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東海林直人のゴロテマ日本史◇中世1(院政~保元平治の乱①)

※ 語呂合わせでテーマ史を記憶するので「ゴロテマ」です。

※ S←A←B←C←Dは重要順ランクです
※ 「note」は下線を引けないので太字を代用します(以下同じ)


◇中世§1.院政の覚え方①(1天皇4上皇)◇S

[ゴロ]ゴミ白鳥(しらとり)に/ゴジラは/陰性言葉
後三条天皇・河上皇・羽上皇)(後白河上皇)(院政後鳥羽上皇・1086

[句意]ゴミ・白鳥・ゴジラは陰性の言葉だろ、という句。「白鳥(しらとり)はかなしからずや空の青 海のあをにも染まずただよふ」(若山牧水)で知られるように「白鳥」はもの悲しい。またゴリラにも哀愁を感じる、ところからマイナスイメージ〔陰性〕の言葉としました。「言葉」=後鳥羽、「とばだろ」=「と(10)・ば(8)だろ(6)」とこの部分は2語対応のゴロになっています。

[point]
1.後三条天皇が築いた基礎に、1086年から、白河鳥羽後白河後鳥羽の4院政が続いた。[解説]
1.後三条天皇(1034~73、位1068~72)・白河天皇(上皇)(1053~l129、天皇位1072~86、院政1086~1129)・鳥羽上皇(法皇)(1103~56、天皇位1107~23、院政1129~56)・後白河上皇(法皇)(l127~92、天皇位1155~58、院政1158~92)・後鳥羽上皇(1180~1239、天皇位1183~98、院政1198~1221)。2.白河天皇後三条天皇にならって親政をおこなっていたが、1086(応徳3)、にわかに自分の子である善仁(たるひと)親王堀河天皇)に位をゆずった。しかし幼少の天皇を後見して実権は保持、院庁で上皇(院)による政治、院政を開始することになった。
3.院政は、自分の子孫の系統に皇位を継承させようとする意図からはじまったもの。上皇の地位は、国家の法や慣例にしばられないイレギュラーな存在であったため、専制的に実権を行使するようになった。
4.院政は天皇家の実権をにぎった家長(家督)が権力を行使するものであったから、天皇家一族間の激烈な争いに勝利した3上皇(白河上皇鳥羽上皇後白河上皇)のみが院政をおこない、100年余り続いた。そのため摂関家は、勢力の衰退を食い止めようと、院権力にすり寄るようになった。

2019関西大・社安商総情文法2/4:「
(B)②法皇の御時初めて出来(しゅったい)せし事
 受領の功万石万疋(ひき)進上の事
 十余歳の人受領と成る事
 卅余国③定任の事
 我身より始めて子三四人に至り、同時に受領と成る事
 神社仏事(寺)封家の納、諸国の吏全く弁済すべからざる事
 天下の過差(かさ)日を逐(お)うて倍増し、金銀錦繍、下女の装束と成る事
 御出家の後、御受戒無き事
   (『中右記』)
問5.この史料は、1129年に藤原宗忠が当時の政治を批判した一文である。下線部②の「法皇」は誰か。
 ア白河 イ鳥羽 ウ後白河
問6.下線部②の「法皇」がかつて造営した御願寺で、八角九重の塔を備えた巨大寺院はどれか。
 ア最勝寺 イ法成寺 ウ法勝寺
問7.下線部②の「法皇」は身辺警護のために北面の武士を置くが、重用された人物は誰か。
 ア平正盛 イ平清盛 ウ平宗盛
問8.下線部③「定任の事」は、国司が任期を過ぎても交代しない状況を示す。これは後にどういった制度に移行するか。
 ア国衛 イ知行国 ウ院司」
_________________
(答:問5ア、問6ウ、問7ア、問8イ)〉

2018関西学院大・商人間文法2/1:「
問9.下線部i白河院に関して、『中右記』には、白河院は「幼主三代の政をとり」とあるが、この三代にあたる天皇の組合せとして、正しいものを下記より選びなさい。
ア.堀河天皇・鳥羽天皇・近衛天皇
イ.鳥羽天皇・崇徳天皇・後白河天皇
ウ.堀河天皇・鳥羽天皇・後白河天皇
エ.堀河天皇・鳥羽天皇・崇徳天皇」
_________________
(答:問9エ)〉

