見出し画像

東海林直人のゴロテマ日本史◇近現15(坪内逍遙~フェノロサ)

◇近現§141.写実主義の覚え方(明治文学・3人)◇C

[ゴロ]紅葉終い(しめい)に/逍遙する/写実主義
尾崎紅葉)(二葉亭四迷)(坪内逍遙)(写実主義

[句意]紅葉の終いに逍遙するのが写実主義だ、という句。「逍遙」はぶらぶら歩くこと。人出の多い紅葉の盛りではなく、人もまばらな落ち葉の頃におとずれるは通人のたしなみだ、という主張。

[point]
1.明治文学で写実主義の代表は、尾崎紅葉坪内逍遙二葉亭四迷の3人である。
[解説]
1①.坪内逍遙(1859~1935)は、戯作文学の勧善懲悪主義や政治小説の政治至上主義に対し、1885(明治18)年に評論小説神髄』を発表して、西洋の文芸理論をもとに、人間の内面や世相を客観的・写実的に描くことを提唱した。勧善懲悪の従来型の文学を否定し、写実主義を追求する明治文学革新の運動を始めた。日本の近代小説は逍遙にはじまると言われる。
②.さらに逍遙は、『小説神髄』に展開された理論の具体化として、小説『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』を発表した。書生とは、主として明治・大正期に用いられた「学生」を表わす言葉。これは、様々な場面で、当時の書生の風俗や気質を写し出した小説である。
③.また逍遙は伝統演劇の近代化を主唱、1906年、島村抱月文芸協会を設立した。
2.二葉亭四迷(1864~1909)は、東京外語学校露語科中退。坪内逍遙の指導で創作を始める。逍遙に影響を受けた四迷は、初めての言文一致体の小説『浮雲』を著し、逍遙の提唱を文学作品として結実させ、文学界に革新をもたらした。また東京外語学校露語科中退で、ツルゲーネフを翻訳『あひびき』『めぐりあい』などでロシア文学を紹介した。
3①.尾崎紅葉(1867~1903)は、1885年に山田美妙らと文学結社である硯友社(けんゆうしゃ)を結成し、回覧雑誌『我楽多文庫(がらくたぶんこ)』を発刊した。二葉亭と同じく写実主義をかかげながらも文芸小説の大衆化を進めた。読売新聞に入社し、かつ硯友社の中心として多くの門下を集め、明治20年代の文壇で重きをなす。
②.紅葉は『多情多恨』『金色夜叉』などの風俗小説で多くの読者を獲得した。これらの作品では、言文一致体で写実的に人物の心理や性格を描いており、次代の自然主義文学への橋渡しとなった。

2020関西大・社安商総合文法2/4:「
 坪内逍遙は1885年に評論『( 3 )』を著し、西洋の文芸理論をもとに写実主義文学を提唱した。同年には、尾崎紅葉、山田美妙らが( 4 )を結成し、『我楽多文庫』を発刊している」
_________________
(答:3小説神髄、4硯友社 ※原問には選択肢30語あり)〉

2020慶応大・経済2/13:「
問7(5)下線部βに関連して、森鴎外によるものをはじめとして、明治時代に多くの翻訳書が出版された。次の資料a~cは、それぞれ明治時代に刊行された翻訳書からの抜粋である(必要に応じて表現を改めた)。それぞれの翻訳書の訳者名の組み合わせとして適切なものを、下の1~6から選びなさい。
a.秋九月中旬といふころ、一日自分がさる樺の林の中に座していたことが有った。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま暖かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合ひ、あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思ふと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、無理に押し分けたやうな雲間から澄みて怜悧(さかし)し気に見える人の眼の如くに朗らかに晴れた蒼空(あおぞら)がのぞかれた。
b.弥生(やよひ)ついたち、はつ燕(つばめ)、
  海のあたなの静けき国の
  便(たより)もてきぬ、うれしき文(ふみ)を。
  春のはつ花、にほひを尋(と)むる
  ああ、よろこびのつばくらめ。
c.羅馬に往きしことある人はピアツツア・バルベリイニを知りたるべし。こは貝殼持てるトリイトンの神の像に造り做したる、美しき噴井(ふんせい)ある、大なる広こうぢの名なり。貝殼よりは水湧き出でてその高さ数尺に及べり。羅馬に往きしことなき人もかの広こうぢのさまをば銅板画にて見つることあらむ。かかる画にはヰア・フエリチエの角なる家の見えぬこそ恨なれ。
  (資料出所はいずれも省略する。)
 1a上田敏 b二葉亭四迷c森鴎外
 2a上田敏 b森鴎外 c二葉亭四迷
 3a二葉亭四迷b上田敏 c森鴎外
 4a二葉亭四迷b森鴎外 c上田敏
 5a森鴎外 b上田敏 c二葉亭四迷
 6a森鴎外 b二葉亭四迷c上田敏」
_________________
(答:問7(5)3〇 ※a二葉亭四迷『あひびき』、b上田敏訳『海潮音』、c森鴎外訳『即興詩人』)〉

2018関西学院大・教育済国際社会神総合2/2:「
維新以後軽視された伝統的な芸術の復興も図られ、日本画や彫刻などの美術界をはじめ、演劇界にも新たな風が吹いた。またe文学界でも近代文学が形成された
問5.下線部e文学界でも近代文学が形成されたに関する説明として、正しいものを下記より選びなさい。
 ア.勧善懲悪主義の戯作を書いた坪内逍遙は、西洋の文芸理論を批判した。
 イ.二葉亭四迷の『浮雲』は、写実主義の作品であり、言文一致体で書かれた。
 ウ.自然主義の影響を受けた樋口一葉は、『たけくらべ』で近代女性の悲哀を描いた。
 エ.自然主義の石川啄木は、晩年ロマン主義に転向して雑誌『明星』の誌上で活躍した。」
_________________
(答:問5イ〇 ※ア×批判してない、ウ×自然主義→ロマン主義、エ×転向していない)〉

2019近畿大・全1/27:「
問6.下線部(b)松井須磨子が所属し、坪内逍遙が設立した団体として最も適当なものはどれか。次の①~④のうち一つを選べ。
 ①文芸協会 ④自由劇場 ③日本美術院
 ④築地小劇場」
_________________
(答:問6①)〉

2019同志社大・全2/5:「
【設問g】『金色夜叉』の作者は誰か。その作者名を漢字4字で記せ。」
_________________
(答:問g尾崎紅葉)〉

2017関西大・外済商人間政策2/3:「
 明治時代に活躍した小説家のひとりである①((ア)仮名垣魯文(イ)坪内逍遙(ウ)泉鏡花)は、1885(明治18)年に『小説神髄』を発表して文学の独立性や②((ア)人道(イ)平民(ウ)写実)主義を主張した。さらに、『当世書生気質』を著すなど、日本文学の近代化に貢献した。また、①に刺激された二葉亭四迷は、②主義を取り入れて小説『③』((ア)夏木立(イ)浮雲(ウ)即興詩人)を執筆し、言文一致の文体で当時の文学界に大きな影響を及ぼした。
 同じころ、尾崎紅葉は山田美妙らと④((ア)政教社(イ)民友社(ウ)硯友社)を設立して『我楽多文庫』を発行し、多くの弟子を育てた。晩年には『⑤』((ア)金色夜叉(イ)不如帰(ウ)にごりえ)の執筆に取り組んだが、未完に終わった。」
_________________
(答:①イ、②ウ、③イ、④ウ、⑤ア)〉

2016早稲田大・法:「
 4月27日
 昼食後、大隈公会堂のe坪内博士脚本朗読会をききに行く。演劇博物館の資金を作るための会にて、博士自ら自作脚本を読むというので大人り也。二千人と注す。
問9 下線eが1885~86年に発表して日本近代文学の成立に大きな影響を与えた文学論は何か。その書名を漢字で記述解答用紙に記入しなさい。」
_________________
(答:小説神髄)〉

