東海林直人のゴロテマ日本史◇近現2( 1863年~五箇条誓文)
◇近現§11.1863年の5事件発生順の覚え方(幕末の政争③)◇A
[ゴロ]ムーミンが/5月10日の/撮影に/はとバスで行くの
(1863年)(5月10日攘夷決行)(薩英戦争)(八月十八日の政変・生野(いくの)の変)
[句意]ムーミンが5月10日の撮影のために「はとバス」に乗って行くのよ、という句。はとバスは、東京都内を中心にまわる定期観光バス。
[point]
1.1863年は、5月10日攘夷決行→ 薩英戦争→ 八月十八日の政変→ 生野(いくの)の変と事件がつづいた。
[解説]
1.1863(文久3)年の5月10日は攘夷決行(:和宮降嫁の条件)の日。長州藩は、その日、下関(しものせき)の海峡を通過する米商船(23日に仏船・26日に蘭船)を砲撃し、若干の損害を与えた。これに対し6月、米・フランス軍艦による報復攻撃が行われ、砲台を破壊され、長州海軍は全滅させられている。
2.7月、前年の生麦事件の報復のためイギリス艦隊7隻が鹿児島を攻撃(薩英戦争)した。双方ともかなりの損害を受けて講和成立。この結果、薩摩藩は攘夷の無謀を理解し、イギリス軍は薩摩藩の実力を認め、かえって両者は接近するきっかけとなった。
3.8月、大和行幸(やまとぎょうこう)(天皇自ら全国に攘夷決行を宣言する日)が近づくと、これをしぶる孝明天皇に、公武合体派の薩摩・会津藩がむすび、長州藩の宮門警備を解任し、尊皇攘夷派を京都から追放した(八月十八日の政変)。その際、尊攘派の公卿7人も長州に落ちのびた(七卿落ち)。
4.10月、尊王攘夷を実行しようとした元福岡藩士の平野国臣(くにおみ)らも但馬(たじま)の生野(いくの)代官所をおそって気勢をあげた(生野の変)。
5.薩英戦争のみ生麦事件の報復。他は孝明天皇の政治的態度に起因して起こった事件であることがキーポイント。すなわち保守的な排外主義の孝明天皇が和宮降嫁の条件(岩倉具視の献策)としていた攘夷決行を幕府に迫った。気骨ある幕閣(老中・若年寄など)不在の幕府は(先輩幕閣が攘夷の不可能を悟って開国したにもかかわらず)5月10日を期して攘夷決行を諸藩に命じた。同日尊攘派の中心長州藩は攘夷を決行(長州藩外国船砲撃事件)。調子に乗った尊攘派はさらに天皇を政治の表舞台に引きずり出そうとした。圧力に屈した天皇側は大和行幸を約束するはめに。大和行幸の日が迫る。幕府にはやらせたいが自分自身は表に立ちたくない孝明天皇。その意向をくんだ薩摩藩中心の公武合体派がクーデターを起こした(八月十八日の政変・七卿落ち)。尊攘激派は大和行幸を前に先走ったり(天誅組の変)、後に挽回をあせったりする(生野の変・翌年の天狗党の乱)などの暴発をした。
〈2020学習院大・法国際社学2/10:「
ペリー艦隊が来航すると、江戸前の遠浅の海にも、江川英龍らによって、いくつかの砲台(台場)が築かれた。現存しているものもある。なるほど艦砲射撃から江戸城を守るために必要かもしれないが、実戦的であったかどうか。ちなみに、1863年、長州藩が攘夷を決行して⑧海峡を通る外国船を攻撃したところ、翌年、イギリスなど4力国の艦隊の報復にあい、長州藩の砲台を占拠されてしまった事件がある。
問8 下線部⑧にあてはまる海峡名を記しなさい。」
_________________
(答:問8関門〔下関〕)〉
〈2016明治大・経営:「
問8 下線部(ク)の奈良原三次の父は、男爵の奈良原繁であった。生麦事件で外国人に切りつけたのは、本当は、奈良原繁であったとの説がある。生麦事件について、正しい記述をA~Dの中から一つ選べ。
A 薩摩藩主の島津久光の行列で起きた事件である。
B 長州藩主の毛利敬親の行列で起きた事件である。
C 1863年に起こった薩英戦争の原因となった。
D 1864年に起こった四国艦隊下関砲撃事件の原因となった。」
_________________
(答:問8C○ ※A×藩主ではない)〉
〈2016慶応大・商AB方式:「
井伊の死後、老中[ 42 ]は(ア)公武合体を進めようとした。他方、長州藩をはじめとして天皇を尊び外敵を退けることを唱える運動が起こるが、1863年の外国船砲撃事件に対してイギリスをはじめとする四国連合艦隊により[ 43 ]が砲撃され、また、1862年に起きたイギリス人殺傷事件に対する報復のため、1863年には薩英戦争が起きた。その後、薩摩藩はイギリスに接近するが、幕府に見切りをつけた駐日イギリス公使[ 44 ]の側も薩摩藩に期待を寄せるようになった。
