」と言うと小さなグラスに注ぎ、「とうさんにひさしぶりに会えてこんなにうれしいことはない 乾杯しましょう」と、グラスをかち合わせました。それは強い甘さと酔いを誘う粘り気のある強い酒でしたが、なによりも不思議な香りが強く、眠気と覚醒を同時に誘うような酒でした。
 アルファが、
「お酒には詳しいとうさんでもこれは知らないでしょう」と言うとメルキアデスは、「これはわたしたちがようやく作り上げた不老長寿のお酒です でもアルファ様のおとうさんにはいまさらですけど でも元気も出るのですよ」と笑って言いました。
 竜亀は、「ところでアルファよ この部屋はなんだい お前が人のために何かすると言って こちらに来て いつからか神亀と言われていることは風の便りで知っていたがこんな様とは さっぱりわからない 説明してくれないか」と言うと、
「とうさんも驚くのはもっともです わたしもこんなふうになるとは」と言って語りはじめようとしました。
 その時、扉の後ろから、「アルファさん 探してきましたよ」
 と人の女性の声がしました。アルファは立ちあがり、扉を開けるとそこには、岩の上に上がりこんだ海亀がいました。前に珍しいオウム貝が置かれてありました。
 アルファは、「ゼリア この亀さんはわたしのとうさんだ とうさん この亀はゼリアというのです わたしの手伝いをしてもらっているのです」と言いました。その亀は雌の海亀でした。
 竜亀は、『海亀だけど 竜宮に連れて行って人の姿に変えたらとても美人だ』と思うのでした。
 ゼリアは、「あの竜亀様に会えるなんて こちらの海でもあなたのお噂は伝わってきています 海亀の世界では知らない亀はいません」と言いかけるとアルファは、「ゼリア 後でね」と言うとなんだか恥ずかしそうにゼリアを追いやるのでした。竜亀は、『アルファはついにかわいらしい相手を見つけたものだ』と、うれしく思うのでした。
 アルファに竜亀が、「今の海亀は言葉を使えるのはどうしてなのだろう」と聞くと、アルファは、「それが分からないのですよ 自分でも分からないらしくてね」と言い、アルファはさらに、「ゼリアという名前はメルキアデスさんが付けたのさ 甲羅の真ん中に傷があり それがローマ字のZに見えるのでゼリアという名にしたのです」と言うので竜亀は、『火山のある島の陸亀もそうだったが ゼリアというあの海亀も もしや杖の老人が絡んでいるのかもしれない』と考えるのでした。
第八章その三
 アルファは言いました。
「僕は いえわたしは人のために何かしようとこちらの大洋にやってきたのだけど 島の人たちに会っても最初はどうしていいかわからず言葉をしゃべれるということで 人からは神亀と言われるようになったのだけど 島の人たちに頼まれて海の魚の様子や海流の流れを教えてあげたり 鮑を採る時サメから守ってあげたりしていたのだ そこへメルキアデスさんがわたしを訪ねてきたのだ」。
 そこでメルキアデスが口を開きました。
「アルファ様 このことについてはわたしから説明した方がいいでしょう」と言って話しはじめました。
 メルキアデスは父母を知らない孤児として都市の貧民街にいたところを修道院の錬金術師に拾われ、いつしか錬金術を習得したのですが薬学にも興味を持ち、不老長寿の薬草や秘法を求め、各地を放浪するうち、アルファのうわさを聞き、興味をもってアルファと会うと、いつしかお互いを信頼するようになり、ついにはアルファもメルキアデスの不老長寿の秘薬を作ろうと手伝うようになったのでした。そしてメルキアデスは人からは亀仙人と呼ばれるようになったのでした。
 メルキアデスは自分の来歴を簡単に語った後、竜亀に、「アルファ様のお父様のことを以前からお聞きしていました あなたの甲羅は不思議な力を持っているのですね」
 と尋ねると竜亀は、