2018早稲田大・商2/21:「
 1086年、白河天皇が当時まだ8歳であった(イ)善仁親王に譲位したことに始まる院政は、その後の歴史に大きな位置を占める政治形態となった。院政の目的のひとつに、自らが望む子孫の系統に皇位を受け継がせ、摂関家から皇位継承の主導権を取り戻すことがあったと考えられるが、その権力基盤を固めるために、院は(ロ)摂関政治のもとで冷遇されていた国司層や、自らの近親者を院近臣として組織し、院庁を拠点に(ハ)専制的な政治を展開した。また、院政のもうひとつの大きな特徴は、台頭し始めた武士を積極的に登用したことで、中でも平氏は、平正盛が白河上皇によって創設された[ ニ ]の一員に取り立てられたことから勢力を伸ばし、その子の忠盛、孫の清盛は
(ホ)鳥羽上皇・後白河上皇の院政を強力に支えた。
 院政の歴史の中で、最も大きな転機となったのは、その武士による武家政権の成立であろう。後白河上皇は1183年、源頼朝に(ヘ)東国の行政権を認め、朝廷の権限の一部が頼朝に委ねられることになった。しかし、鎌倉幕府の成立以後も、その支配権が及んだのは東国の(ト)武士社会が中心で、畿内・西国ではなお院政を継続する朝廷の支配権が強く残存していた。そのような幕府と朝廷の力関係が逆転したのが、1221年に起こった承久の乱である。後鳥羽上皇は、自ら組織した[ チ 」や、畿内・西国に基盤をもち幕府の御家人に編成されていなかった武士勢力を頼んで兵を挙げたが、結果的に乱は幕府方の圧勝に終わり、(リ)乱の戦後処理により、幕府の支配権は一気に西国に広がる結果となった。その後も朝廷では後嵯峨上皇による院政が継続したが、上皇が自らの後継者を定めずに亡くなったことから、その後の (ヌ)皇統が分裂し、皇位継承が幕府の助言を受けつつようやくなされるに及んで、院政の歴史的な役割はその実質を失っていった。(ル)後醍醐天皇による親政が始まるのは、その直後のことであった。
問A.下線部(イ)善仁親王について、この親王は次のうちの誰にあたるか。
 1.後三条天皇 2.堀河天皇
 3.近衛天皇 4.崇徳天皇
 5.二条天皇
問B.下線部(ロ)摂関政治のもとで冷遇されていた国司層について、この時期の国司や国衛について述べた説明として、誤っているものはどれか。
 1.任国に赴任する国司の最上席者は受領と呼ばれた。
 2.国街には地元の開発領主らが在庁官人として登用された。
 3.国司は有力な郡司の中から選ばれた。
 4.任国に赴任しても、すぐに帰京する遙任国司が次第に増加した。
 5.国司が在国しない国街は留守所と呼ばれた。
問C.下線部(ハ)専制的な政治に関して、白河上皇の専制政治について記した藤原宗忠の日記は次のうちのどれか。
 1『御堂関白記』 2『愚管抄』
 3『小右記』 4『中右記』
 5『今鏡』
問D.下線部(ホ)鳥羽上皇について述べた文として、誤っているものはどれか。
 1.院庁下文を発して多くの荘園を認可した。
 2.父は白河上皇である。
 3.子の崇徳上皇との不和が保元の乱の一因となった。
 4.娘の時子に膨大な数の荘園を相続させた。
 5.死の直前、後白河天皇を即位させた。
問E.下線部(ヘ)東国について、ここでの東国に含まれない国はどこか。
 1.越後 2.近江 3.伊賀
 4.美濃 5.出羽
問F.下線部(ト)武士社会を適用範囲として1232年に制定された法について述べた文として、誤っているものはどれか。
 1.頼朝以来の先例や道理を成文化したものである。
 2.この時制定された51ケ条の他、必要に応じて個別の法令が追加されていった。
 3.この法の制定者は幕府に評定衆を置いて合議政治を推進した。
 4.この法によって.公家法や本所法の効力は否定された。
 5.この法は室町幕府法や戦国大名の分国法にも影響を与えた。
問G.下線部(リ)乱の戦後処理に関する説明として、誤っているものはどれか。
 1.後鳥羽・土御門・順徳の三上皇を配流に処した。
 2.仲恭天皇を廃した。
 3.後鳥羽上皇の捌こ当たる後堀河天皇に院政を行わせた。
 4.京都に朝廷の監視などを行う六波羅探題を設置した。
 5.上皇方貴族の所領を没収し、東国御家人を地頭に補任した。
問H.下線部(ヌ)皇統が分裂について述べた文として、誤っているものはどれか。
 1.皇統の分裂は.後嵯峨上皇の二人の子の間で起こった。
 2.後深草上皇の皇統は持明院統と呼ばれた。
 3.亀山天皇は兄の後深草天皇から譲位されて即位した。
 4.持明院統は長講堂領、大覚寺統は八条院領という巨大な荘園群を相続した。
 5.大覚寺統は後の北朝へと継承された。
問Ⅰ.下線部(ル)後醍醐天皇による親政が行った親政により設置・再興された機関ではないものはどれか。
 1.記録所 2.雑訴決断所
 3.陸奥将軍府 4.鎌倉府
 5.武者所
問J.空欄(ニ)と空欄(チ)に入る語の組み合わせとして、正しいものはどれか。
 1.ニ北面の武士  チ西面の武士 
 2.ニ西面の武士  チ滝口の武士 
 3.ニ滝口の武士  チ北面の武士 
 4.ニ西面の武士  チ北面の武士 
 5.ニ北面の武士  チ滝口の武士」
_________________
(答:問A2、問B3,問C4、問D2、問E1、問F4、問G3、問H5、問I4、問J1)〉 

