ガチンコで文章書いてみました。
はじめにーー長いよ。3,318文字
52年生きてれば色々な人との出会いがある。
それを人は縁という。
目には見えないものであるが、人との出会いや関わりの中で感じる直感力。出会うべくして出会ったかのような錯覚。
その縁が、人生を大きく変えるものであれば、偶然を超えた必然のように感じてしまうのも当然だ。
その引き寄せられる感覚を時に人は「運命」などと言う言葉で表現することがあり、その直感力や錯覚が異性の場合には「素敵な勘違い」として揶揄されることもある。
それは「恋愛感情」による盲目が原因であり、取るに足らない細事だが当の本人は必死である。しかし今日は恋の話しではない。
引き寄せの法則というものがある。
ホームレス同士でコミュニティを形成したり、金持ちは金持ち同士で趣味やゴルフを楽しみ、高額投資の情報交換などを行う。
つまり、わかりやすく言えば、年収一千万の管理職と、年収二百万の末端労働者が交わることは、ごく一部の例外を除けば皆無と言っていい。類は類を呼ぶとはよく言ったものだ。この場を借りて先人の知恵に感謝しよう。
それはさておき、可視化されていないヒエラルキーにおいて現代の日本には確かな序列が存在している。
例えば、コンビニから出てきた女性がアルファードに乗り込む。そのシーンを見ただけで、自分の社会における立ち位置というものを心に刻んでしまう瞬間がある。
また、会社の同僚が外食の話で盛り上がる。ロイヤルホストにすら行ったことない人は会話に混ざることもできない。
しかし、そのような環境で生きていく中でも、必ず自分の人生にとって、有用な出会いというものが必ずある。まぁ、人との縁を生かすか殺すかは、その人自身によるわけだが。
今はSNSが発達した時代であることは衆目の知るところであろう。腰を上げ部屋から出る必要もなければ、顔を付き合わせる必要もない。そしてSNSでの交流は、なにも言葉やメッセージだけではない。多くの人が何気にポチる「いいね」やフォローによって可視化または数値化された情報は立派な意思の伝達方法であり、相手からの肯定的な意思表示として受け取ることができる。
時には忖度でポチることもあるかもしれない。内容が琴線に少しでも触れればポチることもままあるだろう。さらにアバターやプロフィールを見て女性であると妄想するならば尚更だ。深い考察を入れると一冊の本になってしまうので、そこは割愛する。
いよいよ本題に入るのだが、このnoteにおいて私は最初違和感を感じていた。つまり私が属すべき価値のあるプラットフォームであるのか。私と同じ波動を持った人たちで形成されたプラットフォームであるのか。学びの機会を与えてくれるのか。私の人生にとって有益か。一事が万事、深く考えながら生活する私の癖がやはりこういうところでも出てくるのであった。楽しいとか楽しくないではない。私の知的好奇心を満たしてくれるのか、私の心情を豊かにしてくれる類のものかという問題であった。
私と同じ波動を持った人が書いた文章は心に刺さる。例えば、好きな作家を見つけるのにも苦労する。二十冊読んで一冊当たりがあったとしても、その作家の別の作品が面白いとは限らない。そのような意味において、私の好きな作家は五指に余るわけであるが、波長の合う作家に出会った時は、もう宝くじに当たったような気分である。
いかなる時も天は我をしっかりと導いてくれていた話しをしよう。時は、去年の8月に遡る。霊的な何かが降りてきた私は意味もなく車を買った。それは中古、赤の30プリウスであったが、利用価値はスーパーへの買い物くらいであった。乗らなきゃ損と思い当時広島市安芸区中野に住んでいた私は、わざわざ隣町のスーパーまで毎日買いに行っていた。
その二ヶ月後、有期雇用契約による実質自己退社の私は地元に帰りEC商品の軽配送していた。
しかし意味もなく買ったはずのプリウスが大活躍をしてくれて、お金を稼いでくれたのである。具体的な内容は、背景から詳しく説明する必要があり、長くなるので割愛する。
