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「月兎と竜宮亀の物語Ⅱ永遠編」第一章亀島

第一章その一
 竜亀は海面に出ると無心に泳ぎはじめました。しばらくして、なんだか心に大きな空洞をかかえたような気持ちになりその空虚感でとても耐え切れなくなりふと大空を眺めました。その海の上に広がる大きな空の色を見て竜亀は、『なんと美しい青だ』と思いました。いままで数えきれないほど空を見てきたはずなのに、こんなにも青色が美しく見えたことはありませんでした。その美しさにまたしても涙があふれてきて瞼の裏には青い光がにじみ、竜亀は思わず嗚咽するのでした。竜亀は、『私の心がきっと青色をこんなにも美しく見させるのだろうか 悲しい心が青に癒されているのだろうか』と思い、そう考えるとなおさら涙を止めることができませんでした。
 そうして空と海と太陽以外は何もない世界をひたすら泳ぎ続けました。まるで過去を忘れるために、追いかけてくる記憶のすべてを振り切るかのように、昼も夜も泳ぎつづけるのでした。そうして何日かして竜亀はようやく自分が何のために泳いでいるのかと思いました。『そうだ 私は亀島に向かっているのだ まず亀島に行くのだ この方向でよかったのかな』と思い直し太陽の位置を確認して再び泳ぐのでした。途中、空の彼方から響くような低い音がすると空全体がその音で満たされました。
 竜亀は、『何だろう』と空を見上げると、渡り鳥の飛ぶ高さよりも、はるか高くを小さなカモメのような形をした黒い物が白い雲を背後に引きながらゆっくりと動くのが見えました。「あれは何と言う名なのか知らないが どうやら人があの中にいるのだ 信じられない 人が空を飛ぶなんて」と独り言を言うのでした。また以前には見たこともない大きな船がゆっくりと進んでいくのに出会いました。甲板には誰もいず、その船体の横は赤と黒で上下に塗り分けられていました。横顔の女性の図があり、APOLLOという文字が見えました。竜亀はその文字を見て、『ギリシア神話の神様の船かな まさか これは<時空(とき)と予知の泉>で見たこことがある これはおおきな大陸の地下からくみ上げた黒い燃える水を運んでいるのだ それにしても あの大きな船の倉庫の全部が燃える水で満たされているとは なんて大量なのだ』と感心するのでした。
 そうして1000年前とは海の様子が全く違うことを実感すると、竜亀はこれから予想もしない出来事が起きると、予兆のように感じるのでした。そして、『私はいままで自分のことで悲しくていっぱい涙を流してきた しかしこれからは自分のことで涙を流すことはないだろうな もう自分の分の涙の涙腺の泉は枯れてしまったからだでも涙もろい自分の性格は変わらないか だからきっと人や他のことのために泣くことはあるかもしれない ああ 出来ればあまり泣きたくないな』。
 そんなことを思いながら泳ぎ続け、1000年前に来たことがある島に、かつて亀島と呼ばれ100年前までは死者の島と呼び名され今はその名も忘れ去られ名もない岩だらけの島にやってきたのでした。

第一章その二
 竜亀はかつての亀島のある場所にきて、最初は別の島ではないかと思いました。でも<時空と予知の泉>から見た島の光景を思い出して、別の大きな穴を見て、風葬に使われた洞窟だとわかると、まずそこを見てみようとぶら下がった縄梯子を上ることに決めました。
 縄梯子は長く使われていなく風化していまにも千切れそうでしたが、なんとか登り洞窟に入りました。洞窟は土色の壷が雑然と並べられて、多くは破損して風化した人の骨がはみ出ていました。骨は少なく竜亀は、『長い年月とこの海風で骨は砕けて砂のようになり風に飛ばされたのかな』と思いました。
 竜亀は入り口に戻ると足の指で岩の凸凹をつかみながら横へ回り込み、昔よく昼寝をした平らな岩から岩壁を伝わって島の頂上にたどりつきました。そうして階段を降りて穴の入り口にたどりつきました。入り口は小さな石が積み重なり外からは洞窟があるようには見えません。竜亀は石をどかして穴を開けると中に入りました。中は薄暗く湿った空気の匂いがしました。