2017青山学院大・教育人間文2/13:「
C.1086年に上皇となった人物は、幼い皇子や皇孫を皇位につけて実権を握るとともに、上皇の御所である院で政治をおこなった。これを院政といい、この政治形態は同上皇ののちc代々の上皇によって継承されるが、院政のもとでは上皇に寵愛された女性の一族や僧侶、武士、富裕な受領層などが院の近臣として勢力をもつにいたった。これに関連して問8~問10に答えなさい。
問8.下線部(c)の代々の上皇名を古い順にあげたものとして、もっとも適切なものはどれか。次の①~④から一つ選べ。
 ①白河、鳥羽、堀河
 ②鳥羽、堀河、後白河
 ③堀河、後白河、後鳥羽
 ④鳥羽、後白河、後鳥羽
問9.院の近臣として権勢をふるった著名な人物として、もっとも適切なものはどれか。次の①~④から一つ選べ。
 ①藤原頼通 ②藤原通憲
 ③源義経 ④藤原秀衡
問10.院政期の美術に含まれないものはどれか。次の①~④から一つ選べ。
 ①中尊寺金色堂 ②源氏物語絵巻
 ③鳥獣人物戯画 ④一遍上人絵伝」
_________________
(答:問8④、問9②、問10④)〉

2017日本女子大・文2/1:「
Ⅰ 次の史料ほ、11世紀から12世紀における政治について記したものである。この史料を読んで、以下の設問に答えなさい。

 第七十二代、第三十九世[ 1 ]、(中略)壬午年((延久四年))即位、甲寅ニ改元。古(いにしえ)ノアトヲオコサレテ野ノ行幸ナンドモアリ。又白河ニ法勝寺ヲ立、九重(くじゅう)ノ塔婆(とうば)ナドモ昔ノ御願(ごがん)ノ寺々ニモコエ、タメシナキホドゾックリトゝノへサセ給ケル。(2)コノノチ代ゴトニウチツヅキ御願寺ヲ立ラレシヲ、造寺熾盛(しじょう)ノソシリ((謗))有キ。造作ノタメニ諸国ノ[ 3 ]ナンド云コトオホク((多))ナリテ、受領ノ功課(こうか)モタダシカラズ、封戸・(4)荘園アマタヨセヲカレテ、マコトニ国ノ費(ついえ)トコソ成侍(なりはべり)ニシカ。
 天下ヲ治給コト十四年。(5)太子ニユヅリテ尊号アリ。(6)世ノ政(まつりごと)ヲハジメテ院中ニテシラセ給。後ニ出家セサセ給テモ猶ソノマゝニテ御一期(おんいちご)ハスゴサセマシマシキ。
 オリヰニテ世ヲシラセ給コト昔ハナカリシナリ。(中略)主上ヲサナクオハシマス時ハヒトへニ(7)執柄ノ政ナリキ。(8)宇治ノ大臣ノ世トナリテハ、(中略)後三條院、坊ノ御時ヨリアシザマ((悪様))ニオボシメスヨシキコエテ、(中略)践祚ノ時、即(すなわち)関白ヲヤメテ宇治ニコモ((籠))ラレヌ。弟ノ二條ノ教通(のりみち)ノ大臣、関白セラレシハコトノ外ニ其権モナ((無))クオハシキ。マシテ此御代ニハ院ニテ政ヲキカセ給ヘバ、執柄ハタダ職ニソナハリタルバカリニナリヌ。サレドコレヨリ又フルキスガタハ一変スルニヤ侍(はべり)ケン。執柄世ヲオコナハレシカド、宣旨・宮符ニテコソ天下ノ事ハ、施行(しこう)セラレシニ、此御時ヨリ院宣(いんぜん)・庁御下文(ちょうのおんくだしぶみ)ヲオモ((重))クセラレシニヨリテ在位ノ君又位ニソナハリ給ヘルバカリナリ。世ノ末ニナレルスガタナルベキニヤ。(後略)
[語注]オリヰニテ…位を下りて。