正業の軽運送とは別にプリウスが稼いでくれたお金は全てゲームに課金した。
私は以前からゲーム内における高額課金者たちの不可解な行動に対して疑問を持っていた。その画面の向こう側の人間の心というものが透けて見えてたので、それを文字に表す必要があると感じ、取材費という言い訳もあったと思う。ひたすらに課金しまくったのである。
さて、今年の七月、右手の小指が麻痺し箸も持てない。病院に行っても渡されるのはビタミンB12の錠剤だけ。痛みがなく、しびれだけなら治らない可能性が高いと言われ仕事は辞めた。
その時、またもや、私の心を揺さぶる霊的な感覚が降りてきた。あえて胸騒ぎと表現しよう。
福岡市大名にあるApple Storeで「iPad」を買ったのである。もちろん使い方などわからない。何の目的で使うかのもわからない。ただ文字を書くだけのことであればスマホでも全然事足りていた。ただ買わなくてはいけないという感覚だけが、私の心を支配していた。
iPad 64 とMagic KeyboardとApple PencilそれとSmart Folio、AppleCare + コミコミ十一万一千円の買い物であった。
そのレシートが発行された時、私は1の数字が3つ並んでいたことから、三の倍数であることをすぐに感じ、これは縁起がいいなと思っただけである。その程度の感覚であり、欲しいものを手に入れたという喜びはない。高い買い物をしたという罪悪感もなかった。
私が課金し続けたゲームのプレイヤーたちは邪悪というより卑劣。醜悪というよりも下劣であった。真っ黒なドロドロした心を持った人たちであり、たとえゲームの世界においても美しくあろうとする私の価値観と相反するものであった。その彼らとの言葉のやりとりは全てスクショで収めている。それをノンフィクションストーリーとしてスマホのメモ帳に、次々書いていった。
Kindleでの自己出版は難航を極めた。
私はITが大の苦手である。テキストの意味もわからない。横文字は全てわからなかった。
ガラケー時代、ホームページを作ってアフィリエイトをやっていた関係からフォントと言う言葉は知っていた。その程度である。
Kindleの出版において、意味もなく買ったiPadの理由がここに来てようやく飲み込めた。iPad内のPagesアプリでEPUB形式に変換でき、KDPへのアップロードに成功した。目次の生成方法はAppleサポートに電話して聞いた。ちなみにフォントサイズは14である。
ニッチな層にしか刺さらない自己出版の話は置いておこう。
Kindleで本を一冊出版すると、やはりもう一冊書きたくなるのが物書きとしての人情である。
次は完全なフィクションストーリーが書きたいと思った。次の本の提出先は、粗製濫造のKindleなんかではない。賞金が一番高いすばる文学賞、ここにレベルの高い作品が集まると思った。私はここで勝負しようと思ったのである。
プリウスの購入以前から、人生が大きく回天する予感はあった。しかし自分の人生がこの先、どのように変わっていくのか、頭でイメージすることはできなかった。ただ感覚的に何か大きく変わりそうな予感だけは感じていた。今振り返ってみれば全てが繋がっていた。
右手がしびれて仕事を辞めた現象でさえも何者かから、「お前はもう仕事はしなくていい」と言われたような感覚すら覚えた。
私は意志を持った生き物であるのか。何か違う次元の存在から、操られているだけの人間ではないのか。それはまさにゲーム内のキャラクターを操作するプレイヤーのような存在がいるのではないかと感じた。
回想がいささか長くなってしまった。
テーマは、縁や出会いについてのエッセイで書き始めたのであるが、自叙伝になってしまった。つまり、私が言いたいのはこうだ。どうやらこのノートと言うアプリでさえも、私は何者かに導かれて利用しているらしい。そしてとても素晴らしいクリエイターに出会った。この文章を読んで私だと思った方は多分そうでしょう。あなたのことです。