 竜亀は、「三郎蜘蛛さんはいますか 竜亀です」と声をかけたのですが返事がありません。竜亀は1000年前とおそらく変わっていないだろうと思われる部屋を懐かしく感じて甲羅を脱いで座り込みました。竜亀は甲羅を脱いだほうが今は居心地がよかったのでした。自分でも、『亀だからといって甲羅にこだわるのも考え物だ もう私には甲羅は必要ないのかもしれない それにどうせ人の世に行くのだから でもこの顔や足はまだ亀そのものだ 人の世界に行ったら変に思われる』と、ひとり苦笑したのでした。竜亀は疲れもあって横になると甲羅を枕に眠ろうと思いました。
 しかし目を閉じても眠れません。竜亀は過去のことを薄暗い洞窟の岩の天井を眺めながら思い浮かべました。竜宮のことやいろんな出来事や浦島太郎に出会った時のことやそれ以前の海での思い出やそして卵が割れて海にでた最初の頃や陸の竜宮で転がされていた頃の織姫魚の歌声や友の声のことも思い出しました。
 そうしていつしか気づかないうちに竜亀は眠りについて夢を見ていました。
 その夢の中では自分が別の魚の姿になり、しまいには小さな生き物の姿になって真っ白な海を泳いでいるのです。
 自分が点のような小さな存在になったかと思うと、再び別の魚になって青い海の中を泳ぎ続けていると足が生えてきて終には陸に上がって亀のように歩きまわり最後には立ち上がり陸地を歩いているのです。
 竜亀は心臓が苦しくなって自分の体から脱け出したくなり、思いきって自分の体から脱け出し中空から自分の体を眺めました。
 そこには亀の自分の姿はなく、代わりに人が寝ていました。横に脱いだはずの甲羅もありません 。
 どういうことかと驚いた瞬間、竜亀の心はその人の体に吸い込まれそうになりました。

第一章その三
 昔々、竜島や日回りのマンボウの島と言われ、陸の竜宮の島とも言われたその島は、かつてあんなに豊かだった森の樹木は現在では一本も無く、島全体は草原でおおわれ、コスモスがいたるところに群生しているのでした。そして地図からも意図的に抹消されていました。その細長い島の北の岬に、一艘のボートがやってきました。ボートには二人の人が乗っていました。
 ひとりの若い女性に向かってもう一人の軍服の男性は、「放射能測定値が限度を超える場所には近づかないようにしてください では三時間後に迎えにきます もしもの時は携帯で連絡をください」と言って、沖の母船のほうに去っていきました。
 その若い女性は古代文明を研究する考古学者でした。
 数十年前に近くで水爆実験が行われ今も無人のこの島の巨像の伝説と500年前に住んでいた古老の談話の記録を読んで非常な興味をもち、管理所有する国家の立ち入り調査の許可を得て上陸したのでした。女性はかつて存在した巨像の台座の石に刻まれた不思議な文字を見ながら台座の背後から島の中央へ細い石の階段が続いていることに気がつきました。
『この島はかつて陸の竜宮の島といわれたそうだけど あの列島の竜宮城の伝説と関係があるのかしら 南の建造物はもうほとんど崩れて跡形もないけれど この北にある何かの台座部分はなんと丈夫にできているのか とても1000年以上も経っているとは思えないわ それに この大きな台座の上には何があったのかしら 伝説のロドスの巨像のようなものかしら』と心でつぶやきながら石の階段を進んでいくのでした。
 山の中腹までその石段はつづいており、最後に石の扉がありました。扉は少し開いており彼女は驚いて中を懐中電灯で照らして中にはいりました。そこは奥まで続くトンネルでした。人が作ったもののようでした。人一人がやっと通るトンネルを歩いていくと、やがて天井が高くなり、そこは自然によってできた洞窟でした。天井には無数のコウモリがぶらさがっていました。そして洞窟の片方の壁に多くの絵
や文字の痕跡があることに驚きました。しかし多くは人為的に消されたり削りとられたりしてほとんど跡形もありません。彼女はそれらのうち残されうっすらと分かる部分をデジタルカメラで撮影して、下に散乱している色のついた岩石の粉末を腰のバックから取り出したプラスチックのケースに入れると再び進んでいきました。前方に明かりが見え、そこが洞窟のもうひとつの入り口でした。