問1.空欄1には人物名が入る。その人物名を漢字で答えなさい。
問2.この時期「法勝寺」を含めて、下線2コノノチ代ゴトの者たちにより相継いで「御願寺」が「造寺」された。これらは 総称して何と呼ばれたか、漢字で答えなさい。
問3.空欄3には、空欄1や下線2に対して金銭や米などを納めて、その見返りとして任期終了後、同じ官職を再び受けることを示す語句が入る。その語句を下記の中から一つ選べ。
 a.重臣 b.定府 c.重任
問4.下線4荘園アマタヨセヲカレテのように寄進され集積された「荘園」群のうち、鳥羽上皇が娘の暲子に伝えた後、鎌倉時代後期に大覚寺統に伝来された「荘園」群とは何か。下記の中から一つ選べ。
 a.長講堂領 b.八条院領
 c.六条院領
問5.下線5太子の人物は、その後即位して何天皇と呼ばれたか、漢字で答えなさい。
問6.下線6世ノ政ヲハジメテ院中ニテシラセ給のような政治体制下において、その政治主導者が開いた家政機関を何というか、漢字で答えなさい。
問7.下線7執柄の語句と同じような職務を持つ役職名を史 料中の語句から.漢字で答えなさい。
問8.下線8宇治ノ大臣の人物によって、大喜元年(1053)に落成した阿弥陀堂を何というか。漢字で答えなさい。
問9.この史料は、神代より後村上天皇までの皇位継承 について記し、南朝の正統性を論じた南北朝時代成立の歴史書である。その著者名を漢字で答えなさい。」
_________________
(答:問1白河院〔白河上皇〕、問2六勝寺、問3c、問4b、問5堀河天皇、問6院庁、問7関白、問8平等院鳳凰堂、問9北畠親房 ※なお史料は『神皇正統記』)〉

2014明治大・情報コミュ:「
 (ケ)院政が開始されると、たとえば、鳥羽院の妻であった美福門院や、平氏出身で、( コ )天皇の妻となった建春門院のように、多くの荘園を寄進され、政治的・経済的影響力が上昇していく女性も登場した。
問9 下線部(ケ)院政が開始に関して、下の史料の(   )に入る語句として、もっとも正しいものを、次の1~4のうちから1つ選べ。
 此御代には、院にて政をきかせ給へば、執柄はただ職にそなはりたるばかりになりぬ(中略)。此御時より(   )・庁御下文をおもくせられしによりて、在位の君、又位にそなわり給へるばかりなり。
 1宣旨 2官符 3院宣 4綸旨
問10 空欄(コ)に入る人名として、もっとも正しいものを、次の1~④のうちから1つ選び、マーク解答欄に記入しなさい。
 1.白河 2.後白河 3.三条
 4.後三条」
_________________________________________
(答:問9→3、問10→2)〉

2012北海道大:前期:「
 次の史料1を読んで、下記の設問に答えなさい。なお史料はわかりやすくするため、なおしたり省略したところがある。

   史料1
 第七十二代、第三十九世、[ ア ]院、諱(いみな)は貞仁、後三条第一の子。(中略)此御代には院にて政(まつりごと)を聞かせ給へば、a執柄はただ職にそなはりたるばかりになりぬ。されどこれより又ふるきすがたは一変するにゃ侍けむ。執柄世をおこなはれしかど、宣旨・官符にてこそ天下のことは施行せられしに、此御時より[ イ ]・庁御下文をおもくせられしによりてb在位の君又位にそなはり給へるばかりなり。c世のすゑになれるすがたなるべきにや。                       (『神皇正統記』)