2015関西大・法:「
(ハ)小説の主脳は人情なり。世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情欲にて、所謂(いわゆる)百八煩悩(ぼんのう)是れなり。(中略)此人情の奥を穿(うが)ちて、賢人、君子はさらなり。老若男女、善悪正邪の心の中の内幕(うちまく)をば洩(もら)す所なく描きいだして周密(しゆうみつ)精到(せいとう)、人情を灼然(しやくぜん)として見えしむるを、我が小説家の務めとはするなり。よしや人情を写せばとて、其皮相のみを写したるものは、未だ之れを真の小説とはいふべからず。其(その)骨髄(こつずい)を穿つに及び、はじめて小説の小説たるを見るなり。
問14 この文の著者は江戸時代の勧善懲悪的文学を批判して、写実主義を提唱した。その著者とは誰か。
(ア)仮名垣魯文(イ)山田美妙
(ウ)坪内逍遥
問15 写実的な描写をするため、言文―致体を最初に用いて書かれた小説はどれか。
(ア)『破戒』(イ)『浮雲』
(ウ)『にごりえ』」
_________________
(答:問14ウ※文は『小説神髄』、問15イ※二葉亭四迷作)

2016明治大・経営:「
問4 下線部エの長岡外史は、日露戦争では大本営勤務であったが、日露戦争について、正しい記述をA~Dの中から一つ選べ。
 A 開戦時の外務大臣は陸奥宗光であった。
 B 開戦後に、硯友社の尾崎紅葉は対露強硬論を主張した。
 C 奉天会戦が起こって、日本軍がロシア軍を撃退した。
 D 講和条約によって、千島列島は日本領となった。」
_________________
(答:C〇。※A×外相は小村寿太郎。B×紅葉は開戦前の1903年没。D×樺太千島交換条約ですでに日本領)〉

2015明治大・商:「
 下図(略)を『蝸牛庵夜譚』のなかで「乍憚口上先以て各々様益々ご機嫌能御座被遊珍重に存じ奉り候…以下略…」と判読したのは、理想主義的作風で明皇帝の動乱の生涯を描いた『運命』などの著作があるC【①坪内逍遙 ②二葉亭四迷 ③幸田露伴 ④山田美妙 ⑤尾崎紅葉】(1867~1947)である。」
_________________
(答:③)〉

2012立教大・現代心理社会コミュ福:「
問9.小作農民を題材とした小説「土」を著した人物は誰か。次のa~dから1つ選べ。
 a.尾崎紅葉 b.田山花袋
 c.長塚節 d.森鴎外」
_________________
(答:c)〉

2012明治大・文学部:「
 文学界では、明治期に入ってからも江戸時代以来の大衆文芸である戯作文学の人気は衰えなかったが、1885~86年(明治18~19)に坪内逍遙は[ i ]を発表して、人間の心の動きや世相をありのままに描く写実主義を提唱し、日本の近代文学の先駆者となった。」
_________________
(答:小説神髄)〉

2004センター試験・日本史B追試:「
 1887年に発表された『浮雲』は、【ア】という新たな形式で書かれた小説であった。この形式は、20世紀初頭に普及し、このころから、小説や雑誌の読者も急速に増加した。1920年代の半ばになると【イ】にみられるように大量出版の時代が到来した。
 その一方で、政府は、明治初年の出版条例やその後の出版法によって、出版を取締りの対象としてきた。出版物に対する統制は、特に満州事変以降の時代に厳しさを増した。
問3 空欄【ア】【イ】に入る語句の組合せとして正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
① ア 戯作 イ 『日本人』の創刊
② ア 戯作 イ 円本の誕生
③ ア 言文一致体 イ 『日本人』の創刊
④ ア 言文一致体 イ 円本の誕生」
_________________
(答:4)〉

◇近現§142.幸田露伴の覚え方(明治文学・理想主義)◇C

[ゴロ]ロバは/理想の/50頭
(幸田露伴)(理想主義)(五重塔

[句意]ロバ飼育の理想は50頭だ、という句。

[point]
1.理想主義幸田露伴の代表作は『五重塔』である。
[解説]
1.幸田露伴(1867~1947)は、逍遙の内面尊重を受け継ぎ、東洋哲学を基盤とする理想主義的な作品をあらわした。代表作は『五重塔』『運命』『風流仏』。

2020立命館大・全2/3:「
問b 下線部②の幸田露伴の作品として、もっとも適切なものを下から一つ選べ。
 あ『破戒』 い『五重塔』
 う『金色夜叉』 え『みだれ髪』」
_________________
(答:問bい)〉

2017関西大・外済商人間政策2/3:「
 また、同時代の ⑥((ア)徳冨蘆花(イ)北原白秋(ウ)幸田露伴)は、『五重塔』や『運命』など理想主義的な作品を発表して、第1回文化勲章を受章した。」
_________________
(答:⑥ウ)〉

2015明治大・商:「
 下図(略)を『蝸牛庵夜譚』のなかで「乍憚口上先以て各々様益々ご機嫌能御座被遊珍重に存じ奉り候…以下略…」と判読したのは、理想主義的作風で明皇帝の動乱の生涯を描いた『運命』などの著作があるC【①坪内逍遙 ②二葉亭四迷 ③幸田露伴 ④山田美妙 ⑤尾崎紅葉】(1867~1947)である。」
_________________
(答:③)〉

2015関西学院大・神社済教:「
 文学では、日露戦争前後から流行した[ b ]に批判的な、志賀直哉らの[ c ]が文壇の中心となり、また新聞読者層の増加の中で、d大衆文学(大衆小説)も多くの読者を獲得した。
問2.空欄b・cに該当する語句の組み合わせとして、正しいものを下記より選びなさい。
 ア.b:ロマン主義 c:新思潮派
 ウ.b:自然主義  c:新思潮派
 イ.b:ロマン主義 c:白樺派
 エ.b:自然主義  c:白樺派
問3.下線部dに関し、大正~昭和初期の大衆文学(大衆小説)作家として適当ではないものを下記より選びなさい.
 ア.中里介山 イ.幸田露伴
 ウ.江戸川乱歩 エ、直木三十五
_________________
(答:問2エ、問3イ)〉

2015明治大・商:「
 下図(略)を『蝸牛庵夜譚』のなかで「乍憚口上先以て各々様益々ご機嫌能御座被遊珍重に存じ奉り候…以下略…」と判読したのは、理想主義的作風で明皇帝の動乱の生涯を描いた『運命』などの著作があるC【①坪内逍遙 ②二葉亭四迷 ③幸田露伴 ④山田美妙 ⑤尾崎紅葉】(1867~1947)である。」
_________________
(答:③)〉

◇近現§143.ロマン主義の覚え方(明治文学・5人)◇B

[ゴロ]東国の/ロマンにうかぶ/一葉取ろうか
(北村透谷(きたむらとうこく)・(鷗外(もりおうがい))(ロマン主義・鏡花(いずみきょうか))(樋口一葉(ひぐちいちよう)・徳冨蘆花(とくとみろか))