 彼女は山の中腹の洞窟の入り口から下に広がる光景をみて驚きました。まるで古代の遺跡のような風景がひろがっていたのでした。
 そして広場の中央には円形の泉がありそこに水があるのが太陽の光に反射してキラキラと輝くことでわかりました。同時に泉の横に二人の人がいるのを見て驚きました。『あんなところで何をしているのだろう』と、彼女は急ぎ足でその泉へと、道なき山道を降りていくのでした。

第一章その四
 近づくと白い髭を生やした老人と顔全体に白色の布を巻いた男性でした。老人は白い服装の質素な身なりでしたがもうひとりの男性はほとんど裸で白い下着のようなものをまとっているだけでした。女性は、「ここは立ち入り禁止ですよ 一般人は上陸出来ません」と自分のことも簡単に言って問いかけました。老人は、「以前に私の先祖がここに住んでいたので息子に見せたくてここに来たのです 立ち入り禁止で危険だということは承知しています 息子は病気なのです でも古代遺跡に興味があって 一度来たいというので でも疲れたのでこの泉で休んでいるのです」と言うと男性を立たせて、背中に背負って去っていきました。女性は、『どうしようか』と考えましたが報告すると面倒なことになると見過ごしたのです。その老人と男性が立ち去って草むらへと消えた後に、「ああ 彼がそうなのか」という声を出してその老人たちのあとを追いかけましたが、その老人ともうひとりの人はもう姿を消していました。あきらめて泉のところに戻ると自分の茶色い革のショルダーバックから黒く光る玉を取り出しじっと見つめるとふたたび鞄にしまいこむのでした。その玉は彼女の家の家宝で肌身離さず持ち歩いていたのでした。一方、追いかけてくるその女性に気がついてすばやく草陰へと身を隠した二人はうずくまり、彼女が自分たちを見失って泉のところに戻ると、草むらの茂みからそっと観察するのでした。彼女が鞄から黒い玉を取り出したとき、その老人は眼を疑いました。そうして小さくつぶやきました。
「あの玉はもしやクレオパトラの魂が宿る黒玉ではないか そうすると彼女はシーラではないか なぜこんなところに来たのだ」。
 老人はメルキアデスでした。メルキアデスはその年齢のわからない顔に布を巻いた人を背負ったまま、草原を抜けると高い海岸の絶壁の真下に開けられた小さな洞穴にまで運び、中へ入っていきました。そこは粗末な住居というよりほとんど何もない小屋そのもので、木のベッドがあるだけでした。メルキアデスはその人を支えながら横に寝かせるのでした。そして顔の布を解き、棚から薬箱を取り出して顔に薬を塗ると新しい包帯を取り出して巻きつけるのでした。メルキアデスはその人に向かって言いました。「お待ちしておりました 私 いや私たちは長い間 貴方がこの島に来られるのをお待ちしていたのですよ でも貴方の顔がこんな様だとは いや失礼 でもどうしてこんなことに いや 貴方は声もきっと出ないのでしょうね さきほどからうめき声さえ聞こえないし それに眼も見えないのですね それでは私の声は聞こえますか」。
 その人はしばらく不動でしたがやおらおおきくうなずくのでした。
 メルキアデスはそれに気がつくと安心したように、「私の声が聞こえ理解できるのですね ああよかった」と言うと、そっとベッドの横に座りなおすと自分もまた疲れたのか横になり眠りにつくのでした。

第一章その五
 吸い込まれていきながら、このまま全て吸い込まれたら自分が自分でなくなってしまうと恐怖したのです。でもとうとう自分の体だけ吸い込まれて、心だけ空中に取り残されてしまいました。おまけに目も奪われて、自分という魂だけが取り残されてふわふわと漂っているのでした。竜亀はハッとして目を開け上半身をおこしました。横の甲羅をさがしましたがありません。その時、洞窟の天井から懐かしい声が聞こえてきました。