問3 下線部(ア)公武合体について、25字以内で説明しなさい。」
_________________
(答:42安藤信正、43下関、44パークス、問3天皇の妹と将軍の結婚による朝幕融和政策)〉
〈2013上智大・法総合神外:「
攘夷の空気が広まるなか、薩摩藩の実権を握った( エ )の一行を横切ったという理由で英国人が殺傷される( オ )事件が起こり、それに対する報復から、英国は( カ )年、鹿児島に砲撃を加える薩英戦争を起こした。そして、長州藩も、下関の海峡を通過する外国船を攻撃をしたため、その損害を被った国々は(c)四国連合艦隊を組んで下関の砲台を攻撃・占領した。こうして、攘夷の難しさを思い知らされた薩長は、攘夷から外国への接近を図った。
問1 空欄エに当てはまる人物は誰か。1つ選びなさい。
1島津茂久 2島津重豪
3島津斉彬 4島津忠義
5島津久光
問2 空欄オに当てはまる場所はどこか。1つ選びなさい。
1生麦 2神戸 3金沢
4鶴見 5高輪
問3空欄カに当てはまる年代はどれか。1つ選びなさい。
1)1861 2)1862 3)1863
4)1864 5)1865)
問4下線部(c)の4国に入らない国はどこか。1つ選びなさい。
1アメリカ 2ロシア 3オランダ 4フランス 5イギリス」
_________________
(答:問1→5、問2→1、問3→3、問4→4)〉
◇近現§12.1864年の5事件発生順の覚え方(幕末の政争④)◇A
[ゴロ]羽虫が/池でキモキモ/一時に成長/しもの関
(1864)(池田屋事件・禁門の変)(一次征長征伐)(下関戦争)
[句意]羽虫が池でキモキモと一時に(急に)成長した、という句の末尾に勢いで「もの関」をつづけたもの。なお前年の「下関事件」(:長州藩外国船砲撃事件)とこの「下関戦争」(:四国艦隊下関砲撃事件)を混同しないように注意してください。
[point]
1.1864(元治元)年は、池田屋事件→禁門の変→第一次征長戦争→下関戦争と事件がつづいた。
[解説]
1.池田屋事件(6月)は、新撰組が京都三条河原町の池田屋に集合した尊攘派を急襲、20数人を殺傷した事件。桂小五郎(のちの木戸孝允)は危うく逃れた。
2.禁門の変(7月)は、前年の八月十八日の政変で京都を追われた長州藩の急進派が、池田屋事件の報復などで入京、薩摩・会津・桑名の藩兵と皇居内外で交戦、大敗した事件。蛤御門(はまぐりごもん)の変ともいう。
3.下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)(8月)は、
①前年の長州藩外国船砲撃事件の報復と関門海峡通行の安全の確保のため、英・仏・米・蘭の四国連合艦隊が下関を砲撃し、陸戦隊を上陸させて下関砲台などを占領。
②奇兵隊などは善戦するが、戦力の差は大きく大敗。高杉晋作が正使で和平交渉。海峡の自由通行を保障したが、領土割譲要求(彦島)は強硬に拒否し、賠償金も突っぱねる(結局列強はその賠償金300万ドルを幕府に要求。幕府は払えず、不平等な改税約書を結ぶはめに追い込まれた)。
③この結果、攘夷の無謀を認識した長州藩では、開国を主張する勢力が台頭。イギリスは戦闘および外交折衝を通じて長州の実力を知り、かえって両者は接近。
4.第一次長州征伐(征長戦争)(7~12月)は、禁門の変に対する懲罰遠征。しかし財政難のため各藩の動きは鈍く、攻撃の実行までなかなか進まなかった。そこで幕府軍の参謀西郷隆盛は、戦わずして長州藩に大軍で圧力をかけ追い込む方針をとる。圧力に屈した長州藩は俗論派(上層保守派)が藩権力を握り、3家老4参謀を斬って恭順したため、12月末、戦わずして終了。
〈2020学習院大・文2/9:「
1863年の八月十八日の政変によって、長州藩は京都を追われた。翌年長州藩は兵を率いて上京し、会津藩や薩摩藩の藩兵などと戦うも敗れた(禁門の変)。この長州藩の上京を誘発した要因のひとつは、尊攘派の志士の会合に新選組が切り込み、多くの志士を殺傷・捕縛した⑮〔イ池田屋 ロ生麦 ハ東禅寺 ニ寺田屋 ホ竹橋〕事件であった。」
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(答:⑮イ)〉