「そうともアルファは不老不死の体だけどアルファの甲羅にはそんな力はないのだ わたしの甲羅は特別なのだ でもわたしにそんな力があるのではなく 甲羅に何か不思議な力があるのだ まるでわたしとは別の力がね」
 と言うとアルファが、
「そうなのだ とうさんの甲羅の力は神秘でもある とうさんはまるで普通の亀なのにね」
と何やらからかう口調で言うので、竜亀は、「わたしが普通の亀だって アハハ お前の言いたいのはわたしという亀 いや亀というわたしが普通だということだろう そうとも わたしはいい加減で 無責任でお前にとって威厳もなく立派でもなくなまけものでいい父亀ではなかった でも亀は父親なんて知らないのが普通なのだよ お前こそ両親の亀も知っている そんな亀はこの世にいないよ お前も知っているとおり わたしはわたしの父さん亀も母さん亀も知らない ところで最近とうとうわたしの生まれの秘密も生まれ故郷も知ることが出来たのだ お前に関係することだから ぜひ知っておいてもらいたい」と言いました。アルファは、「本当ですか とうとうわが一族の謎が分かったのですか」と、眼を輝かせて言うと竜亀は、「いや まだほんの謎の扉が少し開いたに過ぎない いままで扉を開ける鍵さえ探せなかったのだからな」と答えました。
 メルキアデスは目の前の亀の親子のそうした会話を、眼を大きく開いてまるで不老不死の秘法をついに探りあてたかのような思いで聞き入るのでした。
第八章その四
 それから竜亀は浦島太郎との出会いと彼を竜宮に連れて行った時から、再び浦島に戻って浦島太郎が玉手箱を開けて消え去った後の満月の月兎の出会いなど、それまであった出来事を詳しく話したのでした。もちろん陸の竜宮での出来事も話したのです。アルファは驚くと同時になんだか深く考えながら話を聞いている様子でした。
 メルキアデスのほうはただ驚くばかりで、竜亀の言葉をひとつも逃すまいと聞き入るばかりでした。竜亀が話し終えるとアルファはなぜか多くの瓶が置かれた棚をぼんやりと見つめながら黙っているだけでした。
 メルキアデスは興奮した様子で、
「竜亀様 わたしはアルファ様に最初にお会いした時がわたしの人生で最大の出来事でした でも今日のあなたのお話はこの世のすべてがひっくり返るほどの衝撃ですほかに言いあらわす言葉がありません」と言いつつ瞳の奥に涙をにじませるのでした。
 竜亀はいかにも知性あふれるメルキアデスに興味を覚えました。『きっとこの人はわたしやアルファなんかよりはるかに多くのことを知っているのだろうな 単に知識と言うことだけでなく知恵があり賢いのだろうな あれらの書物はわたしにはさっぱりだが あれらの書物には人の世界のことがいっぱい書かれてあるのだろう この人と一緒ならアルファもきっと今は知識もいっぱいあるに違いない いい人にめぐり会えたものだ ここで一番無知なのはわたしということか でもわたしは海のことならなんでも知っている どこの海にどんな生き物がいて どこの岩場にどんな生き物が隠れているか こちらの大洋はともかく向こうの大洋のことならわたし以上に知っているものはいない ああ でも それがどうしたというのだ 陸の上のことは何も知らないのだ』と思うのでした。
 竜亀は陸の竜宮のある島の洞窟の壁画のことも話しました。
 メルキアデスは壁画に関心を示して、特に描かれた宇宙の図に強い興味を抱き竜亀に熱心に質問するのでした。
 でも竜亀はうまく説明できませんでした。
 いくつかの二人のやり取りのあと、最後に竜亀はメルキアデスに、「いま話したとおりわたしは千年後に人の姿になって顔のない人といっしょに人の世界に行くことになっている アルファならきっとその時も生きているはずだが ところでメルキアデスさん あなたは人の世界の知識がとてもあるのでしょうね 竜宮に行く前に人の世界のことを少し教えてほしいのだが」と言うとメルキアデスは、「そういうことならよろこんであなたのために出来ることならなんでもします でも千年後に今のわたしの知識は役に立つのかどうか」と言いました。