[句意]東国の森のロマンチックな泉に浮かぶ一葉を取ってあげようか、という句。

[point]
1.明治のロマン主義文学の代表的評論家は北村透谷、小説家は森鷗外・泉鏡花・樋口一葉・徳冨蘆花である。
[解説]
1.日清戦争前後には、啓蒙主義や合理主義に反発して、感情・個性の躍動を重んじるロマン主義文学が日本でもさかんになった。
2.北村透谷らの雑誌『文学界』がその拠点をなし、小説の分野では森鷗外・泉鏡花・樋口一葉・徳冨蘆花らがあらわれた。
3.北村透谷(1868~94は、1893年、島崎藤村らと雑誌『文学界』を創刊、ロマン主義運動の先頭に立つが、翌年自殺した。
4.森鷗外(鴎外)(1862~1922)は、東大医学部卒。ドイツへ留学後、軍医として最高位の医務局長にまで出世するかたわら、文学に励む。
 『舞姫』(1890年)は、ドイツ留学中に知り合ったドイツ人娘エリスとの恋愛を描いた作品で鷗外の実体験に基づいた小説。『即興詩人』(1892年)は、童話で著名なアンデルセン作の訳詩集。
5.樋口一葉(1868~94)は、生活苦の中で文学を志し、「文学界」に発表した『大つごもり』(1894)で世に知られ、『にごりえ』『たけくらべ』(ともに1895)で当代一の女流小説家との名声を得た。しかし生活の困窮から肺結核を病み24歳の若さで早逝した。
6.泉鏡花(1873~1939)は、ロマン的・幻想的な世界を華麗な文章で表現した。代表作は『外科室』『高野聖』
7.徳冨蘆花(1868~1927)は、同志社英学校中退。キリスト教に基づく人道主義の立場で、宗教色の濃い小説を書いた。思想家・評論家の徳富蘇峰の弟だが、「徳冨」の表記にこだわった。代表作に『自然と人生』『思出の記』など。他に大逆事件をでっち上げた政府を批判した一高での弁論『謀反論』がある。徳冨蘆花の代表作は『不如帰』

2021青山学院大・文2/14:「
問7 下線部d海水浴場を普及させたのは陸軍軍医総監を務めた松本良順とされる。同じく陸軍軍医総監を務めた小説家の作品や翻訳でないものはどれか、次の選択肢のなかから一つ選べ。
 ①『恋人たちの森』 ②『渋江抽斎』
 ③『即興詩人』 ④『舞姫』」
_________________
(答:①× ※『恋人たちの森』は鴎外の長女で小説家の森茉莉の作品)〉

2020慶応大・経済2/13:「
(5)下線部βに関連して、森鴎外によるものをはじめとして、明治時代に多くの翻訳書が出版された。次の資料a~cは、それぞれ明治時代に刊行された翻訳書からの抜粋である(必要に応じて表現を改めた)。それぞれの翻訳書の訳者名の組み合わせとして適切なものを、下の1~6から選びなさい。
 a.秋九月中旬といふころ、一日自分がさる樺の林の中に座していたことが有った。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま暖かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合ひ、あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思ふと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、無理に押し分けたやうな雲間から澄みて怜悧(さかし)し気に見える人の眼の如くに朗らかに晴れた蒼空(あおぞら)がのぞかれた。
 b.弥生(やよひ)ついたち、はつ燕(つばめ)、
  海のあたなの静けき国の
  便(たより)もてきぬ、うれしき文(ふみ)を。
  春のはつ花、にほひを尋(と)むる
  ああ、よろこびのつばくらめ。
 c.羅馬に往きしことある人はピアツツア・バルベリイニを知りたるべし。こは貝殼持てるトリイトンの神の像に造り做したる、美しき噴井(ふんせい)ある、大なる広こうぢの名なり。貝殼よりは水湧き出でてその高さ数尺に及べり。羅馬に往きしことなき人もかの広こうぢのさまをば銅板画にて見つることあらむ。かかる画にはヰア・フエリチエの角なる家の見えぬこそ恨なれ。
  (資料出所はいずれも省略する。)
 1a上田敏 b二葉亭四迷c森鴎外
 2a上田敏 b森鴎外 c二葉亭四迷
 3a二葉亭四迷b上田敏 c森鴎外
 4a二葉亭四迷b森鴎外 c上田敏
 5a森鴎外 b上田敏 c二葉亭四迷
 6a森鴎外 b二葉亭四迷c上田敏」
_________________
(答:3〇 ※a二葉亭四迷『あひびき』、b上田敏訳『海潮音』、c森鴎外訳『即興詩人』)〉

2020立命館大・全2/3:「
(中略)。ただし、義損金募集をめぐっては論争も起き、斎藤緑雨は、坪内逍遙や②幸田露伴らの寄稿した義捐小説集を、売名行為だと批判した。また明治ロマン主義の詩人で民権運動にも関わり、『文学界』を創刊したことでも知られる[ A ]は、義捐小説を茶番だとして、緑雨の主張に理解を示した。
問c 下線部②の幸田露伴は、森鴎外・斎藤緑雨とともに「三人冗語」なる合評を行い、吉原の地に生まれた少女の淡い恋と悲哀を描いた小説『たけくらべ』を激賞した。この小説の作者は誰か。もっとも適切な人名を答えよ。
問d 空欄[ A ]にあてはまる、もっとも適切な人名を答えよ。」
_________________
(答:問c樋口一葉、問d北村透谷〉〉

2020関西学院大・文2/3:「
問8.下線部j文学や美術に関する説明として、誤っているものを下記より選びなさい。
 ア.日本のロマン主義文学の事例としては、森鴎外の『舞姫』や樋口一葉の『たけくらべ』などがある。
 イ.フランス印象派の画風を学んだ黒田清輝は、白馬会を創立した。
 ウ.俳句の革新運動を行なった正岡子規は、雑誌『アララギ』を創刊した。
 エ.岡倉天心らは日本美術院を組織して、日本画の革新につとめた。」
_________________
(答:問8ウ× アララギ→ホトトギス)〉

2019同志社大・全2/5:「
 (中略)。『文芸倶楽部』はo樋口一葉の「たけくらべ」、国木田独歩の『源叔父』などを掲載、( p )の『高野聖』や田山花袋の『蒲団』などを載せた春陽堂の『新小説』と並び、新進作家の登竜門的存在になっていった。
【設問o】樋口一葉の「たけくらべ」は、『文芸倶楽部』に掲載される前に、ある雑誌に断続的に連載されていた。北村透谷らが創刊した月刊文芸誌で、ロマン主義文学の母体となったものは何か。次のうちから1つえらべ。
 1.明星 2.文藝春秋
 3.文学界 4.白樺
【設問p】空欄( p )には、ロマン的・幻想的な世界を華麗な文章で表現する作家が入る。その作家名を漢字3字で記せ。」
_________________
(答:問o3、問p泉鏡花)〉

2018関西学院大・教育済国際社会神総合2/2:「
問5.下線部e演劇界にも新たな風が吹いたに関する説明として、正しいものを下記より選びなさい。
 ア.勧善懲悪主義の戯作を書いた坪内逍遙は、西洋の文芸理論を批判した。
 イ.二葉亭四迷の『浮雲』は、写実主義の作品であり、言文一致体で書かれた。
 ウ.自然主義の影響を受けた樋口一葉は、『たけくらべ』で近代女性の悲哀を描いた。
 エ.自然主義の石川啄木は、晩年ロマン主義に転向して雑誌『明星』の誌上で活躍した。」
_________________
(答:問5イ〇 ※ア×批判してない、ウ×自然主義→ロマン主義、エ×転向していない)〉

2017学習院大・経済:「
 明治時代になると、近代化の時代に生きた文豪森鴎外は『舞姫』を残している。『舞姫』の舞台は鴎外が留学した(16)〔イ)アメリカ ロ)イギリス ハ)ドイツ ニ)フランス ホ)ロシア〕であった。西欧のさまざまな文化を学んで取り入れる必要のあった明治政府は、欧米諸国に多くの留学生を送り込んだ。鴎外もこうした留学生の一人である。医学の分野では(16)に学ぶところが多かったようで、陸軍の軍医だった鴎外は医学を学ぶために(16)にやってきた。(16)からは外国人教師として(17)〔イ)クラーク ロ)フェノロサ ハ)ベルツ ニ)ボアソナード ホ)モース〕が東京医学校(のちに東京大学医学部に改編)に招かれている。また、(16)には、その後に憲法調査のために伊藤博文も滞在したほか、長州藩出身で後に首相をつとめた(18)〔イ大隈重信 ロ桂太郎 ハ西園寺公望 ニ黒田清隆 ホ陸奥宗光〕も留学していた。」
_________________
(答:16ハ、17ハ、18ロ)〉

