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東海林直人のゴロテマ日本史◇古代9(天暦の治~平将門)

※ 語呂合わせでテーマ史を記憶するので「ゴロテマ」です。

日本史試験では、暗記が大きなウェイトを占めています。事件・事項・人物・年代を覚えるのが第一歩。一問一答だけで、高校受験には足りるでしょう。しかし大学受験ともなれば、その知識の質を突いてきます。語句を流れの中において論述できるくらいになっていなければなりません。ここまできて漸く合格点をとれる準備が整ったことになります。

でもいざ本番になると、「江戸時代の~〇〇年から〇〇年の△△について述べよ」などで徳川将軍の順番に混乱が起きるでしょう。また「昭和〇〇年から〇〇年の……を述べよ」では歴代首相の就任順の記憶があやしくなることがあります。この些細なことが受験生の頭を悩ませます。「どういう順番だったかなあ!」 長文の問題文を読みすすめながら、頭が混乱してきます。まるで霧の中を歩いているようになることがあります。制限時間はどんどん経過します。これを曖昧にしたまま不安のなかで進めると論旨まで危うくなってきます。こういうパニックに陥りたくないですね。

じゃあもっと勉強しとくんだった? しかし「英語」も「数学」も時間がかかるのです。社会科にこれ以上の時間をかけられない、というジレンマに陥るでしょう。こういうとき確実な知識、たとえば「ゴロ」句で覚えていれば、事項の異同、順番などは迷わずoutputできます。

ゴロテマをやれば、問われたテーマに沿った語句・事項が自然に浮かんできます。そして、自分なりの考えで味付けをすればなんとか書けます。合格点にはギリギリとどくでしょう。日頃からゴロ句をたて糸に歴史を見る練習をするのです。自分なりの考えや感想を練習しておくとよいと思います。

※ S←A←B←C←Dは重要順ランクです※ 「note」は下線を引けないので太字を代用します(以下同じ)


◇古代81.天暦の治(村上天皇)の覚え方(2件)◇B

[ゴロ]無駄紙5千を/軽減たいほう
村上天皇)(後撰(ごせん)和歌集)(乾元大宝(けんげんたいほう))

[句意]無駄5千枚の紙を軽減したい、という句の末尾に勢いで「ほ」をつけたもの。

[point]
1.村上天皇の治世に、後撰和歌集の編纂、乾元大宝の鋳造があった。
[解説]
1.村上天皇(位946~967)の治世を過大評価して、後世天暦の治というが、政治の内実は荒れていた。
2.村上天皇時代に、後撰和歌集(951)が編纂され、 最後の本朝(皇朝)十二銭乾元大宝(958)が鋳造された。

2018早稲田大・政治経済:「
問3.下線部c乾元大宝を発布した天皇の治世は、その父の治世とともに、善政が行われた時代と賞されたが、この二人の天皇の治世に行われたことでないことはどれか。
 ア.三善清行により意見封事十二箇条が奏上された。
 イ.藤原時平の策略により菅原道真が大宰府に左遷された。
 ウ.六国史の最後となる『日本三大実録』が編纂された。
 エ.『後撰和歌集』が編纂された。
 オ.尾張国司の藤原元命が郡司・百姓等に訴えられ解任された。」
_________________
(答:オ× ※乾元大宝は村上天皇、よって父は醍醐天皇。オは988年で一条天皇の代)〉

2018立教大・全2/6:「
 近年、仮想通貨の流通が拡大して世間の注目を集めているが、わが国において通貨がいかなる変遷を経てきたのか振り返ってみよう。まず、わが国で最初に鋳造された銭貨と考えられるのが、7世紀後半の天武天皇時代に鋳造された( イ )である。ただし、( イ )は縁起物あるいは護符としても使われていたため、当時は十分に流通しなかったようである。その後、本格的かつ継続的に鋳造された銭貨は、708年に鋳造された( ロ )であり、①政府による政策的な後押しもあって限られた範囲で流通した。それ以降、さまざまな銭貨が政府により鋳造される。( ロ )の銅銭を含めて律令国家が12回にわたって鋳造した銅銭をまとめて本朝(皇朝)十二銭という。そのうち、12番目に鋳造された銅銭で、958年に、②村上天皇のもとで発行されたのは( ハ )である。このように、律令政府は新たな銅銭を繰り返し発行したが、新規に貨幣を発行する場合、旧銭の10倍の価値で適用する新銭を強制することもあった。その結果、新銭になるにつれ、形は小さく重さは軽く、かつ鉛などが多く含まれる傾向が強くなり、貨幣の価値体系がくずれて混乱が生じたため、社会の貨幣離れが進み、本朝(皇朝)銭の流通は衰退していった。
問1.下線部①に関する記述として正しくないのはどれか。
 a.京・畿内を中心とした地域の外では物品による交易もおこなわれていた
 b.政府は銭貨を蓄えて献上した額に応じて位階を授ける制度を定めた
 c.都の造営に雇われた労働者に対して銭貨が支給された
 d.庸・調を銭貨で支払うことを義務づけた
問2.この村上天皇に関する記述として正しいのはどれか。
 a.延喜の荘園整理令を発布し、律令政治の復興に努めた
 b.在任中に承平・天慶の乱がおこり、政情は不安定であった
 c.摂政や関白を任命せず、菅原道真を重用した
 d.天暦の治と呼ばれる天皇親政をすすめた」
_________________
(答:問1d〇、問2d〇 ※a×延喜は醍醐天皇、b×承平天慶の乱は朱雀天皇、c×宇多天皇)〉