 アルファはなぜか竜亀とメルキアデスの会話を途中から黙って聞いているだけでした。何かを言いたくて、でも言い出すことを躊躇するふうでもありました。
第八章その五
 そこでアルファが口をはさみました。「とうさん 前から奇妙に思っていたことがあるのだけれど 今のとうさんの話を聞いてよけい分からないことがあるのだけれどね いま最初に聞いておきたいのは とうさんは竜宮亀の名前で呼ばれているけれど とうさんの友の金顎のカジキさんは本当はカジキではなく金の剣魚という名の魚だし 竜宮姫様は竜宮の使いという魚ではなく織姫魚という名の魚なら とうさんは何という名の亀なのだろうか 一族としてまず知っておきたい それにとうさんには名前はないのですか わたしにはアルファという名前があるのに」
 と言うので竜亀は、
「それはまだ言ってなかったな 陸の竜宮で教えてもらったのだがわが亀の一族は金剛石亀というのだ この甲羅がとても硬いのでね もっとも金剛石はこの世で一番硬い石だけど甲羅はそこまで硬くはない でもお前の知っているとおり そこらの石よりはずっと硬いのだよ それからわたしに名前がないのは当然さ 卵で生まれて父も母も知らないし お前だってかあさんから生まれたほかの兄弟は名前なんてないのさ お前だけわたしが名前を付けたのだ かあさんだって竜宮に来て言葉を話せるようになったので お前が知っているとおりのベアトリスという名は竜宮姫様が付けたのだ」
 と言うとアルファはうなずき、
「それからね とうさんの甲羅の秘密だけど 浦島次郎さんに傷つけられた×印の跡は 今見るとほとんど消えてかすかに見えるだけだ どうしてなのだろう」
 と言うので、竜亀は、
「そうだね浦島次郎さんが×印に掌を当てて消えてしまったとき ×印の跡も少し消えてしまったのだ浦島次郎さんの体から甲羅の粉が×印に戻ったのだ なぜこんなことになるのかわたしにも分からない」
 と言いました。
 そこでメルキアデスは、
「竜亀様 それは不思議ですね わたしとアルファ様は不老長寿の秘薬を求めてきましたが ほんとうは不可能かもしれないと思っているのです この酒だってどこまで効き目があるのか分からないのですよ でも竜亀様の甲羅の秘密はとんでもないもののようです 甲羅の粉を調べさせてください」
 と言いました。
 竜亀は自分の甲羅に不老長寿というより不老不死の力があることをいつも不思議に思っていました。
 メルキアデスからの申し出を聞いて竜亀は、
『メルキアデスさんならこの甲羅のことが何か分かるのではないか』と思い、
「いいさ この金剛石亀さんの甲羅を削るための 水晶のように硬い石はあるかね」と笑って言いました。
第八章その六
 メルキアデスは奥の棚から小さな水晶を取り出しました。
 そして竜亀の甲羅の×印のところをなぞるように水晶で削りとり、海鳥の羽でそっとガラスの瓶に移しました。
 メルキアデスはいくつものレンズを組み合わせたレンズ台を指さして、
「ひとまずあのレンズで覗きます それから小さな生き物で試みてみます」と言いました。
 竜亀は、
「気をつけてね ちいさな生き物にとってはその甲羅の粉末は たとえ僅かでも効きすぎる それにメルキアデスさんもうっかり粉を吸い込まないほうがいい わずかならどんな病気をも治すことができるが 吸い過ぎて不老不死になるのも考えものだ 不老不死は人を幸せにするとは限らないからね」と言いました。
 メルキアデスは、
「わかっていますとも わたしも今は自分が不老不死になるということに恐れを抱いています 用心します」
 と言いました。
 そんなことを話しながら竜亀とアルファとメルキアデスはそのテーブルで夜遅くまで酒を飲み、最初の不老長寿の酒がなくなると、さまざま薬草の入った酒を次々と飲むのでした。酒とともに乾燥クラゲやナマコや干し葡萄などを食べました。