2017大学入試センター・日本史B:「
問5.下線部dその様子は出版物を通じて人々に伝えられたに関連して、明治期の出版や文化について述べた文として正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
 ① 『中央公論』に掲載された民撰議院設立建白書は、自由民権運動が広がるきっかけとなった。
 ② 新聞紙条例にもとづき、横浜毎日新聞が創刊された。
 ③ 北村透谷は『文学界』の誌上で、人間の感情を重視するロマン主義を説いた。
 ④ 大衆娯楽雑誌として『キング』が創刊され、多くの読者を獲得した。」
_________________
(答:問5③○ ※①×『中央公論』→『日新真事誌』、②×新聞紙条例は言論弾圧条例、④×『キング』は明治期ではなく1924(大正13)年創刊)〉

2016明治大・経営:「
以下の史料を読み、設問に答えなさい。
【史料】
 諸君、幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀反である。「身を殺して魂を殺す能はざる者を恐るゝ勿れ」肉體の死は何でも無い。恐るべきは霊魂の死である。人が教へられたる信條のまゝに執着し、言はせらるゝ如く言ひ、爲せらるゝ如くふるまひ、型から鋳出した人形の如く形式的に生活の安を偸んで、一切の自立自信、自化自發を失ふ時、卽ち是れ霊魂の死である。我等は生きねばならぬ。生きる爲に謀叛しなければならぬ。
(中略)
 諸君、幸徳君等は亂臣賊子として絞臺の露と消えた。其行動について不滿があるとしても、誰か志士として其動機を疑ひ得る。( ア )も逆賊であった。然し今日となつて見れば、逆賊でないこと( ア )の如き者がある乎。幸徳等も誤って亂臣賊子となった。然し百年の公論は必其事を惜むで其志を悲しむであらう。要するに人格の問題である。諸君、我々は人格を研くことを怠つてはならぬ。
(『謀叛論』より)
問1 史料(『謀叛論』)の著者は小説家で、『不如帰』などの小説を著したことで知られる。この著者の名前をA~Dの中から一つ選べ。
 A北村透谷 B正岡子規 
 C森鴎外  D徳冨蘆花
問6 史料の中の空欄( ア )に記されている人物は、明冶政府の参議であったが征韓論に敗れて下野した。不平士族に擁されて1877年に挙兵し、政府軍に敗れて自刃した。この人物は誰か。当てはまる名前をA~Dの中から一つ選べ。
 A江藤新平 B副島種臣
 C前原一誠 D西郷隆盛」
_________________
(答:問1D、問6D)〉

2015関西大・済文社会2/1:「
(C)1890年代には、ロマン主義文学が日本でもさかんになった。その拠点となった『文学界』は、自由民権運動への参加を経てキリスト教に入信した ③{(ア)徳富蘆花(イ)山田美妙(ク)北村透谷}らが1893年に創刊した。彼の代表的評論には、『内部生命論』や『厭世詩家と女性』がある。」
_________________
(答:③ク)〉

2013青山学院大・文:「
問12.この詩の内容は、日露戦争に対する反戦詩である。同じように反戦的な「お百度詣で」という長編詩の作者を、次の選択肢の中から選び、マークしなさい。
 ①大塚楠緒子 ②平塚らいてふ
 ③樋口一葉 ④幸田文」
_________________
(答:問12①)〉

2013明治大・商:「
 鍋はぐつぐつ煮える。牛肉の紅は男のすばしこい箸で反される。白くなった方が上になる。斜に薄く切られた、ざくと云う名の葱は、白い処が段々に黄いろくなって、褐色の汁の中へ沈む。箸のすばしこい男は、三十前後であろう。晴着らしい印半纏を着ている。傍に折鞄が置いてある。酒を飲んでは肉を反す。肉を反しては酒を飲む。
  (初出『心の花』14巻1号、1910年)
 上の一文は明治時代を代表する小説家で、島根県津和野出身の[ オ ](1862~1922)の短編、「牛鍋」の一部であるが、ここでの牛肉はやはり普段口にすることは少ない「大変なごちそう」としての代表的な食物として描かれている。」
_________________
(答:オ森鴎外)〉

◇近現§144.自然主義の覚え方(明治文学・2人)◇C

[ゴロ]父さんの/あたま固いは/自然だよ
(島崎藤村(とうそん))(田山花袋(たやまかたい))(自然主義)

[句意]世の父さんというものは頭が固いのは普通、自然だ、という諦めの句。

[point]
1.自然主義の主な文学者に、島崎藤村田山花袋がいる。
[解説]
1.島崎藤村(1872~1943)は、詩人、小説家。信州木曽の中山道馬籠(まごめ)宿の生まれ。北村透谷の『文学界』に参加し、『若菜集』を出し、ロマン主義の詩人としてスタート。やがて部落解放問題を扱った小説『破戒』によって作家としての地位を確立、自然主義文学の先駆となる。ほかに歴史小説『夜明け前』など問題作を多数発表した。
2.田山花袋(1872~1930)は、小説家、群馬県館林藩の下級武士の家に生まれる。尾崎紅葉の指導を受け、詩や評論を発表。やがてフランス自然主義の影響を受け、『蒲団』を書き文壇での地位を確立。代表作はほかに『田舎教師』など。
3.自然主義の文学者には、2人の他に国木田独歩・徳田秋声・正宗白鳥がいる。国木田独歩の代表作は『武蔵野』。徳田秋声の代表作は『黴(かび)』正宗白鳥の代表作は『何処(どこ)へ』。

2020関西大・社安商総合文法2/4:「
 日露戦争前後になると、フランス・ロシアの自然主義文学の影響を受け、田山花袋の『( 5 )』や島崎藤村の『破戒』が発表され、自然主義が文壇の主流となった。
_________________
(答:5『蒲団』)〉

2019同志社大・全2/5:「
 その春陽堂から、1897(明治30)年、島崎藤村は( q )を出版、同時代の無数の青年たちに深い感動と共感をひき起す。前近代的抑圧や権力による道徳的制約に悶々としつつ、近代的自我に目覚め、青春の情感を満身にみなぎらせていた日清戦後の彼らにとって、( q )の生命感にあふれる51編の叙情詩は、すべておのれの感情の詩的形象にほかならなかったのであった。
 だが近代的自我を前提とした近代市民的あり方の貫徹が、いかに日本的な「近代」社会において困難であったかは、「平民社」同人の例を引くまでもない。社会的な広がりをもった『破戒』(1906年)から私小説的な『春』(1907年)への藤村の旋回も、その困難性を如実に物語っていた。」
_________________
(答:q『若菜集』)〉

2013関西学院大・済総合国際:「
問 次の文章a・bをよく読み、各々の正誤を判定し〇×で示せ(問題形式変更…東海林)。
 b.日中戦争期になるとプロレタリア文学運動は弾圧によって壊滅し、文学者らの戦争協力団体である日本文学報国会が結成された。島崎藤村の『夜明け前』は当時の戦争文学の代表作である。」
_________________
(答:×、※『夜明け前』は幕末から明治の激動期を描いている)〉

2012立教大・現代心理社会コミュ福:「
問9.小作農民を題材とした小説「土」を著した人物は誰か。次のa~dから1つ選べ。
 a.尾崎紅葉 b.田山花袋
 c.長塚節  d.森鴎外」
_________________
(答:c)〉


◇近現§145.ロマン詩の覚え方(明治近代詩・3人) ◇C

[ゴロ]父さんは/ローマ市井戸番で/過ぎた給金
(島崎藤村)(ロマン詩土井晩翠(つちいばんすい))(薄田泣菫(すすきだきゅうきん))