2017学習院大・法:「
 藤原氏による摂関政治が続いたなかで、醍醐天皇とその子村上天皇は、摂政・関白をあらたには置かずに諸政策を進めた。村上天皇の死後は再び藤原氏が外戚として絶頂期を迎えた。前後の摂関政治にはさまれた醍醐・村上による政治は、天皇を中心にすえる政治を理想とする、後世の観点から「延喜・(8)〔イ天慶 ロ天暦 ハ延暦 ハ安和〕の治」と称えられた。_________________
(答:ロ〇)〉

2016関西大・全学部2/8:「
〔Ⅱ〕次のAの文の(1~5)に入れるのに最も適当な語句下記の語群(東海林省略)から選べ。
A 醍醐天皇は、藤原時平を左大臣、菅原道真を右大臣としたが、901年、藤原時平の策謀で、菅原道真は( 1 )に左遷された。道真は、学問・詩文に優れ、六国史の内容を分類・編年した史書『( 2 )』を編纂したことでも知られている。
 藤原時平は、政治を主導して律令制の立て直しのために班田の励行や、( 3 )の荘園整理令を出した。しかし、荘園の増加を抑制することはできなかった。この時代、地方の政治は混乱しはじめており、( 4 )は「意見封事十二箇条」を醍醐天皇に提出して対策を講じることを進言した。
 朱雀天皇の代には、時平の弟、忠平が摂政・関白となって政務を行った。この時期、海賊が横行し、地方では横暴を働く勢力が目立ってきた。 935年には、平将門が一族間の争いに端を発して兵を起こし、その後、常陸・下野・上野の国府を攻めた。平将門は、本拠の( 5 )に王城を置き、新皇と称した。」
_________________
(答:1大宰府、2類聚国史、3延喜、4三善清行、5下総(猿島)〉

2013慶応大・文:「
( A )に始まる皇朝十二銭の最後が10世紀半ばの( D )で、これをもって朝廷による貨幣発行は途絶えてしまう」
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(答:A和同開珎、D乾元大宝)〉

延喜天暦の治

◇古代82.摂政関白のはじめの覚え方◇A

[ゴロ]折檻(せっかん)は/乳房(ちぶさ)の(もと)つね
政・白)(良房基経

[句意](その)折檻は、乳房の基を抓(つね)るもの(だった)、という句。ちょっと刺激的だけど非常に良くできていると著者自画自賛の句。かーるく考えてほしい。

[point]
1.藤原良房は、858年に摂政に、藤原基経が、884年に関白になった。
[解説]
1.北家藤原冬嗣嵯峨天皇のあつい信任を得て蔵人頭になり、皇室と姻戚関係を結んだ。
2.ついでその子の藤原良房は、842(承和9)年の承和の変で藤原氏の中での北家の優位を確立する一方、(大伴)健岑橘逸勢ら他氏族の勢力をしりぞけた。858(天安2)年に幼少の清和天皇が即位すると、良房は天皇の外祖父として臣下ではじめて摂政の任をつとめ、866(貞観8)年の応天門の変では、伴・紀両氏を没落させた。
3.良房のあとを継いだ太政大臣藤原基経は、高齢の光孝大皇を擁立。光孝天皇はこれを感謝し、884(元慶8)年に基経を事実上の関白に任命した。さらに基経は、宇多天皇の即位直後に阿衡事件〔阿衡の紛議〕をおこし、888(仁和4)年、正式に関白に就任した。このあと藤原氏北家出身の摂政関白がつづき、北家は急速に強大化していく。