 メルキアデスも酒は大好きでしたがアルファは水で薄めた酒をおいしそうに飲むのでした。
 竜亀は久しぶりにアルファに会ったうれしさで雄弁になり、酒盛りは大いに盛り上がり、竜亀は海の話を、アルファは島の人の話を、メルキアデスは人の世界の面白い話をするのでした。
 メルキアデスの博識は泉のように尽きることはなく、竜亀はただ感心し、
『メルキアデスさんとこうして一緒にいるアルファの知識も多くなったに違いない』とため息をつくのでした。
 そして酒を飲み続け食べ物を食べ続け、いつしかひどく酔い、竜亀はそのまま気持ち良くなってテーブルにうつぶせになり眠り込みました。
 竜亀はそこで夢を見ました。
 竜宮の中で人の姿になった妻のベアトリスと幼いアルファと三人でむつまじく暮らした頃のことでした。
 その夢の中で竜亀は幸せだった日々を思い出して涙を流すのでした。
 木のテーブルには竜亀の眼から滴り落ちた涙がたまり、まるで酒がこぼれたようにテーブルの中央に広がるのでした。
明け方になって洞窟の壁の明り窓の穴から朝の光が射し込んでくると竜亀は目を覚ましました。そこにはアルフアはいなく、テーブル上にパピルスの紙があり、なにやら文字が書かれてありました。
第八章その七
 すでに起きて奥の作業台でレンズを覗いているメルキアデスに竜亀は、
「おはよう メルキアデスさん アルファは居ないけど この紙は何だろう」
 と聞くと、メルキアデスは、
「それはアルファ様の書いたものです 最初に とうさんへ と書いてあります まだわたしは読んでいませんが いっしょに読もうと思って あなたが起きるのを待っていました」と言うとガラスのコップに水を入れて竜亀に差し出すと、メルキアデスはテーブルに座り、その紙を手に取って読みはじめました。
 それは一枚のパピルスにイカ墨のインクで書かれたものでした。「とうさん わたしは旅に出ます
 突然に決めたわけでなく 以前から旅に出たいと思っていました でも昨日のとうさんの話がきっかけです とうさんにひさしぶりに会ってうれしく 夕べは本当に楽しく過ごしました でもわたしは十分に酔うこともできず 心の半分は上の空でした とうさんにはいままで言いたくても言わなかったことがあります
 本当のことを言うと わたしもかあさんも竜宮のことはとうさんの空想だと思っていたのですよ
 竜宮で人になるというのは嘘です わたしもかあさんも人の姿に変わっていませんよ とうさんだって竜宮でも亀の姿のままじゃないですか 大蛸さんの門番のいる洞窟の入り口をくぐって行くと 大きな空洞には 竜宮の使いの魚さんが泳いでいるだけだし 広場の真ん中には光る玉があり あたりを照らしているだけの何もないところじゃないですか
 かあさんも
『とうさんはあの玉の光の中では わたしもアルファも自分も人の姿になって見えるのよ でもわたしたちにはみんな亀の姿にしか見えないのにねえ』と いつも言っていました でもこれにはきっと何かの理由があるのだと わたしたちは黙っていたのです 死んだ人を洞窟に連れてきても みんな横たわったまま眠り続けていただけですよ いや死んだままなのかも知れない 金顎のカジキさんだって 若いときの白鯨さんだって みんな人の姿になったと信じているけれど わたしたちには元のままの姿でしたよ
 門番の大蛸さんには 自分もみんなも人の姿には見えなかったのですよ
 これはどういうことでしょう
 わたしはとうさんの昨夜の話を聞いて酔うことも出来ず いろいろ考えて やはりそれはとうさんの空想ではなく 本当に人の姿に見えていたのだと思うようになりました
 この世は謎だらけです メルキアデスさんからの知識でわたしは賢くなったつもりでしたが まだまだです」。
 メルキアデスはそこまで言うとため息をついて自分も水を一口飲むのでした。
第八章その八
 竜亀はあっけにとられました。