「誰だい こんなところに人が来てはだめだ」。竜亀は驚いてその声の方を見上げました。岩の天井に逆さになって8本の脚でつかまっている大きな蜘蛛でした。竜亀は、「三郎蜘蛛さんじゃないか ひさしぶりだね 元気かね」と言いました。蜘蛛はびっくりしたのか岩の地面に飛び降りると、地面から上半身だけ起きあがった竜亀の顔を見上げてきょとんとしていました。しばらくして、「俺様の名前を知っているとはお前は一体何者だね 人で俺様の名前を呼べるのは亡くなった次郎さんだけだ」と言うと、竜亀は自分が人と言われたことに、変な気分になりながらも、「三郎さんよ 私は竜亀だよ 忘れたのかい 1000年前 ここに再び来ると約束したじゃないか」と言うと、三郎蜘蛛は怪訝とも驚きともとれる表情で、「竜亀という亀に大昔にそんな約束をしたことははっきりと憶えている 今はその時から1000年経ったのかい でもお前は人だよ 俺は亀と約束した憶えはあるけど 人間とそんな約束した憶えはないぜ」と言うと、それを聞いた竜亀は、「ええ 私が人だって 三郎蜘蛛さんも冗談が好きだね」と言うと自分で立ち上がりました。竜亀は自分が立ち上がってしまってから、『おや どうしたことだ 亀なのに立ち上がるなんて まして甲羅の重さも感じなく やけに背筋がすっきりとしているでは』と自分のお腹を見ました。甲羅がなく竜宮で人になったときの白い衣の姿そのままでした。
 竜亀はそのとき自分がまだ竜宮にいて泉の横に竜宮姫がいるのでないかとあたりを眺めましたが、そうではありません。
 ようやく自分が人の姿に変身していることを確信して動揺しながらも、「三郎蜘蛛さんや 私は竜亀だよ ここで亀の姿で眠っていたら いつのまにか人になってしまった アハハ」と照れながら言うのでした。三郎蜘蛛はそれでもなんだか納得が行かない様子で黙っていると、それを察して竜亀は、「1000年前の約束を憶えているかい 次郎さんが亡くなったとき 再び三郎さんの唄を聞かせてもらう約束だったよね」と言うと、それを聞いた三郎蜘蛛はみるみる目に涙をあふれさせ、「本当に竜亀さんなのだね あれから本当に1000年経ったのだね それが今日なのかい」と言ってそのまま竜亀を見上げたまま、なお涙をあふれさすのでした。竜亀もやはり涙ぐむのでした。
 そして、『私はもう二度と泣かないつもりだったけど さっそく泣いてしまったな でもいいか 三郎蜘蛛さんの涙のもらい泣きだからな』と思うのでした。

第一章その六
 竜亀は三郎蜘蛛に向かって、「この島も変わったね 真ん中には大きな穴が空いて 人が出入りしているじゃないか」と言うと、三郎蜘蛛は涙をこらえながら、「人が出入りして ときどき死人を運び入れていたのだ そんなこともしなくなってだいぶ経つけど 死体も風にさらされて骨だけになって 壷に入れられた骨も海風に吹かれてどこかへ飛んでいってしまうのだ 蝿もやってくる 俺も蝿取り蜘蛛だけど いまさら蝿も食べないので 下の洞窟には行かない ところで竜亀さんや 約束どおり貴方はやってきたけど まさか俺の歌を聴くためにこうしてここに来たわけでもないでしょう 長いあいだ気がかりだったので教えてくれないかい」と言うので、竜亀は1000年前の満月の夜の月兎のことやその後に起きたことなどを語るのでした。
 三郎蜘蛛は、「そんなことがあったのかい それで竜亀さんはこうしていま人になったのですね」と言うと、竜亀は首をかしげて、「どうも釈然としないのだ 竜宮にいるときも人の姿だし 心も以前のままだけど 本当に今は人なのかと思う 私は以前と変わらないし やはり亀の私だし 私という亀でもあるし 鏡を見たことがないので 三郎蜘蛛さんや 私はやはり人に見えるのかな」と聞くと三郎蜘蛛はもう一度天井へとよじのぼり、天井から糸を垂らして逆さになってぶら下がり竜亀を見るのでした。「うん 竜亀さんはどう見ても人だよ 人が見てまさか貴方が亀とは思わないよ でもたとえばこのあたりに住む島の人のようにも見えないなあ どこか遠いところからやってきた人みたいだ」と言うので竜亀は、「へえ そうなのか 竜宮にいるときも自分の顔がどんなのかよく知らない 泉に映る顔も水面の揺らめきでよくわからなかったしね 竜宮と同じ顔なのかな といっても三郎ちゃんにはわからないし」と言い、「ところで私はいい男かね」と何気なく聞きました。三郎蜘蛛は、「次郎さんに似てなくもない 次郎さんほどいい男じゃない」と申し訳なさそうに言うので、竜亀は浦島次郎が若いときはとても美男子だったろうと想像していたので内心は安心して、「次郎さんには負けるのかい それは残念だな アハハ」と笑うと、三郎蜘蛛は浦島次郎のことを思い出したのか再び涙ぐんで、「竜亀さんも 次郎ちゃんには負けるのだね アハハ」と笑うのでした。