2017早稲田大・文化構想:「
 平安時代にあっては、古代の氏族であるa中臣連の系譜を引く藤原氏が次第に勢力を仲ばし、特に北家が天皇との結びつきを強めて大きな力を振うようになった。858(天安2)年に幼少の清和天皇を即位させた籐原良房は臣下ではじめて摂政となり、応天門の変で伴氏と紀氏を没落させた。さらに同じ北家の出身である[ A ]は光孝天皇の信を得て初めて関白となった。10世紀末から11世紀にかけて、b藤原道長は、4人の娘を皇后や皇太子妃にして権勢を振い、後の五摂家を生み出す摂関家の大きな流れを作る。
問1 下線aに関連して。大化改新の際、この氏族に属する中臣鎌足に推立されて即位した天皇は誰か。1つ選べ。
 ア 推古天皇 イ 舒明天皇
 ウ 天武天皇 エ 持統天皇
 オ 孝徳天皇
問2 空欄Aには人名が入る。該当する姓名を漢字4字で記入しなさい。
問3 下線bに関連して。彼が記述した日記をlつ選べ。
 ア『御堂関白記』 イ『小右記』
 ウ『玉葉』
 エ『大乗院寺社雑事記』
 オ『西宮記』」
_________________
(答:問1オ、問2藤原基経、問3ア)〉

2017関西大・全学部2/7:「
(D)藤原基経は光孝天皇の即位後、最初の関白となり、藤原氏による摂関政治の基礎を固めた。基経は宇多天皇の即位直後に、⑦{(ア)承和の変(イ)阿衡の紛議(ウ)応天門の変}という政治事件を起こして、天皇に圧力を加え、関白の権限を確実なものにした。」
_________________
(答:⑦イ)〉

2017関西学院大・全学部2/1:「
問2.下線部b良房に関連して、誤っているものを下記より選びなさい。
 ア.承和の変で藤原北家の地位を確立した。嵯峨天皇の信任を得て蔵人頭となった。
 ウ.応天門の変で伴・紀氏を没落させた。
 エ.娘明子を皇太子(のちの文徳天皇)の妃とした。」
_________________
(答:蔵人頭になったのは冬嗣)〉

2017早稲田大・商:「
問E 下線部ホ承和の変について述べた文として誤っているものはどれか。
 1.伴健岑が配流された。        
 2.道康親王が皇太子となった。
 3.藤原基経の陰謀と考えられている。 
 4.謀反を密告したのは阿保親王であった。
 5.橘逸勢が配流された。」
_________________
(答:問E3※良房の陰謀)〉

2017学習院大・法:「
 その後、藤原氏が外戚として力を持ち始める。文徳天皇の后に藤原良房の娘がなり、その子が清和天皇となる。藤原良房は清和天皇の摂政となった。さらに良房の甥の⑦〔イ藤原基経 ロ藤原忠平 ハ藤原道長 ニ藤原冬嗣〕は宇多天皇の関白になり、摂関政治の端緒となった。」
_________________
(答:⑦イ)〉

2017立教大・文:「
 藤原北家は冬嗣が嵯峨天皇の信任を得て⑤蔵人頭となり、天皇家と姻戚関係を結ぶことで勢力を伸ばしたが、その子良房は⑥承和の変、応天門の変により他氏出身の官人を排斥した。その地位を継いだ基経は、その後関白となるが、阿衡に任ずるとした( ハ )天皇による勅書に抗議してこれを撤回させ、政治的地位をより強化した。
問5.この官職⑤蔵人頭を設ける契機となった事件は何か。その名をしるせ。」
問6.⑥により退けられた人物は誰か。次のa~dから1つ選べ。
 a.紀夏井 b.橘逸勢
 c.伴善男 d.源高明」
_________________
(答:ハ宇多、問5平城太上天皇の変〔薬子の変〕、問6b)〉

_________________

2017近畿大・全1/29:「
問9.下線部(i)宇多の勅書を阿衡の紛議で撤回させた人物は誰か。次の①~④のうち最も適当なものを一つ選べ。
 ①藤原良房 ②藤原基経 ③藤原実頼 ④藤原忠平」
_________________
(答:②)〉

2016立命館大・全学部2/3:「
問j 下線部9宇多法皇の在位中に、藤原基経の関白補任の詔の表記に関して生じた事件を何というか。」
_________________
(答:阿衡事件〔阿衡の紛議〕)

北家と天皇の姻戚関係①

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