 すべて竜宮のことは自分の空想だとアルファも妻のベアトリスも思っていたということを知って、竜亀は愕然としました。
 そうすると月兎も全て空想になるのかとも思いました。
 メルキアデスもためいきをついたまま、
「そうだったのですか どちらが本当かますますわからない 次を読みますよ」と言って続けました。
「真実はいくつもあるのかもしれない あるいはひとつかも でもそこには多くの謎があり また学ぶべきことがあります メルキアデスさんから学ぶ知識も大切ですが それより自分の目で見て感じ考えるという体験も必要だと思っていました わたしはとうさんのように海の世界をもっともっと知って 知識ではなくとうさんのように自分で考え感じる心をもっと豊かにしたいと思います そして何かをつかんだらいつか必ず戻ってきます だからわたしが居なくなっても とうさんはいつまでもここに居てもいいですよ それからゼリアに必ず戻ってくるからと伝えてください メルキアデスさんとうさんを頼みます とうさん いつかまたどこかで出会うかも知れません あるいはもう二度と会えないかも知れません とうさんもお元気で」。
「これで終わりです」と言ってメルキアデスは文字の書かれたパピルスを竜亀に差し出しました。
 竜亀は文字をまったく読めないのに呆然とその文字を見つめていました。
 しばらくして我に返ると、
「アルファとベアトリスがそんなふうに思っていたなんて いや亀や魚が人に変わるはずがない やはり玉の光のせいで幻を見ていただけなのかも」とつぶやきました。
 メルキアデスは、「竜亀様 わたしはどちらも真実だと思います」と言うと黙って立ち上がり奥の作業台のレンズ台の前に座るのでした。その後、竜亀はぼんやりと数日間、その洞窟で考えごとをしながら過ごしました。
 そしてゼリアが洞窟に現れたときにはそのパピルスを見せるのでした。ゼリアは少し涙を浮かべて、「これも何かの運命です わたしはいつまでもアルファさんを待ちます 竜亀様 心配なさらないでください」と言いました。
 竜亀は少し安心して、「アルファはまじめだから 帰ってくるのはいつになるのかわからないが 必ず帰ってくるよ」と言いました。
 その後も竜亀はメルキアデスの仕事ぶりを、テーブルに座りながらぼんやりと眺めながら過ごしました。
 メルキアデスも竜亀のことを気にして夜には酒に誘い、一緒に飲み交わすのでした。でも竜亀は何も言わず黙ったまま何かを思いつめて深く考え事をしているようでした。
 数日後、洞窟に朝の光が射し込んでくると竜亀はメルキアデスに会うなり、「おはようメルキアデスさん わたしは決心したよ」と言うのでした。
第八章その九
 竜亀は、「メルキアデスさん わたしは決心しました わたしはここに残って人の世界のことを学びたい どうか教えてください」と言いました。
 メルキアデスは、「アルファ様が居なくなったのでどうしようかと考えていました 近くの島の人々も神亀様が居ないとなると変に思うでしょう アルファ様が戻られるまでぜひともここに居てください」と言うと、
「そうなら しばらく神亀の代わりをしよう でもこのあご髭は切らなくてはいけないなあ」と竜亀が返事しました。
 メルキアデスが、「それはどうかわたしに切らせてください 髭入りの薬酒を造りたいと思います」と笑って言うと竜亀は、「名案だ いいとも アハハ」と笑うのでした。
 そうしてその日から竜亀はメルキアデスを先生として毎日学び始めるのでした。
 最初は文字の読み書きから始めるのでした。メルキアデスもまた竜亀の海の知識を聞き取りながらパピルスに記すのでした。
 そうして竜亀は生まれて初めて自ら学ぶということを始めたのでした。
 決して頭は賢いほうではなかったのですが、持ち前のがまん強さと好奇心でメルキアデスの知識をどんどん吸収していきました。