[句意]お父さんはローマ市の井戸の番人で過ぎたつまり過大な給金を貰っている、というやや意味不明の句。

[point]
1.明治の文学でロマン詩の分野で活躍したのは、島崎藤村・土井晩翠・薄田泣菫の3人である。
[解説]
1.島崎藤村は新体詩(欧米の詩の影響を受けた新形式の詩)を開き、芸術性の高い創作詩を発表。代表作『若菜集』
2.土井晩翠(つちいばんすい)(1871~1952)。代表作『天地有(てんちうじょう)情』。作詞の『荒城の月』で名高い。
3.薄田泣菫(すすきだきゅうきん)(1877~1945)。代表作『白羊宮(はくようきゅう)』。

2019同志社大・全2/5:「
 その春陽堂から、1897(明治30)年、島崎藤村は( q )を出版、同時代の無数の青年たちに深い感動と共感をひき起す。前近代的抑圧や権力による道徳的制約に悶々としつつ、近代的自我に目覚め、青春の情感を満身にみなぎらせていた日清戦後の彼らにとって、( q )の生命感にあふれる51編の叙情詩は、すべておのれの感情の詩的形象にほかならなかったのであった。
 だが近代的自我を前提とした近代市民的あり方の貫徹が、いかに日本的な「近代」社会において困難であったかは、「平民社」同人の例を引くまでもない。社会的な広がりをもった『破戒』(1906年)から私小説的な『春』(1907年)への藤村の旋回も、その困難性を如実に物語っていた。」
_________________
(答:q『若菜集』)〉

2017関西大・済社政策文2/1:「
(E)日清戦争前後には、ロマン主義文学が日本でもさかんになった。(5)((ア)北村透谷(イ)伊藤左千夫(ウ)島崎藤村)は、『若菜集』によって新体詩人としての名声を得、与謝野晶子は『明星』誌上で活躍した。」
_________________
(答:5ウ)〉

◇近現§146.上田敏の覚え方(明治近代詩・象徴詩)◇C

[ゴロ]会長の/焼酎の/上だ
海潮音)(象徴詩)(上田敏)

[句意]会長のもってきた焼酎の瓶は上にある、という句

[point]
1.象徴詩の上田敏は訳詩集『海潮音』で知られる。
[解説]
1.上田敏(うえだびん)(1874~1916)は、詩人・評論家。美しい韻律の名訳の訳詩集『海潮音(かいちょうおん)』で知られる。

2020慶応大・経済2/13:「
問7(5)下線部βに関連して、森鴎外によるものをはじめとして、明治時代に多くの翻訳書が出版された。次の資料a~cは、それぞれ明治時代に刊行された翻訳書からの抜粋である(必要に応じて表現を改めた)。それぞれの翻訳書の訳者名の組み合わせとして適切なものを、下の1~6から選びなさい。
a.秋九月中旬といふころ、一日自分がさる樺の林の中に座していたことが有った。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま暖かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合ひ、あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思ふと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、無理に押し分けたやうな雲間から澄みて怜悧(さかし)し気に見える人の眼の如くに朗らかに晴れた蒼空(あおぞら)がのぞかれた。
b.弥生(やよひ)ついたち、はつ燕(つばめ)、
  海のあたなの静けき国の
  便(たより)もてきぬ、うれしき文(ふみ)を。
  春のはつ花、にほひを尋(と)むる
  ああ、よろこびのつばくらめ。
c.羅馬に往きしことある人はピアツツア・バルベリイニを知りたるべし。こは貝殼持てるトリイトンの神の像に造り做したる、美しき噴井(ふんせい)ある、大なる広こうぢの名なり。貝殼よりは水湧き出でてその高さ数尺に及べり。羅馬に往きしことなき人もかの広こうぢのさまをば銅板画にて見つることあらむ。かかる画にはヰア・フエリチエの角なる家の見えぬこそ恨なれ。
  (資料出所はいずれも省略する。)
 1a上田敏 b二葉亭四迷c森鴎外
 2a上田敏 b森鴎外 c二葉亭四迷
 3a二葉亭四迷b上田敏 c森鴎外
 4a二葉亭四迷b森鴎外 c上田敏
 5a森鴎外 b上田敏 c二葉亭四迷
 6a森鴎外 b二葉亭四迷c上田敏」
_________________
(答:問7(5)3〇 ※a二葉亭四迷『あひびき』、b上田敏訳『海潮音』、c森鴎外訳『即興詩人』)〉

2016明治大・農:「
問10 下線部(ク)日露戦争に関連して、ポーツマス条約が調印された1905(明治38)年に発表された文学作品と作者の組み合わせとしてもっとも適切なものを下記から一つ選べ。
 A小林多喜二『蟹工船』
 B島崎藤村『夜明け前』
 C火野葦平『麦と兵隊』
 D上田敏『海潮音』
 E太宰治『斜陽』」
_________________
(答:D〇 ※『蟹工船』(1929年)、『夜明け前』(1932年)、『麦と兵隊』(1938年)、『斜陽』(1947年))〉

◇近現§147.ロマン主義短歌の覚え方(与謝野晶子・石川啄木)◇C

[ゴロ]石川卓坊と/よその晶子の/ロマンスは/明星
石川啄木)(与謝野晶子)(ロマン主義)(明星

「句意」石川(県の)卓坊と他所の(県の)晶子のロマンスは、明星つまり明るい話題だ、という句。誰でも知ってる2人の名前ですが一応ゴロ句を作りました、「明星」を入れて。

[point]
1.ロマン主義短歌(和歌)の与謝野晶子石川啄木は、『明星』誌上で活躍した。和歌には定型の短歌と定型にとらわれない長歌がある。

[解説]
1.与謝野晶子(1878~1942)は、夫の与謝野鉄幹が主宰する、雑誌『明星』の誌上で活躍した。『明星』は、ロマン主義の運動の中心となった。石川啄木もはじめここに発表。第一歌集『みだれ髪』。女性の自我の高揚が大胆に情熱的にうたわれている。
2.石川啄木(1886~1912)は、歌人・詩人。ロマン主義の明星派から出発。しかし次第に社会の不条理に対する批判に傾斜していき『一握の砂(いちあくのすな)』『悲しき玩具』など独自の生活を見つめた短歌・詩を発表。大逆事件に評論『時代閉塞の現状』をあらわす。

2021法政大・経済現代福祉社会2/9:「
問3 日露戦争開戦後、「君死にたまふこと勿れ」とうたう反戦詩を雑誌に発表した歌人とその雑誌名の組み合わせとして正しいものを、以下のア~エから一つ選べ。
 ア 与謝野晶子 -『明星』
 イ 与謝野晶子 -『太陽』
 ウ 大塚楠緒子 -『明星』
 エ 大塚楠緒子 -『太陽』」
_________________
(答:問3ア)〉

2020同志社大・経済文2/6:「
「大逆事件が捏造されたものであること、その冤罪性をいち早く見抜いたのは( コ )だった。( コ )は評論だけでなく、大逆事件の犠牲者たちに共感する詩「ココアのひと匙」を発表している。当時の文学者たち、与謝野鉄幹、与謝野晶子、( サ )、中里介山、森鴎外、正宗白鳥も気付いていた。しかし、作品の内面に沈潜し、直接的に表面には現れにくいものであった。
【設問コ】空欄( コ )には、評論『時代閉塞の現状』を書き、かねてより抱いていた社会主義への関心を大逆事件によって深めた歌人・詩人が入る。次の語群から選べ。
 1.上田敏 2.石川啄木
 3.北村透谷 4.北原白秋
【設問サ】空欄( サ )には、戦前・戦後の風俗誌として貴重な『断腸亭日乗』を著した自然主義的作風の作家が入る。次の語群から選べ。
 1.永井荷風 2.菊池寛 
 3.吉川英治 4.大佛次郎」
(答:問コ2、問サ1)〉