問1. 空欄[ア~イ]に入る人名・語句を記しなさい。
問2.下線部a執柄、b在位の君はそれぞれ何を意味するか、答えなさい。問3.下線部c世のすゑについて、この頃から、国家や社会の安穏に寄与する仏教界がしばしば朝廷と対立するようになった。どのような対立や衝突が見られたか、30字以内で説明しなさい。
問4.この史料1に記された新しい政治形態は、さまざまな点で従来の国家、社会体制を変えていった。
(1)この政治形態は、本来どのような目的のために作り出された仕組みであったか。皇位継承の観点から簡潔に説明しなさい。
(2)近年、この時期の日本史に見られたもっとも大きな国家的あるいは社会経済史的変化とは何であったか。10字以内で答えなさい。
問5  この『神皇正統記』について
(1)この書物を著したのは誰か、氏名を答えなさい。また
(2)著述の目的は何であったか、簡潔に答えなさい。」
_________________________________________
(答:問1ア白河院〔白河上皇〕、イ院宣。問2a摂政・関白、b天皇。問3c(解答例)
寺院は荘園等の権益を|巡り朝廷と対立し僧兵|による強訴に訴えた。問4(1)自分の子孫の系統に皇位を継承させんがため、(2)荘園公領制の成立。
問5(1)北畠親房、(2)南朝による皇位継承が正統であると主張すること)〉

◇中世§2.中右記の覚え方◇C

[ゴロ]中勇気に/婦人は無念だった
中右記)(藤原宗忠

[句意]中くらいの勇気しかでてない〔本気ではない〕と婦人は無念だった、という句。

[解説]『中右記』は、藤原宗忠(1062~1141)による1087~1091年の日記で、院政期初期を知る基礎的な史料。

2019関西大・社安商総情文法2/4:「
(B)
 ②法皇の御時初めて出来(しゅったい)せし事
 受領の功万石万疋(ひき)進上の事
 十余歳の人受領と成る事
 卅余国③定任の事
 我身より始めて子三四人に至り、同時に受領と成る事
 神社仏事(寺)封家の納、諸国の吏全く弁済すべからざる事
 天下の過差(かさ)日を逐(お)うて倍増し、金銀錦繍、下女の装束と成る事
 御出家の後、御受戒無き事
                    (『中右記』)
問5.この史料は、1129年に藤原宗忠が当時の政治を批判した一文である。下線部②の「法皇」は誰か。
 ア白河 イ鳥羽 ウ後白河
問6.下線部②の「法皇」がかつて造営した御願寺で、八角九重の塔を備えた巨大寺院はどれか。
 ア最勝寺 イ法成寺 ウ法勝寺
問7.下線部②の「法皇」は身辺警護のために北面の武士を置くが、重用された人物は誰か。
 ア平正盛 イ平清盛 ウ平宗盛
問8.下線部③「定任の事」は、国司が任期を過ぎても交代しない状況を示す。これは後にどういった制度に移行するか。
 ア国衛 イ知行国 ウ院司」
_________________________________________
(答:問5ア、問6ウ、問7ア、問8イ)〉

2018早稲田大・商2/21:「
 1086年、白河天皇が当時まだ8歳であった(イ)善仁親王に譲位したことに始まる院政は、その後の歴史に大きな位置を占める政治形態となった。院政の目的のひとつに、自らが望む子孫の系統に皇位を受け継がせ、摂関家から皇位継承の主導権を取り戻すことがあったと考えられるが、その権力基盤を固めるために、院は(ロ)摂関政治のもとで冷遇されていた国司層や、自らの近親者を院近臣として組織し、院庁を拠点にハ)専制的な政治を展開した。
問A.下線部(イ)善仁親王について、この親王は次のうちの誰にあたるか。
 1.後三条天皇 2.堀河天皇
 3.近衛天皇 4.崇徳天皇
 5.二条天皇
問B.下線部(ロ)摂関政治について、この時期の国司や国衛について述べた説明として、誤っているものはどれか。
 1.任国に赴任する国司の最上席者は受領と呼ばれた。
 2.国街には地元の開発領主らが在庁官人として登用された。
 3.国司は有力な郡司の中から選ばれた。
 4.任国に赴任しても、すぐに帰京する遙任国司が次第に増加した。
 5.国司が在国しない国街は留守所と呼ばれた。
問C.下線部(ハ)専制的な政治に関して、白河上皇の専制政治について記した藤原宗忠の日記は次のうちのどれか。
 1『御堂関白記』 2『愚管抄』
 3『小右記』 4『中右記』
 5『今鏡』」
_________________________________________
(答:問A2,問B3×※郡司→中央の貴族、問C4)〉