 三郎蜘蛛は天井の岩の隙間から垂れる水を溜めた甕の水をすすめると、竜亀は手ですくい美味しそうに飲むのでした。そうして三郎蜘蛛と竜亀はなつかしそうに多くのことを話し合い、気分よくなった三郎蜘蛛は1000年前の時とおなじように緑色の甕の縁に乗ってイチジクの枝の弓を弾きながら唄を歌うのでした。
 その美しい調べと歌声が洞窟に響きわたっているその最中、もうひとつの入り口をふさいでいる石がごろごろと動かすような音がしました。
 そして洞窟の入り口の石はすべて海中に投げ落とされ、黒い影のように浮かびあがって見えたのはひとりの人の姿でした。

第一章その七
 そこに人影が浮かびました。竜亀には光がまぶしくて影の輪郭だけが見えました。その人は洞窟の中へゆっくりと進むと佇んでいる竜亀に向かってこう言いました。
「貴方は竜宮の亀さんですか」。
 竜亀は驚いて、「ええ 私は竜宮の亀だけど」と言いつつ自分でも奇妙な思いにとらわれ、お腹で笑いながら思いました。『私はいま人のはずなのに いきなり現れた本物の人間に 貴方は亀ですかと聞かれるとは』と。
 その人は続けて言いました。「やはり竜宮の亀さんですか」と言って背中のリュックを下ろして、服の汚れを払うような仕草をして、竜亀に向かってふたたび言いました。「驚かせて失礼しました はじめまして 私はケントと言います」。その人物はまだ若く20歳くらいに見えました。
 竜亀はなにがなんだかわからず、「私のことを知っているとは奇妙だね 世界中で今 私のことがわかるのはひとりしかいないはずだが」と言うとケントは、「私はある人に頼まれてここにやってきたのです いま貴方のことを竜宮の亀と言ってしまいましたが あだ名ではないのですか まさか貴方が亀であるはずがないし それにその服装は白っぽくて 奇妙なファッションですね いやまず私が頼まれたのは貴方のために服を用意して持ってきたのです」と笑みを浮かべながら言うとリュックを降ろし、中から服やサンダルを取りだしました。竜亀はあっけにとられ、『服を用意するのは月兎のはず いや姫様は竜宮にいるのでは用意できない 誰か人に頼んだのか まさかメルキアデスさんに頼んだのか』と思いつつケントの差し出す服を言われるままに着るのでした。
 竜亀は服を着るという動作が生まれて初めてなのでどうしていいか分からず四苦八苦していると、ケントはそれを見かねて手伝うのでした。そしてサンダルも履くと竜亀は自分の格好がどんなものかと気にしていると、ケントは小さな鏡と櫛を取り出し竜亀に差し出すのでした。竜亀はなんのことかわからず鏡で自分の顔を見ました。
 生まれてはじめてはっきりと見る人の自分の顔でした。いつまでも竜亀が自分の顔ばかり見つめているのでケントは竜亀を振り返らすと櫛を取り上げて、竜亀の乱れた髪の毛を梳くのでした。
 竜亀はされるままにしていましたが、ちょうど天井からぶら下がる三郎蜘蛛と眼が合ったので、軽く片目をウインクしました。すると三郎蜘蛛はスルスルと天井にもどり姿をかくしました。
 そうして乱れた髪をきれいに梳き終わると、ケントは竜亀の前にまわって言いました。
「私は貴方に服を用意してある所へ案内するように頼まれたのです 貴方もこれから予定がおありでしょうけれど 多分 時間はまだあるはずなので 私と一緒に来ていただけますか でもひとつだけ教えてください 貴方を何と呼べばいいのでしょうか 今後貴方のことを竜宮の亀さんと言うわけにもいかないので」と。

第一章その八
 竜亀は自分の名が無いことをあらためて思いました。