2018関西学院大・教育済国際社会神総合2/2:「
問5.下線部e演劇界にも新たな風が吹いたに関する説明として、正しいものを下記より選びなさい。
 ア.勧善懲悪主義の戯作を書いた坪内逍遙は、西洋の文芸理論を批判した。
 イ.二葉亭四迷の『浮雲』は、写実主義の作品であり、言文一致体で書かれた。
 ウ.自然主義の影響を受けた樋口一葉は、『たけくらべ』で近代女性の悲哀を描いた。
 エ.自然主義の石川啄木は、晩年ロマン主義に転向して雑誌『明星』の誌上で活躍した。」
_________________
(答:問5イ〇 ※ア×批判してない、ウ×自然主義→ロマン主義、エ×転向していない)〉

2017早稲田大・商:「
問G 下線部ト日露戦争に到る記述に関して、正しいものを2つマークせよ。
 1.対露同志会は対外硬同志大会を開催して、対露強硬論を主張した。
 2.結成された平民社は日刊『平民新聞』を発刊し、日露非戦論を展開した。
 3.与謝野晶子は『太陽』に「君死にたまふこと勿れ」を表題とする反戦詩を、発表した。
 4.戸水寛人ら七博士は対露強硬論の意見書を桂太郎首相、小村寿太郎外相らに提出 した。
 5.『時事新報』に勤めていた内村鑑三は同紙が主戦論に転じると、非戦論の立場から同社を去った。
_________________
(答:1・4、※2×日刊→週刊、3×『太陽』→『明星』)、5×『時事新報』→『万朝報』)〉

2017中央大・法:「
 ④日英同盟が結ばれてもロシアは満州に駐兵を続けたので、日本のロシア不信は強まり、1903年には開戦の不安が広まった。日本国内では、対露同志会など対外硬派の運動により主戦論が高まった。
問5.下線部④日英同盟に関連する次の説明のうち、誤っているものを2つ選べ。
 a.日露協調論の立場をとっていた陸羯南も、義和団事件をきっかけにロシアが満州を占領すると、対露強硬論に転じた。
 b.戸水寛人ら東京帝国大学などの七博士が強硬な主戦論を唱え、世論を刺激した。
 c.与謝野晶子は、「君死にたまふこと勿れ」とうたう反戦詩を雑誌『明星』に発表した。
 d.日本政府内には、山県有朋・小村寿太郎を中心にロシアと協商を結び相互の譲歩により両国間の問題を解決しようという考えもあったが、実現しなかった。
 e.内村鑑三も、幸徳秋水・堺利彦と同じく社会主義の立場から反戦論を唱え、彼らの結社に加わった。」
_________________
(答:d×※山県・小村は日露同盟論。日露協商論は伊藤博文らが唱えた。e×内村は社会主義者ではない)〉

2016国学院大・全学部:「
問2 下線部(62)開戦論の立場をとらなかった人物として最もふさわしいものを、次のア~オの中から1つ選べ。
 ア 戸水寛人 イ 徳富蘇峰
 ウ 富井政章 エ 金井延
 オ 与謝野晶子」
_________________
(答:問2オ)〉

2016慶応大・経済B方式:「
 明治時代に入って、(中略)……知識人の女性を中心に、D女性の地位向上のための活動が行われるようになった。
問11 下線部Dに関連して、女性の解放運動について述べた次の文章を読んで、以下の問に答えなさい。
 次の資料は、( a )らが設立した文学集団の機関誌の創刊号に( a )が記したものの一部である(適宜表記を改め、出典は解答のヒントとなるため、省略した)。
 元始、女性は実に( b )であった。真正の人であった。……さてこゝに「青鞜」は初声を上げた。現代の日本の女性の頭脳と手によって始めて出来た「青鞘」は初声を上げた。……
 この創刊号には、のちに( a )と母性保護論争をたたかわした( c )の「そぞろごと」と題する詩が掲げられている。( a )らによって( d )が設立され、参政権の要求などの運動を進めたことなどにより、女性の政治運動への参加を禁じた( e )第5条が改正され、女性も政治演説会に参加できるようになった。
問1 文章中のaに入る人名、bに入る語句、cに入る人名、eに入る法律名を、記入しなさい。
問2文章中の(d)に入る組織名を、下から選べ。
 1.愛国婦人会 2.新婦人協会
 3.赤瀾会 4.大日本婦人会
 5.婦人参政権獲得期成同盟
 6.婦選獲得同盟」
_________________
(答:問1a平塚らいてう(明)、b太陽、c与謝野晶子、e治安警察法、問2→2)〉

2014早稲田大・教育:「
B 平塚さんを主唱者として新婦人協会が成立したということについて、私は心の底から多大の喜びを感じました。(中略)平塚さんたちは「治安警察法第五条の修正」と「花柳病男子の結婚制限」という二種の請願を貴衆両院に提出することを以て第一著の運動とされるのでした。私はそれに対して多少の遺憾があります。
C 平塚さんは「母は生命の源泉であって、婦人は母たることに由って個人的存在の域を脱して、社会的な、国家的な存在となるのでありますから、母を保護することは婦人一個の幸福のために必要なばかりでなく、その子供を通じて、全社会の幸福のため、全人類の将来のために必要なことであります」という理由から、「母体に妊娠、分娩、育児期における生活の安定を与えるよう、国庫に由って補助すること」を主張されております。これに由って見ると、平塚さんは母性を過大に尊重しておられることが解ります。
問2 BとCの筆者は同一人物である。筆者の氏名を漢字で記せ。
_________________
(答:問2与謝野晶子 ※やや難。母性保護論争(働く女性や子育てに関わる女性・母親の地位・生活保障についての論争)において、平塚らいてうは、妊娠・出産・育児期の女性は国家によって保護されるべきとする母性中心主義を唱えた。これに対し与謝野晶子は、国家による母性保護を批判し、婦人の経済的自立を主張した。)〉

2013青山学院大・文:「
【史料】
 君死にたまふこと勿れ(旅順口包囲軍の中に在る弟を欺(なげ)きて)
 あゝをとうとよ君を泣く
 君死にたまふことなかれ
 末に生れし君なれば
 親のなさけはまさりしも
 親は刃をにぎらせて
 人を殺せとをしへしや
 人を殺して死ねよとて
 二十四までをそだてしや
 堺の街のあきびとの
 旧家をほこるあるじにて
 親の名を継ぐ君なれば
 君死にたまふことなかれ
 (以下略)
問10.発表時の掲載誌を記しなさい。
問11.この詩の作者は、情熱的な短歌でもよく知られている。その歌集を、次の選択肢の中から選べ。
 ①浮雲 ②みだれ髪 ③若菜集
 ④不如帰
問12.この詩の内容は、日露戦争に対する反戦詩である。同じように反戦的な「お百度詣で」という長編詩の作者を、次の選択肢の中から選び、マークしなさい。
 ①大塚楠緒子 ②平塚らいてふ
 ③樋口一葉 ④幸田文」
_________________
(答:問10明星、問11②、問12①)〉