2018関西学院大・商人間文法2/1:「
問9.下線部i白河院に関して、『中右記』には、白河院は「幼主三代の政をとり」とあるが、この三代にあたる天皇の組合せとして、正しいものを下記より選びなさい。
 ア堀河天皇・鳥羽天皇・近衛天皇
 イ鳥羽天皇・崇徳天皇・後白河天皇
 ウ堀河天皇・鳥羽天皇・後白河天皇
 エ堀河天皇・鳥羽天皇・崇徳天皇」
_________________________________________
(答:問9エ)〉

2017関西大・外済商人間政策2/3:「
 平安時代の住宅は現存しないため、文献史料や発掘遺構などが歴史を考える材料となる。文献史料では、平安京の貴族たちが多くの日記をのこしていて参考になる。白河上皇・堀河天皇の信任を得ていた藤原宗忠の日記である『( 9 )』は、院政成立期の状況を伝える根本史料とされる。この日記は、平安京の貴族住宅の実態がうかがえる点でも貴重な史料の一つである。次に発掘遺構では、右大臣藤原良相(よしみ)の邸跡の推定地において、仮名墨書土器が出土するなどして、近年注目された。」
_________________________________________
(答:9中右記)〉

2017早稲田大・文化構想:「
 1107(嘉承2)年の[ B ]天皇の即位に際して、藤原忠実は天皇の外戚ではなかったが、白河上皇の指名があり、摂政となった。ここに娘を天皇の后に据えることなく摂関となる方途が確立した。忠実は(c)分散していた荘園を集めて子孫に伝えるように図り、摂関家政所を家政機関としで整備し、摂関家政所下文などの文書形式を整えた。摂関家の年中行事の費用をまかなう方法を決め、故実を収集してまとめた。ここに「家」としての摂関家が確立したといえよう。このような動きは、上流貴族の間に広がり、[ C ]天皇の孫で具平親王の子の源師房は後三条天皇の時に右大臣に昇進し、その家は[ C ]源氏として白河院政を支えるものとなった。藤原道長の子頼宗の流れにあった(d)藤原宗忠は蔵人頭などになり、院政を実務的に支え、院と摂関を結ぶ役割を果たした。右大臣にまで昇進し、中御門に邸宅があったことから「中御門」が家名になった。また、中下級官人においてもe)三善氏や安倍氏などの家が形成されたことが知られる。
問4 空欄Bに該もする天皇は浦か。漢字2字で記入しなさい。
問5 下線(c)に関連して。この説明を正しく示す語句を下記のうちから2つ選べ。
 ア 六条院領 イ 殿下渡領
 ウ 長講堂領 エ 院領荘園群
 オ 家領荘園群
問6 空欄Cに該当する語句として最もふさわしいものはどれか。1つ選べ。
 ア 宇多 イ 朱雀 ウ 村上
 エ 陽成 オ 醍醐
問7 下線(d)に関連して。次の文章から正しいものを2つ選べ。
 ア 藤原宗忠は『中右記』という日記を記述した。
 イ 藤原宗忠は蔵人頭になる前に法勝寺の執行となっていた。
 ウ 藤原宗忠は八条女院の院司を長く勤めた。
 エ 藤原宗忠は白河上皇を「聖明の君」と讃えた。
 オ 藤原宗忠は蓮華王院の建立に力を尽くした。
問8 下線(e)に関連して。この家門に属し、京下りの官人として鎌倉幕府の樹立に功績があった人物が初代執事となった機関はどれか。1つ選べ。
 ア 政所 イ 侍所 ウ 公文所
 エ 問注所 オ 田所」        
_________________________________________
(答:問4鳥羽、問5イ・オ、問6ウ、問7ア・エ、問8エ)〉

2013早稲田大・法2/15:「
 このように古代の日本は、しばしば自然災害に見舞われた。1096年に京都を襲った地震の際には、堀川天皇は直ちに池に浮かんだ船に避難し、平安京の修理を担当していた(f)藤原宗忠は大内裏において破損箇所の点検を行い、その被害の状況を詳細に記録し、復旧に向けて冷静な対応を示している。人々の災害に備える意識が徐々に高められていったと見ることができる。
問10 下線部fについて。藤原宗忠を記主とする日記は次のうちどれか。1つ選べ。
 あ『小右記』 い『御堂関白記』
 う『玉葉』 え『中右記』
 お『明月記』」
_________________________________________
(答:問10え)〉

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