〈2019明治大・文2/13:「
問3.下線部(ア)開国をはじめとする幕末期の諸変動に関する出来事の順序として正しいものを、次の①~⑥のうちから一つ選べ。
①日米修好通商条約一五品江戸廻送令一禁門の変一薩長同盟
②日米修好通商条約一五品江戸廻送令一薩長同盟一禁門の変
④日米修好通商条約一薩長同盟一五品江戸廻送令一禁門の変
④五品江戸廻送令一日米修好通商条約一禁門の変一薩長同盟
⑤五品江戸廻送令一日米修好通商条約一薩長同盟一禁門の変
⑥五品江戸廻送令一薩長同盟一日米修好通商条約一禁門の変」
_________________
(答:問3① ※日米修好通商条約1858年―五品江戸廻送令1860年―禁門の変1864年―薩長同盟1866年)〉
〈2016早稲田大・教育:「
問4 下線部a支配層内部の分裂・抗争および諸外国との対立・戦争に関する事件A~Eを時代順に並べると、正しいものはどれか。
A イギリスなど4国の連合艦隊が下関の砲台を攻撃した。
B 高杉晋作らは奇兵隊などの諸隊を率いて挙兵し、長州藩の主導権を奪い返した。
C 島津久光が江戸からの帰途、薩摩藩士が行列を横切ったイギリス人を殺傷した。
D 会津藩と薩摩藩は、公武合体派の公家と結んで、長州藩と尊攘派公家を京都から追放した。
E 長州藩は勢力を回復するため藩兵を上京させたが、禁門(蛤御門)付近の戦闘で薩摩・会津の藩兵に敗れた。
ア D一C→A→B→E
イ A→C→E→B→D
ウ E→D→A-B→C
エ C-D→E→A→B
オ D→E-A-C→B
_________________
(答:問4エ ※C生麦事件1862年、D八月十八日の変1863年、E禁門の変1864年7月、A四国艦隊下関砲撃事件1864年8月、B高杉ら藩の実権を握る1865年)〉
〈2016慶応大・商AB方式:「
井伊の死後、老中[ 42 ]は(ア)公武合体を進めようとした。他方、長州藩をはじめとして天皇を尊び外敵を退けることを唱える運動が起こるが、1863年の外国船砲撃事件に対してイギリスをはじめとする四国連合艦隊により[ 43 ]が砲撃され、また、1862年に起きたイギリス人殺傷事件に対する報復のため、1863年には薩英戦争が起きた。その後、薩摩藩はイギリスに接近するが、幕府に見切りをつけた駐日イギリス公使[ 44 ]の側も薩摩藩に期待を寄せるようになった。
問3 下線部(ア)公武合体について、25字以内で説明しなさい。」
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(答:42安藤信正、43下関、44パークス、問3天皇の妹と将軍の結婚による朝幕融和政策)〉
〈2014文教大・全学部:「
問10 幕末の下線部(i)政情不安について述べたA~Cの文について、古いものから年代順に配列せよ。
A 薩摩の島津久光が江戸城に入り、幕政を改革し、松平慶永が政事総裁職に就任した。
B 大老井伊直弼が江戸城桜田門外で、尊王攘夷派の浪士たちに襲われ殺害された。
C 江戸幕府が諸大名に征討を命じると、長州藩は尊王攘夷論を放棄し、幕府に服従した。」
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(答:問10B(1860年)A(1862年)C(1864年)〉
〈2012立教大・文学部:「
山本覚馬は会津藩の砲術指南の家に生まれ、江戸で砲術・兵学・蘭学を学び、藩校〈 つ 〉に開設された蘭学所の教授となった。京都守護職に任じられた藩主( ヌ )に関連して上洛し、皇居が戦場となった1864年の〈 て 〉では砲兵隊を指揮して勲功を立てた。その後失明し、鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩邸に幽閉されたが、その学識と先見性の故に厚遇された。維新後は京都府庁に出仕し、府政の顧問として開明的な政策を推進した。その後新島と知り合い、その学校創設計画に共鳴して、ともに( リ )英学校の創業・運営にあたった。」
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(答:つ日新館、ヌ松平容保、て禁門の変、リ同志社)〉
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