◇近現§148.正岡子規と門下の覚え方(2誌2人)◇C

[ゴロ]死去しても/いと幸有らラギ
(正岡子規・高浜虚子)(ホトトギス)(伊藤左千夫)(アララギ

[句意]死去しても(あの世では)いと幸あれ、という弔辞に勢いで「ラギ」をつけた句。

[point]
1.正岡子規とその門下に俳句誌「ホトトギス」の高浜虚子、短歌誌「アララギ」の伊藤左千夫がいる。
[解説]
1.正岡子規(1867~1902)は、1892年、陸羯南経営の新聞「日本」に入社。新聞記者として日清戦争に従軍し喀血。以後ほとんどの文学活動を病床で激痛にくるしみ行った。正岡子規は陸羯南に私淑し、2人の関係は文学史に名高い。羯南は病魔に冒された子規を献身的に支え、子規は絶筆となった随筆『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』などを「日本」に連載している。「牀」は「床」。
2.子規俳句の革新を唱え、短歌では万葉調の復興を進め、伝統文芸の革新をめざした。1897(明治30)年、俳句雑誌「ホトトギス」を創刊し、1899年、写生短歌による短歌の革新を目指して根岸短歌会を結成。子規の評論に『歌よみに与ふる書』、歌集に『竹の里歌』がある。
3.「ホトトギス」は、のちには門下の高浜虚子(1874~1959)に引き継がれた。
4.また短歌では、子規の門下から伊藤左千夫(1864~1913)や長塚節(1879~1915)らが出て、1908(明治41)年には短歌雑誌「アララギ」が創刊された。「アララギ」は根岸短歌会系の歌人をまとめ左千夫が中心になって創刊した歌誌。子規の写実歌風を継承。

2021法政大・経営人間環境文2/7:「
問12 下線部⑪の感染に関連して、つぎのア~エのなかから正しいものを一つ選べ。
 ア 1894年、北原白秋は今日感染症の一つとされるペストが流行する香港に出張、調査し、その病原体を発見した。
 イ 1897年、志賀直哉は今日感染症の一つとされる赤痢の病原体を発見した。
 ウ 随筆『病牀六尺』を残した西園寺公望は、今日感染症の一つとされる結核を患い、1902年に亡くなった。
 エ 1918年から世界中で猛威を振るったインフルエンザは、今日感染症の一つとされるが、山内保らはその病原体を発見した。」
_________________
(問12エ〇 ※ア×北原白秋→北里柴三郎、イ志賀直哉→志賀潔、ウ×西園寺公望→正岡子規)〉

2020関西学院大・文2/3:「
問8.下線部j文学や美術に関する説明として、誤っているものを下記より選びなさい。
 ア.日本のロマン主義文学の事例としては、森鴎外の『舞姫』や樋口一葉の『たけくらべ』などがある。
 イ.フランス印象派の画風を学んだ黒田清輝は、白馬会を創立した。
 ウ.俳句の革新運動を行なった正岡子規は、雑誌『アララギ』を創刊した。
 エ.岡倉天心らは日本美術院を組織して、日本画の革新につとめた。」
_________________
(答:問8ウ× アララギ→ホトトギス)〉

2020法政大・経済社会現福2/9:「
問11 下線部(f)マスメディアに関連して、以下の問いに答えよ。
 明治時代に創刊された雑誌名とその創刊に関わった人物の組み合わせとして誤つているものを、以下のア~エから一つ選べ。
 ア『国民之友』三宅雪嶺
 イ『明星』与謝野鉄幹
 ウ『青鞜』平塚らいてう。
 エ『ホトトギス』正岡子規」
_________________
(答:ア×三宅雪嶺→徳富蘇峰)〉

◇近現§149.歌舞伎の団菊左時代の覚え方(歌舞伎改革運動)◇C

[ゴロ]急恋(きゅうこい)で/縁談キックさ
代目・代目・代目)(市川十郎・尾上五郎・市川団次)
[句意]他の人と急に恋に落ちたことで縁談はけっ飛ばす、という句。

[point]
1.9代市川団十郎5代尾上菊五郎、初代市川左団次の3人が団菊左時代を現出した。
[解説]
1.1877年前後から始まった歌舞伎界の革新運動演劇改良運動が始まる。江戸時代に「吉原」などと同じ悪所(あくしよ)と見なされた歌舞伎を、文明開化の波に乗り西洋演劇の手法を取り入れ、高尚な演劇に革新しようとしたもの。運動が進められた結果、歌舞伎の社会的地位の向上がはかられた。
2.9代市川団十郎(1838~1903)らが演劇改良運動をすすめ、かれと5代尾上菊五郎(1844~1903)・初代市川左団次(1842~1904)の3人が競う団菊左時代を現出した。
3.運動は脚本の面から河竹黙阿弥福地源一郎らが支援した。
4.しかし一面歌舞伎本来の良さは、その江戸時代的な不条理、おどろおどろしさなどにあり、歌舞伎の本来の良さが失われ、油の抜けた「目黒のサンマ」(落語の代表的演目)のようになってしまったという批判もある。
5.9代目市川団十郎は、「劇聖」といわれた名優。7代目団十郎の五男。進取の気性に富み演劇改良運動の中心となる。史実に忠実に演じる活歴」を創始。
6.5代目尾上菊五郎は、屋号を音羽屋といい、幕末から明治にかけて活躍。3代目菊五郎の孫。河竹黙阿弥の脚本による世話物の演技に優れる。
7.初代市川左団次は、大坂生まれで、屋号高島屋。立役(たちやく)(善人の男の主役)を得意とした人気役者。93年明治座を創設・経営した。
8.河竹黙阿弥(1816~93)は、江戸日本橋生まれ。幕末期は伝統的な歌舞伎脚本を書く。明治の演劇近代化の波の中で、一転して日本的なものを払拭(ふっしょく)して西洋的な合理性を加え、市井の社会を写実的に描く。
9.福地源一郎(1841~1906)は、長崎県出身。1882年、政府与党をめざし立憲帝政党結成。主筆、やがて社長に就任した「東京日々新聞」社を政府の御用新聞化する。1888年、経営不振から東京日日新聞を退社後、東京の木挽町に歌舞伎座を創設。歌舞伎座の座付作者として活歴物などの脚本を多数執筆し、九代目市川団十郎らがこれを演じた。

2022早稲田大・文2/17:「
問7.下線b歌舞伎芝居とその役者に関連して、図1(東海林省略)は、明治時代の歌舞伎界の発展に貢献した名優が、家代々の当たり芸「暫(しばらく)」を演じる姿の銅像である。その人名は何か。1つ選べ。
 ア.市川鰕蔵(五代目市川団十郎)
 イ.初代市川左団次
 ウ.九代目市川団十郎
 エ.五代目尾上菊五郎
 オ.初代坂田藤十郎」
_________________
(答:問7ウ〇)〉

2020関西学院大・文2/3:「
問9.下線部k新劇に関する説明として、正しいものを下記より選びなさい。
 ア.河竹黙阿弥が文明開化の風俗を基にした脚本を発表し、それらが代表作となった。
 イ.川上音二郎の壮士芝居から発展した。
 ウ.坪内逍遥らの文芸協会や小山内薫らの自由劇場によって上演された。
 エ.島村抱月と小山内薫は、築地小劇場を東京に設立した。」
_________________
(答:ウ〇、※ア×河竹黙阿弥は歌舞伎脚本家、イ×、エ×島村抱月→土方与志)〉

2019法政大・経済現代福祉2/9:「
問16.下線部(i)江戸後期には※※すぐれた歌舞伎や狂言が人気を得てに関連する説明として誤っているものを、以下のア~エから一つ選べ。
 ア.盗賊を主人公とした作品で人気を博した河竹黙阿弥がいる。
 イ.『東海道四谷怪談』は鶴屋南北の作品である。
 ウ.9代目市川団十郎らが活躍し、「団菊左時代」とよばれた。
 エ.7代目市川団十郎や尾上・沢村・中村らの人気役者が演じていた。」
_________________
(答:問16ウ× ※ウは明治時代)〉