 また文字を覚えると書棚の書物も自ら読むようになりました。メルキアデスは竜亀から話を聞き取りながら海の生き物の図鑑や海流の海図などを書き記し、海の方から見える海岸の様子や海岸線なども描き、それらを組みあわせてとうとう世界地図を作ったのでした。
 ただその世界地図は陸地が空白で海岸線を繋ぎあわせただけのものでした。
 メルキアデスは人の作った陸地の世界地図とを合わせて最後には地球全体の地図である地球儀を完成させたのでした。
 竜亀は最初から人の言葉は多くの土地の言葉を理解できたので、さらにその土地の文字も学んだのでした。また海の生き物の名もなぜか全て知っていました。
 メルキアデスもふしぎがり竜亀の意識の底はまるで深い海のようだとも思うのでした。
 そうしてメルキアデスと竜亀はお互いの知識を分け与え、夜には酒を飲みながら語り合う日々を暮らすうち、いつのまにか二十年という年月が経ってしまいました。
 メルキアデスの髪の毛もあご髭もすっかり白くなりました。でもアルファは戻ってきませんでした。
 竜亀はメルキアデスの部屋にいる時は、甲羅を脱いで立って過ごすうち、すっかりそうすることに慣れてしまい、いつしか歩く姿はまるで人と変わらなくなりました。
 また足や手も人と変わらなくなり、不思議なことには顔も人のようになりました。
 メルキアデスもときどき竜亀が亀だということを忘れることさえあるのでした。
第八章その十
 ある日の朝のこと、メルキアデスは、「竜亀様 わたしはあなたに教えることはもうありません 知識を増やすには人の世界に行くしかありません」と言うと竜亀は、
「わたしも同じ意見です われわれには新しい知識が必要です」と言いました。
 ゼリアがちょうどやってきて、
「メルキアデス様と竜亀様 近くの海で金顎のカジキさんから伝えるように頼まれました 陸の竜宮の近くでアルファ様と出会ったそうです そろそろこの島に帰ってくるとのことです」とうれしそうに言うのでした。
 竜亀は、
「では わたしたちもここを去る時がいよいよ来たようだな ところでメルキアデスさん わたしの甲羅の粉で酒を造ってください あなたともう一度千年後に会うような気がするのだ あなたもそれを飲んでそれまで生きていて欲しいのです」と言いました。
 メルキアデスは、
「不死という困難を今は引き受ける覚悟もあります またその酒は何か他の役に立つかもしれません」と言うと、竜亀の甲羅を水晶で削り新しい酒の入った黄金の小さな瓶に入れました。
 竜亀は、
「ゼリアさん 息子のアルファをよろしく わたしたちはここを去ります」と言うと、ゼリアは恥ずかしそうに、
「こちらこそよろしく メルキアデス様 竜亀様 お元気で」と言うのでした。
 メルキアデスは、
「ところで竜亀様 あなたの甲羅の秘密がようやく解りかけてきました 甲羅の中の宝玉の時を越えた力が原因ですね」
 と言うと竜亀は、
「わたしも同じ考えだ ところでこうしてわれわれが出会ったのだから あなたにも未来に何かの使命があるのだ 単純に長生きするというのではないのだ さてアルファが来る前にわたしたちは行くとするかわたしの背に乗っておくれ 西の大きな陸地まで送っていくよ」と言って、ゼリアに別れを告げ、メルキアデスを載せてその島を去ったのでした。
 そうして何日もかかって大きな陸の海岸につき、砂浜にあがるとメルキアデスは腰の黄金の瓶を取り出して中の酒を一口おいしそうに飲むと、「さあ これで怖いものなしだ 竜亀様 きっと千年後の未来でお会いましょう」と言って崖を登り森の奥に消えて行きました。
 竜亀は、『さて わたしもそろそろ竜宮に行くとするか アルファが言っていたとおり竜宮は幻かもしれないな そういえば 今夜は満月だな 月の兎は今日のことも予知しているのだろうな そうであればそうでよし でも久しぶりに甲羅を背負うとやけに重たい おや 足が以前の亀らしい姿になってきた 顔も亀らしくなったのかな』と心でつぶやき、今度は北の海へと進んでいくのでした。