『さてどうしたものか 人の世界でこれから私が使う名か そんなこと想像もしなかったな 竜宮で考えておけばよかった でももう遅い では適当な名を今考えなくては』と思いながら、とっさにメルキアデスから最初に教えてもらった古代ギリシア哲学のターレスという名が浮かびました。竜亀は、「ではターレスという名にしてくれるかな」と言うとケントは、「ターレスですか 奇妙な名ですね では今後 貴方をターレスさんとお呼びします でもあとでお知らせしますが私たちが用意した名前もあるので それはそれであとで必要になります」と言うのでした。竜亀は、『なんという手際の良さだ 服を用意するかと思えば名前までも でも誰の指図なのだろうか』と感心するのでした。
 ケントは、「さっそく貴方を案内したいところがあります 島の下にボートを寄せています 私はこの島の絶壁を素手で登ったのですよ さてどうして降りるかな でも貴方はどのようにしてここまで来られたのですか」と聞くので、「いま貴方が来られた反対側からですよ」と言ってケントを反対の入り口から階段を使って島の頂上まで案内し、岩を伝って平らな岩に降り、そこから再び岩伝いに風葬の場所へたどりつくと縄梯子を伝って降りていきました。そうしてちょうど真下のボートにたどりついたのでした。そうしてボートに乗り込んだ竜亀はケントが操縦するボートに乗って、沖合に停泊している大きなクルーザーに向かったのでした。
 そこには船長はじめ数名の乗組員がいました。ボートをクルーザーの船腹に機械で吊り上げました。ケントは竜亀を船室に案内すると乗員にお酒や食事を用意させ竜亀に差し出すのでした。竜亀は人の食事はメルキアデスとの生活のとき以来だったので、喜んで食べるとその美味しさに驚くのでした。
 と同時に、『人の食事がこんなに美味しいものだったとは いや私が本当の人になったので美味しく感じるのだろうか』と感激するのでした。でも実際にはそこに出されたものはフランスパンとチーズとイチジクと葡萄酒だけの簡単なものでした。
 しかし竜亀の好みをまるで知っているかのような食事であることに竜亀は気がつきませんでした。クルーザーはものすごい速さで進みました。船は船底に翼がついており速度を上げると船体が空中に浮かび上がり、ますます速く飛ぶように進んでいくのでした。竜亀はむかし金顎のカジキの背に乗って海を飛び魚のごとく海面を滑ったことを思い出しながらも、その時よりも速いと感じて、『人は空を飛ぶかと思えば 海もこんなに速く進むとは これじゃ金顎のカジキさんの出番がなくなる 彼も人の世界に行ってよかったのだ 私も人の世界に来てよかった』とのんきなことを考えるのでした。
 それくらい竜亀は人の世界に来たことに有頂天になっていたのでした。

第一章その九
 大きな港で下船すると、一台の黒い車が岸壁に寄せていました。竜亀とケントはその車に乗ると車はすごい速さで町中を進んでいくのでした。竜亀は窓の外の人の世界に見とれていました。おびただしい高層ビルやその向こうに見える遠くの山や道路を走る多くの車にぼうぜんと見とれていました。ある場所で車が停まると隣に座ったケントは窓の外ばかり見ていた竜亀の腕の服の袖を軽くひっぱり言いました。「ここで下車して 貴方がこの世界で生活するために最低必要なものを用意します ではこれからは貴方をターレスさんとお呼びします」と言って町中の路地に入って行くと、竜亀を小さな店に案内しました。店の中に入ると店の人はさらに奥の扉へと案内し中に入ると、なにやら多くの機械に囲まれて眼鏡の老人がいました。
 老人は、「お待ちしていました この人ですね」と言うと竜亀を奥の椅子に座らせカメラで写真を撮りました。そして指紋も採るのでした。そうしてパソコンに向かいました。
 竜亀はそうしたことをされるままにして事態がどう進んでいくのか興味と驚きをもって見ていました。しばらくすると老人は、「ケント様 終わりました」と言っていくつかの書類を差しだし、また小さな革ケースや財布なども渡すのでした。小さな革ケースには何枚かのカードがあり、その中の一枚が竜亀の身分証明書でした。身分証明書やカードにはターレス・オルペウスと記されていました。人の世界での竜亀の人の名前でした。
 竜亀は苦笑して、『オルペウスはメルキアデスさんが考えたに違いない』と思いました。