2018関西学院大・教育済国際社会神総合2/2:「
維新以後軽視された伝統的な芸術の復興も図られ、c日本画や彫刻などの美術界をはじめ、d演劇界にも新たな風が吹いた。またe文学界でも近代文学が形成された。
問4.下線部d演劇界にも新たな風が吹いたの説明として、正しいものを下記より選びなさい。なお、すべて誤っている場合は「エ」をマークしなさい。
 ア.河竹黙阿弥は、文明開化の風俗を取り入れた新派劇を発表した。
 イ.9代目市川団十郎・5代目尾上菊五郎・初代坂田藤十郎の名優が出て、明治中期には歌舞伎の黄金期が訪れた。
 ウ.西洋の近代劇を翻訳・上演した小山内薫の文芸協会は、新劇を上演した。」
_________________
(答:問4エ ※ア×河竹黙阿弥は歌舞伎脚本家、イ×初代坂田藤十郎→初代市川左団次、ウ×文芸協会は坪内逍遙、小山内薫は自由劇場あるいは築地小劇場)〉

■明治・美術 日本画 西洋画
1878 フェノロサ来日、日本美術を高く1876 工部美術学校設立、フォンタネージ明
   評価
  来日

1887 東京美術学校創立、校長
   高橋由一(たかはしゆいち)「鮭」

  岡倉天心(89開校)
   浅井忠「収穫」・「春畝」

  狩野芳崖「悲母観音」
1889 明治美術会作創立(脂派)

  橋本雅邦「竜虎図」
1896 白馬会結成(外光派)、東京美術学校
1898 日本美術院創立
  に西洋画科設置
術  菱田春草「落葉」「黒き猫」
   黒田清輝(くろだせいき)「読書「湖畔」
  横山大観「無我」「生々流転」
   久米桂一郎
  下村観山「大原御幸」
   青木繁「海の幸」
1907 文部省美術展覧会(文展)
   藤島武二「天平の面影」
1919 帝国美術院展覧会(帝展)   和田三造「南風」

◇近現§150.フェノロサの覚え方(3人1校)

[ゴロ]笛ののろさが/法外おかしいと/(とんび)もわらう
フェノロサ)(狩野芳崖倉天)(術学校)

[句意]鈍くさい笛の演奏が、法外でおかしい、とんびも空でピーヒャラと笑っている、というナンセンスの句。
[解説]
1.フェノロサ(1853~1908)は、アメリカから東京大学哲学教師として来日。哲学・美学が専門で、岡倉天心とともに東京美術学校の創設(1887)に参画。西洋一辺倒の時代風潮のなかで日本のものを評価し、天心・狩野芳崖などとともに日本美術の復興に尽力した。1890年の帰国後は、ボストン美術館東洋部長に就任し、収集品を整理し日本美術の紹介に努めた。

2020慶応大・経済2/13:「
タゴール来日に関して述べた次の文章を読んで、問5~問6に答えなさい。解答は、設問で指定された場合を除いて、すべて番号で記入しなさい。
 1913年にアジアで初めてノーベル文学賞を受賞した詩人タゴールは、1916年5月に初来日し、熱狂的に迎えられた。滞在中には、実業家の渋沢栄一や大隈重信首相らと懇談するなどさまざまな人々と交流した。また、A日本美術院では芸術に関する講演を、東京帝国大学と慶応義塾ではナショナリズムに対する批判的な講演を行った。
問 下線部Aに関連して、次の文章を読んで、以下の問1、問2に答えなさい。
 タゴールは、1901年から1902年にかけてインドを訪れていた( ア )と親交を結んでいた。タゴールは、日本滞在中に、( ア )と親交があった実業家の原富太郎(三渓)の横浜の邸宅に長く滞在した。原邸で横山大観や( a )の作品を鑑賞したタゴールは、「彼らは西洋絵画を模倣せず、それでいて日本の伝統絵画をただ継承したわけでもない。彼らは慣習という幌から芸術を解放したのである」と感想を述べている。
 19世紀後半以降、日本美術の固有の価値が見直され、横山大観や( a )らが活躍していた背景には、動物学者・考古学者である( b )の推薦でアメリカから来日し、東京大学で教えていた( c )の強い影響があった。( c )と出会った( d )は、代表作品『悲母観音』を発表した。( c )は、( ア )と協力して( イ )の設立に尽力した人物でもある( ア )は( イ )の校長をつとめたが、横山大観や( a )らとともに1898年に日本美術院を設立し、活動の場を移した。
〔文中引用〕:タゴール著(丹羽京子訳)『新・完訳日本旅行者』2016年。
問1 文中の(ア)に入る人名、(イ)に入る学校名を記入しなさい。
問2 文中の(a)~(d)に入る人名を、次の1~9から選びなさい。(重複使用不可)
 1.狩野芳崖 2.黒田清輝
 3.コンドル 4.下村観山
 5.高村光雲 6.ナウマン
 7.フェノロサ
 8.フォンタネージ 9.モース」
_________________
(答:問1ア岡倉天心、イ東京美術学校、問2a4、b9、c7、d1〉)

2019中央大・法2/12:「
問7 下線部④西洋の学問や技術の導入のために政府機関や学校に多くの外国人教師が雇用されていたに関する次の説明のうち、正しいものには×、誤っているものには〇を付せ。
 a クラークが初代教頭として招かれた札幌農学校は、主にドイツ式の畜産技術や農場制度を導入する目的で開校された。
 b 動物学者のモースは、1877年に大森貝塚を発見し、発掘・調査した。
 c フェノロサは岡倉天心とともに、日本美術への西洋美術技法の導入を基本理念とする東京美術学校の設立に尽力した。」
_________________
(答:問7a×、b〇、c〇)〉

2019明治大・文2/13:「
 当初政府は、外国人教師に西洋美術を伝授させるかたちでの直接の受容をはかった。しかし、(オ)欧米における日本の伝統美術への関心の高さや、お雇い外国人らの活動などを背景に、[ c ]には、西洋美術を教育内容から除外する官立の美術専門学校を設立した。
 他方、民間においても岡倉天心が中心となって創設した[ d ]をはじめ、多くの美術団体が設立されていった。これらが競合するなかで、(カ)美術の各分野における多様な展開がみられた。
設問
問7.空欄cに入る年数として正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
 ①1877年 ②1887年 ③1897年
 ④1907年
問8.空欄dに入る語として正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
 ①明治美術会 ②東京美術学校
 ③工部美術学校 ④日本美術院
問9.下線部(オ)に関する文として誤っているものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
 ① フェノロサは、文人画を中心とする日本美術の復興を主張した。
 ② 1867年のパリ万国博覧会には日本から幕府、薩摩藩、佐賀藩が初参加し、フランスでジャポニスムが起きた。
 ③ 大森月塚を発掘したモースは、日本滞在中、数多くの陶磁器の収集をおこなった。
 ④ 開国後、浮世絵は海外にひろく紹介され、とくにヨーロッパの印象派画家たちに影響を与えた。」
_________________
(答:問7②、問8④、問9①× ※とくに狩野派に心酔)〉

2014明治大・情報コミュ:「
 美術に関係した“御雇外国人”の中には、日本への関心を強く持ち(エ)東京美術学校の設立に尽力した( d )や、「御真影」の元となった明治天皇の肖像画を作成した、もともと大蔵省で有価証券類の印刷原版の作成にかかわった銅版画家( e )などもいた。
問1 上記の文中の空欄(d、e)に入る人名を答えなさい。
問4 下線部(エ)東京美術学校の校長となり、のち『茶の本』などを英文で著し、日本文化を世界に発信した人物の姓名を記述解答欄に漢字で記入しなさい。
_________________
(答:問1dフェノロサ、eキヨソネ:本題には選択肢16項目あり。問4岡倉天心)〉

2013青山学院大・文:「
問1.図A(悲母観音図)を描いた人物を、次の選択肢の中から選び、マークしなさい。
 ①菱田春草 ②狩野芳崖
 ③高村光雲 ④岡倉天心
問2.問1の人物が創設に関わり、1887年に創立された学校の名を、次の選択肢の中から選び、マークしなさい。
 ①工部美術学校 ②東京芸術大学
 ③東京美術学校 ④日本美術学校」
_________________
(答:問1②狩野芳崖、問2③東京美術学校)〉


ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?