 そうしてふたたび二人は車に乗り込み飛行場へと急ぐのでした。車の中でケントは身分証明書やさまざまなカードを見せて使い方を丁寧に説明するのでした。まるで母親が何も知らない子どもに教えるように。ケントは飛行機の中でもまるで教師が生徒に教えるようにいろいろと説明しながら親切に伝えるのでした。竜亀は、『まるで私が人の世界をまったく知らないかのよう教えてくれる たぶん私がどこか孤島で何十年も暮らしていたと思っているのかな』と想像するのでした。竜亀は竜宮にいたとき地上の世界を<時空と予知の泉>から見ていたので窓から見る下界はすべて見覚えがありました。地球のどのあたりを飛行しているかもわかりました。
 そうしてふたりはヨーロッパの大きな飛行場に到着しました。ジェット機から降りるとまたしても黒い車が待っていました。竜亀は飛行場に駐車している他の車と比べてその車が立派に見えることに感心してケントと乗り込むのでした。車はものすごいスピードで高速道路を進むと途中でわき道を進み広大な敷地に入っていきました。
 そこは古城のような大きな屋敷でした。車が屋敷に到着すると執事が出迎え、「ケント様 お父様がお待ちかねです」と言いました。
 ケントは、「ターレスさん 僕はここで待ちます」と言うと自分の部屋に入っていきました。

第一章その十
 竜亀が執事に案内されて入った部屋には50歳ほどの人がいました。その人は竜亀にむかって、「長い間 貴方がこの世界に現れるのをお待ちしていました 私の父を紹介します」と言いました。部屋のドアを開けて竜亀を手招きして竜亀だけを部屋に入れました。窓辺で大きなソファーに座っていた老人は立ち上がると竜亀を横の椅子に座るようすすめました。その老人は白髪の90歳ほどの年齢でした。老人も竜亀と向かい合うようにテーブルを挟んで椅子に座るとじっと竜亀を眺めて言いました。「貴方が竜宮の亀という人なのですか」と問いかけるような言い方をしました。竜亀は、「ええ 私が竜宮の亀です 今は人ですけど 心は以前の亀のままです」と微笑んで言いました。老人は疑いの表情をうかべて困ったように言いました。「貴方がかつて竜宮の亀であったことを証明できますか」と言うので竜亀は、『さて困ったな 私が以前には亀だったという証拠か』と思いながら少し考えて、「貴方がもしも私について知っていることがあるのなら何でも質問してください それ以外には証明しようがありません」と言いました。
 老人は、「では昔のことを聞いてもよろしいですか およそ1000年前に 海鳥と毒蛇しかいない島に寄られたことはありますか」と言いました。竜亀はしばらく考えて、「皮膚が病んだ人々が暮らす小さな島ですね」と答えました。老人の目がぱっと輝き、「そこでひとりの青年を背に載せて島を離れませんでしたか」と言いました。
 竜亀は、「ええ たしかゼットという青年を近くの陸地に運んで別れたのだ」と言いました。
 その言葉を聞くと老人はみるみる涙を浮かべて、「ああ 竜亀様 貴方なのですね そうしていまや人になられたのですね」と言うとその部屋の小さな隠しドアを開けて中に消えていきました。しばらくして再びドアが開いてさきほどとは別の顔をした老人が出てきました。先ほどの老人より若い人でした。そして涙を浮かべたまま、「竜亀様 私がわかりますか ゼットですよ」と竜亀に歩みよるのでした。竜亀は、ゼットという青年を思い出しましたが覚えているのはゼットが青年の時の顔だけだったので、「ゼットと別れたのはゼットがもっと若者の時だ 逆に貴方がゼットだということの証明はできるのかね」と言いました。ゼットはそこで海賊に竜亀が捕まって食べられそうになったことやクレオパトラの魂のはいった黒い玉のことなどを話すのでした。
 竜亀はゼットと名乗る老人の顔をまじまじと見ました。でもゼットの顔をはっきりと思い出すことができなかったので判別しようがありません。でも竜亀はその老人がゼットしか知りえないことを知っているので納得しながらも再び聞きました。
「たしかに貴方はゼットのようだ でも私はどうも事情が飲みこめない 貴方が黒い玉を持って陸地に行ってしまってからの貴方のことを話して聞かせてくれないかね」と言いました。